第三射撃/後輩たちの勝負
六月第二週土曜日。ナショナルトレーニングセンターの駐車場には、大会に参加する学生たちの停めた車がまばらに並んでいた。レンタカーを示す〝わ〟ナンバーが目立つ。最寄りの赤羽駅からバスに乗って二十分の位置にあるこの施設は、メインの屋内施設を始めとして、テニスコートやサッカーグラウンド、野球場などの球技場も完備され、国体選手の競技練習場ともなっている。普段は利用料を払えば誰でも利用可能の運動施設であり、今日のように団体がその一部を貸し切って大会を開くこともよくあるようだ。
時折同年代と思しきジャージ姿の男女が車から降りて来ては慌ただしく屋内競技場消えていく。高校生から上がりたての小さな体で重そうな荷物を引き摺るのを、先輩らしき人物が手伝っている。新入生の多い他大学は、準備だけでも大変そうだ。尤も、人数が少ないのも部の存続が危ぶまれるという意味では藤枝の大学も大変ではあるが。
藤枝は時計を見た。時刻は十二時半。そろそろ岩崎と大曾根の射郡も回ってくる頃だ。正午に昼食を取り、彼らにトランクから荷物を降ろしてやってから、大分長い時間が経ったように思うが、実際には三十分も経過していない。上級生に振られると相場が決まってはいるが、実際にすることといえばコートを運んでスコアの記録くらいなのだから、引率と言う仕事はつくづく暇なものだ。
藤枝は先ほど、車のトランクから荷物を降ろしながら二人としていた会話を思い出す。
「ショータ。調子はどうだい」
「万全っす。結果がどうなるかは分かりませんけど」
岩崎は大柄の体で思い切り伸びをした。ただでさえ大きな体が、両手を上げるとより大きく見える。
「確か、男女で同じ的数、同じ条件で撃つのって、今日が最初で最後なんですよね」
「公式試合ではね」
通常、エアライフルの公式試合は男女別々に行われる。時間と弾数はそれぞれ男子が一時間四十五分で六〇発、女子が一時間十五分で四〇発であり、その分疲労の蓄積具合も異なる。コートを着た競技者の集中力と体力を奪う中では、後半戦に徐々に成績が落ちてくる傾向にあり、二〇発の弾の差と三十分の時間差が、より限られた時間内に少なく弾を撃てる女子に有利に働くことが多いため、一般にエアライフル射撃では男子よりも女子の方が成績の伸びがいいと言われる。ただし中心を正確に射抜けるほどうまい者は、男女関係なく一定数おり、そういう者は他の競技者が集中力の欠けてくる後半戦になっても正確に真ん中を撃つことが出来る。大会順位上位十人以内ともなると点数が重なるためにセンター数で順位づけをされるほどで、確か直近の春の大会では、男女トップの成績は、共に九割七分を越えていたと記憶している。
二人が今回出場するビームライフル大会は、新入部員向けに学生連盟が公式に開いている大会で、新入生が最初に出場できる大会となる。エアライフル競技と異なり男女ともに四十五分で計二十発を電動射撃機に向けて撃ち点数を競うもので、公式に男女が同じ条件で撃つのはこれが最初で最後だ。
「となるとショータ君と正式に競えるのも、これが最初で最後ってことだよね」
大曾根が思案するように呟き、岩崎を伺い見る。
「ねえ、せっかくだから勝負しようよ。負けた方が、買った方と先輩にハーゲンダッツ奢りね」
にたぁっと嫌らしく笑って大曾根の黒々とした目が怪しく輝く。気押された岩崎は、何やら一歩引いている。
「勝負って……! しかも賭けるのかよ」
「賭けた方が面白いでしょう、大学生だし。先輩にここまで荷物持ってきていただいたお礼も兼ねて」
一瞥されて俺のことは気にしないで、と藤枝は言ったが大曾根は意にも介さない様子で、先輩、自分が得できるときは乗っておくべきですよ、などと言って押しきった。勝負を持ちかけられたことに驚いていた岩崎も、そうですよ先輩は俺たちの結果がどうあれハーゲン食べれるんすから、と力強く断言する。この二人、普段は凸凹コンビという言葉が似合うほどに性格も体格も違う割に、こういう時に限って相性が良いらしい。同期の好みと言う奴だろうか。
