第七射撃/秋関予選前
月が変わって七月の第一週。藤枝はバイトからの帰宅後、間近に迫ったレポート作成に集中するために、図書館へ向かっていた。自宅だと集中できない、という大学生は藤枝だけではない。この時期の図書館は同じことを考える学生たちで溢れかえっていて、たとえ一人であろうと席の確保が難しいのだ。出来れば早い時間に家を出たかったが、バイトから帰って来てのんびりしている間に、すっかり時間が経ってしまった。我ながら情けない。
道すがら、人がまばらに歩いているのを見る。一人で歩いている者が多い。食堂周りにはこれから昼食を取ろうという集団もいる。図書館脇の木陰で談笑をする人の声が聞こえる。サークルの次の練習日をどうするかということで話し合っているようだ。もうじき昼休みになる構内には段々人が増えてきた。一先ず図書館に行く前に食事を取っておくのもいいかもしれないと思い、藤枝は購買へと向かう。適当なパンとお茶を買って店から出てきた後、図書館に向かおうとすると、緑生い茂る中の喫煙所に、見知った赤みがかった髪が溶け込んでいるのを見かけた。天平だ。一人で粛々と煙草を吸っている。喫煙所には天平の他に人はいなかった。が、彼はまだ未成年ではなかっただろうか。
見て見ぬふりをしようと思ったが、先日綾田からコンプライアンスの順守がどうのと言う話を聞いたばかりなのに、同じ部活のメンバーが未成年喫煙に及んでいる姿を見て注意しない、というのは何となく躊躇われる。藤枝は天平の方へと近づいた。地面の上にコンビニに置いてあるような細長い鉄製の灰皿が直接置かれている喫煙所からは、肺を侵すような匂いの煙が立ち上っている。喫煙可のゲームセンターに立ち寄った時に嗅ぐ匂いだ。喫煙者はこんな環境に長時間いてよく耐えられる。自分ならばすぐに咳き込んでしまうだろう。
藤枝に気付いた天平は持っていたライターで口にくわえた煙草に火をつけながらこちらを一瞥した。やあ、カズ、と声を掛ける。天平は手を挙げて答えた。
「お前煙草吸うのか。未成年だろ」
挨拶の後に間髪いれない指摘をする。あ? と、天平はやや不機嫌そうに、眉根を寄せた。
「吸うけど。大学入ったら年齢なんてあってないようなものだろ。細けえことは気にするな」
「細かくない」
咥えた煙草を口から離し、ため息を吐くように煙をゆっくり吐き出す天平。密度のきつく重い煙の中から、僅かにミントの香りがした。人差し指と中指で摘んだ吸殻を、灰皿の灰落としに軽く当てて揺すると、黒ずんだ灰が零れて赤く燃える刻みが現れる。天平はもう一度フィルター部分を口に含んで、周りの空気を巻き込みながら煙草を通して息を吸う。
「生真面目だねえ、何でもかんでも。お前はクラスの委員長か何かかよ」
「体に悪いだろう。肺活量が少なくなると競技にも支障が出る」
「お前には関係ない」
やる気なさそうに、また肺から大きく煙を吐き出す。普段煙草を吸わない藤枝は、周りで匂いを嗅ぐだけでも体の奥に悪いものが蓄積されて行くような気分になった。天平は吸ってどのくらいになるのだろうか。仮に長期間吸っていたとしても、天平の成績が落ちている所は見たことがない。
思い返して、いつもの黒々とした、どこにぶつけるでもなかった感情が沸き起こる。なぜ天平はいつもこう自分勝手なのか。練習の時といい、本新歓で主将の話題を振られた時といい、いつも身勝手で、礼儀なんて言葉を知らないのではないかと思うほどに挑発的な態度ばかりとる。
「関係なくなんてないさ。俺はお前を越えるのが目標なんだ」
「はあ?」
気付けば藤枝は認めたくないと思っていたことを本人に直接吐き出してしまっていた。口を開いたせいで咥えた煙草を落としそうになって、天平は慌てて煙草の巻紙を強く摘んだ。何を言っているんだこいつ、というような呆気に取られた表情で驚いている。いつも垂れ目がちな瞼が、今は驚きに見開かれていた。気分がいい。もっと言ってしまいたい。
「覚えているか、カズ。俺ら、同じ高校で受験勉強してただろ。俺は、金がないことからお前に引け目を感じていたんだ。受験の時も。お前は恵まれててどこにでも行ける。けど、自分はそうじゃないんだって。だからお前より勉強して、いい大学入って充実した生活送ろうって思った。俺小さい頃から銃好きだったから、射撃部のある大学をわざわざ選んで。そうしたら、またお前がこの部活にいて、しかもサークルの中にいてもずっと成績もトップで」
一息にこれまで思っていたことをはっきり述べる。天平は呆然として藤枝の言葉を聞いていた。短くなりつつある煙草から口を離そうともせずに、黙っている。藤枝は更に詰め寄った。
「お前は練習も適当で、面倒なことから全部逃げ出していい気なもんだよな。その陰でどれだけ他の奴が努力しているのかもしれないで、ただただ面倒くさいって言っていれば済むと思ってる。この間の本新歓で荒巻さんに主将を勧められたときだってそうだ。お前は面倒くさいから俺に来年の主将を押しつけようとしたんだろう。信じてる、なんて言葉まで出して。今だって、俺が煙草は体に良くない、って注意しているのに聞きもしない。それいつから吸ってるんだよ。凄くいい姿勢で銃撃てるのに、銃を捨ててまで貪り付きたいのかよ、そんな葉っぱに」
才能に恵まれている彼が羨ましかった。いくらでも投資が出来る彼が羨ましかった。面倒くさいが理由で自分が手にできるものを切り捨てられる彼が妬ましかった。努力しないと自分が手に入れられないものを、何もなしに手に入れてしまう彼が眩しかった。だからこそ、そんな全てを持っている彼が、いつも怠惰なのが許せない。そして自分自身は、そんな怠惰な彼に負け続けているのが、悔しくて仕方がなかった。そんな彼を越えることで自分が努力した証を残したかった。藤枝の思いはぶつけられるようにして天平を罵倒する言葉になり代わっていく。彼の全てが憎いと言わんばかりに、今この状況を、今彼が自分に従わないことを、怒りのままに暴言として並びたてていく。天平はそれを、ただ黙って聞いていた。何も言い返さずに、ただ煙草を燻らせ、激情する藤枝など意にも介さないように粛々と煙を舐めていた。
「だから、俺はお前を越えたい。お前と戦える最高の場所で、お前を越えて今までの努力が無意味じゃなかったことを証明したい。だからお前がそんな態度で射撃に臨んでたんじゃ、意味がないんだよ。本気になれよ、カズ」
やがて藤枝は全てを吐き出したようにそう締めくくると、憤怒したために酸素が行き渡らなくなった頭を冷やすように一つ深呼吸をした。が、天平の吐き出した煙に邪魔されて、うまく呼吸が出来ない。咽喉元に引っ掛かるような濃厚な密度で汚れた空気に、胸が苦しくなってごほごほとせき込む。
天平はその藤枝の様子を相変わらず黙って見ると、今仕方吸い終わった煙草の吸殻を灰皿に押しつけてふっと天に向けて息を吐いた。そして一通りせき込んで少し胸が楽になった藤枝が姿勢を直すと、空に顔を向けたまま、くはは、と小さく笑った。
「それって、要するに逆恨みじゃねえか」
「逆恨み?」
「だってそうだろ。俺はお前に何もしてない。お前が勝手に俺の状況を解釈して、勝手に嫉妬してるだけだ。俺を越えたいだとか、俺を真面目な奴にしたいだとか、結局俺を下に見たいっていうお前の願望を叶えるための、ただの自己満足じゃねえか」
藤枝は何を言われているのか一瞬分からなかった。
正論だ、とでもいうように天平は冷静に指摘する。煙草を吸い終えた天平は、片付けるときに舞い指先に着いた灰を落とすために人差し指と親指を擦り合わせた。藤枝はその態度に、また悲しいほどに憎い気持ちがこみ上げてくる。
「そういうところがムカつくって言ってんだよ!」
感情のままに怒鳴り散らす。この場所が奥まった場所でなければ、その悲痛な声を聞きつけて誰かがやってくるのではないかと思うようなひどい叫び声だった。その叫びには何の理屈もなかった。いつも押さえつけている彼に対する妥協や、自分のプライド。そういったものを全て取っ払い、心の奥底から何の自制もなく絞り出した、生々しい悲鳴が舌に乗せられた。ともすれば今すぐ天平の首根っこに飛びかかっていってしまいそうな煮えたぎる思いが、降って湧いてを繰り返す。悲しいくらいに悔しい。自分が彼を越えられないのが。自分が彼に見下され続けているのが、冷たい感情となって渦を巻く。
「やっと本心を出してくれたな」
だがそんな崩壊しかけた表情の藤枝に天平が掛けたのは想像もしていなかった言葉だった。藤枝は一瞬呆気に取られて前のめりに掛けていた体重が急に軽くなったような錯覚に捉われた。天平はまた、いつもの面倒くさそうな瞼が垂れさがった無表情に戻っている。何が言いたいのだろうか。
「お前、言いたいことに任せて何かを見失ってるぞ。そのくせ、いつもニコニコしてっから何考えてるか全然分からなくて、こっちが混乱するっつうの。もう大学生だろうが。ちったあ自分で意思表示くらいできるようになれや」