「で、やるからには本気出してね。私も普段の五割増しくらいの力で頑張るから。超望遠だから。蟻の底力を見せつけちゃうから」
「何かいろいろとおかしいんだが、まず蟻の底力に突っ込みてえ」
「踏まれる前に噛むってことだよ。体の大きさには負けない」
「またその話か! 俺は象じゃないし射撃は格闘技じゃないってば!」
うんざりしたように岩崎は手を上げる。大曾根はと言うと、まだしたり顔でにたにたしているが、その瞳に仄暗い闘志が混じっているように藤枝には見えた。岩崎も、彼女の発言に乗せられたからか、僅かに大曾根を見る目に敵対心が宿っている。お互い負ける気は更々ないようだ。
まあ頑張って、と屋内競技場へと送りだした二人の背中に、藤枝は言いようのない既視感を覚えた。去年、同じように天平と競った自分が見えたのだった。今の二人のように仲良く賭けの会話をするというほどではなかったが、入部以来天平には絶対に負けたくないという思いが頑なにあった藤枝は、試合前の彼を前にしてはっきりと、お前には負けないと宣言した。天平はそれをどう受け取ったのか、少し黙っていたがすぐに余裕に満ちた笑みになって、出来るもんならやってみろよ、と藤枝に言い放った。藤枝はあのときの天平の表情が未だに頭の片隅にこびれ付いて離れない。人を食ったような、自分は最初から全てを持っていると思っているような、恐ろしく挑発的な態度だった。絶対に負かす。威張っていられるのも今のうちだ。藤枝はそう思いながらその日の大会に臨んだ。だが結果は惨憺たるもので、天平に二十以上の点差をつけられて大敗した。藤枝が飛びぬけて下手だったわけではない。天平が上手すぎたのだ。その日のスコアは男女合わせた最高得点が一八〇点。天平は、一七六点で出場者五十人中、二位の成績だった。藤枝はというと、一五四点で丁度真ん中くらいだ。普段、あまり練習した姿を見たことがなかったというのに、自分よりはるかに高い成績を記録した天平に、瞬く間に嫉妬と疑問が沸いた。どうしていつも彼なのか。どうしていつも負けるのか。実は経験者だったのではないかとさえ疑ったが、自分の知る限りで天平が射撃をしていたという話は聞いたことがない。紛れもなく彼の実力だったのだろう。
岩崎と大曾根が帰ってきた。二人とも既にジャージからスーツに着替え、試合中に記点係が採点した点数表を握っている。お互い、何やら言い争うようにして、こちらに向かってくる。結果はどうだったのだろう。
「お疲れ」
「お疲れ様でーす」
大曾根が即座に声高く返事した。いつになく上機嫌だ。一方、岩崎は額に手を当てて唸っている。こちらに会釈をしただけで、返事はない。藤枝はトランクの鍵を開けて、二人の荷物を預かった。聞くまでもないかもしれないが、一応尋ねておく。
「どうだった、結果は」
「私が一六〇点、ショータ君が一四六点で、私の勝ちです」
大曾根がやりました、というように誇らしげに笑う。二人が同時に点数票を見せた。確かにその通りの点数だった。センターの数は大曾根が五、岩崎が四。大曾根の点数は、第一シリーズ第二シリーズ共に、丁度八十点ずつだった。岩崎は、第一シリーズが七十点、第二シリーズが七十六点となっている。
岩崎がオーバーリアクションに、あー負けたあ! と叫ぶ。
「練習中は六点とかかなり出てたけど今日は七点ばっかりだったから割といい点取れるんじゃないかなって期待してたのに負けたあ!」
一息に捲し立ててまたうわあと大声を上げて頭を抱える。それを見て、大曾根が肩に手を置き、ふふっと笑う。
「まあしょうがないよ。相手が私だったんだもの。さあ、ショータ君。ハーゲンダッツ買いに行こうか」
「鬼! 悪魔! 何だよ何だよ、良い気になりやがって畜生」