またも正論を返してきた天平に、藤枝は言葉が出ない。ただひたすら、煙草の煙と同じような気持ち悪さだけが胸を侵している。天平はさらに続けた。
「俺もお前のことを意識はしてたんだ。一応、同じ高校出身だし、それ以前に俺のすぐ後ろにいた奴だからな。どんなときだって」
「すぐ後ろって」
「お前の方こそ、俺のことをちゃんと見てないし分かってるつもりになってるだけだ。もともと、お前と俺に大した差なんてねえんだよ。何勘違いしてるんだか」
腰に手を当て、くく、と咽喉を鳴らす。ぶっきらぼうに言い放たれた天平の大した差というやつに、おそらく金銭的な問題は入っていない。彼が言いたいのは、もっと別の、才能や考え方の部分のことだろう。何かこれまで天平を見ていて見逃していたことがあったということなのか。
「俺はいつだって本気だ。面倒くさがってるのはお前と違って、泥臭いのが嫌いなだけだ。もがいているのを他人に見られて気持ちいいと思うか、気持ち悪いと思うか。それが俺とお前の差だ。それが唯一違う、成績の二%の差だ」
天平の口に初めて射撃の成績の話題がのぼり、藤枝は弾かれたように顔を上げた。今までのどんな罵倒や侮蔑の言葉よりも衝撃的な彼の告白は、記憶に鮮烈に刻みつけられてしまった彼の昔の姿を思い出させる。友達と下卑た笑みを共有していた天平。しかしそれは、藤枝が見ていた天平の姿に過ぎない。
では、本当の彼の姿とは?
「覚えてないのかよ」
「……何を」
「俺が今までしてきたことだよ。ずっと嫉妬してたんなら分かるんじゃねえのか。まあ知らないんだろうけどな」
誰にも通じないような言い方に、藤枝はまた眼を伏せる。天平を見ていた時間は自分が一番長いと自負しているのに、天平が堂々と言ってのけるその言葉の真意が全く理解できない。
「部でいつもやる気がなさそうに、練習そっちのけで漫画読んでる」
「他の奴らも似たようなもんだろ」
「会計なのに、仕事をサボってる」
「サボってるわけじゃねえ、お前らが聞く間が悪いだけだ」
「弾の購入数だって一番少ないだろ」
「そんなことねえよ」
「嘘付くな。お前はまだ一缶も使いきってない」
弾の購入ノートにまだ天平の名前がないことを、藤枝は以前ノートを確認したので知っている。が、天平は何か思い当たったようで、ああ、と声を上げた。
「俺の使ってるのはファイナルだ。R―10は、確かに一缶も使いきってないな」
「ファイナル……?」
気が付かなかった。言われてみれば、部で使える弾には二種類あったのだ。藤枝を含め殆どの部員は弾代の安いR―10を使っている。てっきり天平も同じものを使っていると思いこんでいたが、どうやら彼はもう一つの種類である、ファイナルを使っているらしい。確かファイナルの弾は、値段が高くなる分、R―10と比べて僅かだが撃ちやすいと聞いたことがある。
「そうだ。ファイナルの弾購入ノートは普通のノートとは別に管理してる。今年は俺の他にファイナルを買いそうにないし、どうせ最後に処理するのは会計だからってことで、そのノートも俺が持ってるんだ。で、その消費量。今年に入って五缶目だ」
五缶目、というと一缶二百五十発だと考えて、少なくともこれまでに千発は消費していることになる。それだけ天平が練習しているということなのだろうか。しかし、彼がそこまで部活で熱心に練習をしているところなど見たことがない。また、仮に個別に練習していたとしても、去年空気銃の所持許可証を持ってから今の時点で千発を消費するなど、物理的に不可能ではないのか。
言葉も出せずにうろたえていると、天平がまたクク、と笑った。
「今、そんな弾数使うの無理だ、とか思ったろ」
「え、ああ……」
「だからお前はいつまでもお前なんだ。そりゃあ暇な時間にこっそり毎日練習すれば使いきれないこともない。それこそ、朝方なんて誰もいないしな。お前が必死に金稼いでた時間帯に、俺は射撃の練習をしてたんだ」
もしその話が本当だとして、彼が一体どれだけの時間を射撃に費やしてきたのかを考えてみる。今年度に入ってから四カ月。一月当たり二百五十発として、一週間に約六十発。きちんと計算してみれば確かにやってやれない数ではないが、部活の時間と一部空き時間にしか練習ができない藤枝の努力の比ではない。天平の実力は、彼の努力の賜物だったのだ。