「男に二言はないはずでしょ? つべこべ言ったらカッコ悪いよ。あ、私ストロベリーがいいな。クレープに包んだ奴」
言うだけ言って大曾根は車に早々に乗り込む。閉会式までにはまだかなりの時間があるようだから、それまでにちょっと出かけて来ましょう、というようなニュアンスを含んでいるようだ。観念したらしい岩崎が相変わらずの様子で後部座席のドアに手を掛ける。はあ、と一つ盛大なため息が聞こえた。負けたことがよほど悔しいらしい。気持ちはわかる。
「ショータ、そんなに落ち込まなくても大丈夫だよ。ビームライフルで八割を越えるなんて、大曾根さんはかなり凄い方だ。もしかしたら入賞するかもしれないくらいだよ。ショータだって、七割を越えたし今までの中で一番良い成績じゃないか。勝ち負けよりも自己ベストを更新できたことを喜んだ方がいい」
苦し紛れに、また一年前の自分に言い聞かせるように声を絞り出して慰めると、岩崎は、そうっすよねえ、と穏やかに笑ってこちらを向いた。
「ここでやる気をなくすよりも、悔しさをバネに練習すべきなんですよね。俺も先輩たちに負けないように今後頑張ります」
ありがとうございます、と一つ頷いて車に乗り込む。落ち込むほどでもなかったようだ。気持ちの切り替えの早いタイプなのかもしれない。藤枝も運転席に乗り込む。借りたスズキの軽自動車を走らせて三人でコンビニに向かい、予定通り岩崎の奢りでハーゲンダッツを買った。駐車場に戻って来てから、車の中でパッケージを開ける。程よく溶けた滑らかなアイスの口当たりがよい。大曾根と岩崎も試合後の気だるい体に冷たいものが心地よいと見えて、夢中で舌を出して舐めている。
「ハーゲンダッツとか食べたの久しぶりだよ。ありがとうな、ショータ」
いえいえ、と岩崎は恭しく前かがみに腰を折る。俺も普段はあんまり食べないんですけどね、と付け加えられた。
「普通、アイス食べる時にあえてハーゲンは選ぼうとしないでしょう。ちょっといい気分になりたい時に食べるのよ。今みたいに」
天平先輩みたいなよほどのお金持ちは別ね、と大曾根が力説する。あいつはこんな旨いアイスを毎回のように食べているのか、と考え、藤枝は天平がコンビニの冷凍ケースの前でハーゲンダッツを選んでいるところを想像してみた。あり得ない光景でもないのだろうが、少し難しい。そもそもあいつは甘いものを食べるのだろうか。
「そういえば、カズ先輩とイズミ先輩ってデキてるんですかね?」
「ぶふッ!」
何の脈絡もなく飛び出した岩崎の爆弾発言に、藤枝は危うく舐めていたアイスを落としそうになった。大曾根も目を丸くして口に含んだアイスを吹き出しそうになっているところを、慌てて手で押さえている。何とか車が汚れることは避けられたようだ。
「ちょ、ちょっと、ショータ君! いきなり変なこと言わないでよ。レンタカーなんだから汚すと大変でしょ」
「ああ。ごめんごめん。や、今何となく思い出しただけだって」
他意なく、他愛なく、と岩崎が強調する。大曾根は口の周りについてしまったアイスを拭って岩崎を睨みつけた。気まぐれに言ったことのせいで口が汚れたじゃないか、という恨み声が聞こえて来そうである。クレープに包まれてるアイスを食べているのに、口を汚すほど驚くのもなかなかできることではないと思ってしまったが。
「でも確かに私もそんな気がしてたわ。随分仲よさそうだし」
岩崎が大曾根に身を乗り出して、だよね! と同意する。高校生から上がり立ての初心な一年生二人には、あの二人のじゃれ合いが仲良く見えるらしい。
「ね、先輩。ぶっちゃけどうなんです? あの二人」
岩崎が興味津津というように目を輝かせて尋ねる。大曾根は少し話して窓の外の方を向いてしまったが、こちらも気になる様子であるようで、聞く姿勢は崩していない。何だか面白くなってきた。少しからかってみよう。
「仮にあの二人が付き合ってると分かったら、君らはどうするつもりなんだい」
自分としては少し意地悪な質問を投げたつもりだった。が、岩崎は大して動揺もせずにしれっと言い放つ。
「どうもしませんよ。ただこれから二人を見る度に笑いがこらえられなくなること必至ですが」
「それは困るなあ。たまたまカズなりイズミなりが射撃中に視界に入ったら、笑いで練習どころではなくなってしまう」
「大丈夫です。カズ先輩は自分の練習するとき以外、射撃場に来ることはありませんから」
カズ、お前今年入ったばかりの一年生にも怠け者だと見透かされているぞ。あの態度なら当然なのかもしれないが。
少し話しこんでいてアイスが垂れそうになって来て、藤枝は手元に垂れかけた雫を舌で丁寧に舐め取った。ただでさえ甘いくクランキークランチのチョコレート部分から溢れたキャラメル味アイスは、先ほどよりも甘みが増しているような気がした。話しながら食べることが分かっていたのだから岩崎のようなカップタイプにすればよかったと今更ながらに思う。大曾根は早々に食べ終えてしまったようだ。
適当にごまかそうとしたが岩崎はさらに、で結局どうなんですか、と追及してくる。まだ大曾根がどうするつもりなのかを聞いていなかったが、彼女も対して岩崎と変わらない答えしか持っていないのだろう。ちらり、と一瞥された。何でもいいから早く教えてください、と言われている、おそらく。これでは逃げ場がない。
「いやまあ、確かにそうなんだけど」
おお! と二人がざわめきだった。大曾根と岩崎が顔を見合わせ、やはり、やはり、と示し合わせたように囁き合っている。そんなに驚くようなことだろうか。
天平と桐原が付き合い始めたのは一年の後期からだったと記憶している。確か大学祭から少しした後だ。大学祭では自分たちの代は新入生が三人しか入らなかったため、計四日あるシフトを埋めるのが大変で、後年のことも考えて積極的にシフト枠に入ってくれと先輩たちから頼まれていた。しかし、藤枝は丁度そのとき避けられないバイトが入っていたので四日間開催されるうちの二日を先輩たちや天平と桐原の二人に任せた。その二日の間に何があったのかは知る由もない。が、後期の納会飲みの席で酒も飲んでいないのに空気に酔った桐原が、大学祭の後からカズと付き合うことになりましたあ、と間の抜けた声で藤枝だけに宣言してにやにやしていた。冗談かと思って後日それとなく天平に尋ねると、アホらしいが事実だと断言されたので、藤枝の知るところとなったのだった。
ちなみに二人の関係を知っているのはどうやら部でも藤枝だけだったらしく、三年の荒巻や栗塚は完全に蚊帳の外だった。桐原が自分にだけ天平と付き合った宣言してきたのは、おそらくこの年頃の女子にありがちな恋愛を周知することで相手と付き合っているという実感を得るためなのだろうが、それにしても意外だったのは天平があの破天荒極まりない桐原の告白を受け入れたということだ。元々気楽に話せていたようだったので相性は悪くないのだろうが、天平が桐原相手に恋愛をしている姿が全く想像できない。というより、天平も桐原も恋愛している姿があまり想像できない。今まで近くにいすぎたからだろうか。
「ああ、そうですよねえ、カズ先輩イケメンっすから」
ひそひそ話が終わった岩崎がうっとりして呟いた。藤枝は我に返って二人を交互に見る。岩崎が食べ終わったアイスのカップをコンビニの袋に入れて、俺捨てて来ますんでゴミ下さい、と藤枝に向けて手を出した。藤枝はゴミを渡してお願い、と声を掛ける。岩崎が車から出て、会場に備え付けのゴミ箱に向かう。
大曾根は先ほど試合前に岩崎に勝負を持ちかけたのと同じような企み顔で何事かを考えてはうふふ、うふふ、と怪しい笑みを浮かべている。あまりの意味不明さに怖いというのを通り越して心配になってくるが、あまり話しかけてはいけない雰囲気を察し、運転席右手の窓から岩崎が帰ってくるのを待った。知らない間に今度は随分と時間が経っていたらしい。そろそろ閉会式が始まる時間だ。