「ずるいな、お前は」
思わずそんな感想が口を吐いて出た。誰にも努力している姿を見せずに、一人で先を歩いて、皆のいるところでは怠けている。天平は人前でもがくのが好きじゃないだけだと言ったが、それにしても限度というものがある。藤枝は結局、自分から見える天平の姿しか見ずに嫉妬をしていた。すっかり騙されていたことになる。後ろめたい気持ちが勝り、藤枝は天平から視線を逸らした。
「そうだ。何とでもいえ。俺はずるい。ずるいついでに、気分が良いから今日はもう一つ教えておいてやる」
天平はまた煙草に口をつけた。まるで食事をするように濁った空気をうまそうに吸うと、一つふっと息を吐く。
「俺、留学するんだ。今年の十月から、丁度一年。来年の同じ時期まで」
「は?」
「だから、主将は受けられない。荒巻さんにあの場でお前を推薦したのも、それが理由だ。確かに押し付けになるかな、これは」
今度呆気に取られることになったのは藤枝の方だった。留学? この天平が? 何かの冗談に決まっている。こいつはそんな真面目な奴じゃない。
「ちょっと待て、そんな話全然……」
「今言ったばかりだ。俺はそういうのを人に知られるのが嫌いだと」
「だって、そしたら、今年の会計はどうするんだよ」
「あとで帳簿の付け方教えてやるよ」
「でもじゃあイズミは」
「ここであいつは関係ねえ」
「成績だって、お前がトップなのに」
「俺が抜ければお前が一番になれる」
クク、と不敵に天平の口元が歪んだ。嬉しいだろう、とでもいいたそうな、人を食ったような笑みだった。
「忘れろよ、俺のことなんか。抱え込んできたものも全部忘れて、お前が一番の部活を、あいつらと一緒に作っちまえばいい」
恐ろしい奴だ、と思うと同時に、そんなものに縋りつかせようとしている天平に、また冷たい悔しさがこみ上げてくる。こいつは俺をどれだけ馬鹿にすれば気が済むのだろう。自分のことを値踏みできていないのは、寧ろ天平の方だ。
確かに今まで自分は天平を退けて一番いい成績を掴むことにこだわり続けていた。だがそれを、天平がいなくなったことで成し遂げても、何の意味もない。
「そんな風にして一番になっても、嬉しくなんかない」
苛立ちを隠さずに、ありのままに告げる。拳に力が入る。それは間違いなく、藤枝の本心だった。絞り出した答えを聞いた天平が、煙草を地面に落として靴で踏み潰す。
「ほう」
「俺は俺のやり方でお前を越えてみせる。十一月ってことは、秋関予選には出られるだろ。そこで、俺と最後に勝負しろ。俺が勝ったら、来年戻って来てからまた一緒にあの部で撃つことを誓え」
これは賭けじゃない、願掛けだ。来年の十一月以降に天平が戻ってきても、四年の引退時期までは時間が短い上、オフシーズンも含めたら活動期間など殆どないに等しい。だが約束をすることで藤枝が天平に何が何でも勝つために、自らを追い込む。そのための宣言だ。
「良いだろう。そこで俺が勝ったら、今までの俺のことは忘れろ。帰ってきたあとも、もうあの部活には行かない。ただ、仮に俺を越えられたとしても」
天平はそこで言葉を切った。いつになく鋭い視線が、藤枝を射抜く。
「俺を越えたくらいで満足するんじゃねえ。もっと先を目指せ。いいな」
思ってもみない言葉に虚を突かれ、一瞬反応が遅れたが、約束に乗ってきた天平にわかった、と告げる。天平は持っていたライターをポケットに仕舞って喫煙所に背を向ける。
「ああそれと」
そのまま去っていくのかと思った矢先、天平が振り返る。
「留学の話は、部の他の奴らにはするなよ。無駄に騒がれたら出発するまでがうっとうしいから」
天平は今度こそ背を向けてどこかへと歩き始める。返事をする間もなかった。しかし、自分を越えた程度で満足するなとは、天平も大概思考回路が読めない。前にも同じことを言われた気がしたが、未だその真意は闇の中だ。
天平の様子を見送った後、藤枝は居ても立ってもいられず、射撃場に向けて歩き始めた。課題のために学校に来たが少し撃ちたい気分だった。藤枝は銃が好きだから撃っている。同時に今までは、競い合う天平と言う存在がいた。そこに追いつきたかった。だが今は、秋関予選までにもっと力をつけて、何が何でも彼に追いつき、追い越さなくてはならない。天平以上の努力で、残りの二%の差を埋める。彼の姿をずっと覚えておくためにも。そして、彼を越えた先にある更なる高みを目指すためにも。