二人を閉会式に送りだしてから受付付近のホワイトボードに掲示されたスコアを書き写して式が終わるのを待った。戻ってきた大曾根は惜しくも入賞を逃して女子四位となったが、岩崎に奢ってもらったためかさして悔しそうではなかった。入賞景品がハーゲンダッツ券だったからですよ、と笑って答えていた。彼女の思いつきに、彼女自身が救われたというところだろうか。
大会終了後、駐車場を後にして二人を赤羽駅で降ろし、藤枝はトランクに荷物を積んだまま大学へと車を走らせた。下道に連なる信号に車の停止を何度も強いられながら、首都高速インターチェンジを探す。ナビがなければ分からない道を、何度も曲がる場所を間違えそうになりながら音声案内に従って進んでいくと、ようやく目的の高速道路入口が見えてきた。料金所を抜けた先のカーブにハンドルを思い切り傾け、合流ゾーンからアクセルを踏み込み、追い越し車線に移動する。が、首都高速環状線は、関越自動車道と違って車の数が多く、あまりスピードが出せない。藤枝は関越の方がスピードを出せる分、走っていて気持ちいいと感じる。都会の高速はカーブや分岐点が多いので苦手だ。
一年生は初々しい、と今日の大会を振り返りながら改めて思った。きっと彼等は今後、初心者講習会を受け、受かれば空気銃に触れ、ビームライフルとは異なるエアライフルの初めての触り心地に驚く。引き金が思ったより軽く暴発しやすいことや、一時間以上銃を持って姿勢を維持し続けることの難しさを知り、学生連盟の公式大会や他校との交流戦で各々の成績を更新していくため練習する。岩崎は大曾根に負けたことを少し意識していたようだが、これから男女が公式試合で同じ条件で戦うことはないのだから、彼なりに目標を決めて練習に励むのだろう。自分のように、部内に倒すべき特定の相手がいるような練習はしてほしくない。何かにつけて否が応でもその特定の相手を意識させられてしまい、苛立ちばかりが募ってしまう。その点、岩崎と大曾根のような関係は羨ましいとさえ思う。意識するにしても相手が異性では、同性のように本気で苛立ちを感じることは少ない気がするからだ。
藤枝は長い間存在すら忘れていた天平と再開した一年前の春のことを思い出す。
四月八日。新入生歓迎イベントで盛り上がる大学構内を、藤枝は肩で風を切りながら一心不乱に走り抜けていた。右手には他の部活の勧誘から貰った新入生歓迎会のチラシ。左手には広い構内を歩くためのパンフレット。藤枝はこの日、長い間憧れてきたとあるサークルに入部するため、広い大学構内の道を人に尋ね尋ね、その部室を目指していた。
藤枝にとってこの大学に入れたのは幸運だった。金がないと言いくるめられるそうになるところを安い学費のところを選んで受験したのだ。受験勉強は今振り返ればあっという間だった気がしたが、一年間勉強に打ち込んでいる間はとても長く感じた。。長い受験勉強を経て、ようやく合格した大学。藤枝がこの大学を志望した理由の一つに、とある特殊なサークルの存在があった。確かに大学に入るのは将来性を考えての目標でもあったが、中学・高校と勉強に集中するため、部活動に入らず必死だったのも、思えば今日この日、この大学に入り、そのサークルに入るためだったともいえる気がした。受験勉強は辛かったものの、その部活で今まで触れることのできなかったアレが、実際に触れるのかと思うと、その苦労もハードルの一つに過ぎないと思えてくる。
総合校舎の脇道を抜け、体育館のすぐ手前を抜ける。パンフレットに載っていた、青々とした芝生の茂るグラウンドが見えてきた。この先を直進、ゴミステーションの突きあたりを左に曲がれば、目的とするサークルの部室だ。藤枝はもう一度、地図で部室の位置を確認した。いよいよだ。いかんともしがたい幸福感が藤枝に波のように訪れる。真っ直ぐ進む。一歩一歩の実感をかみしめながら、ゆっくりと進む。地図にある通りの部室があった。Rifle Shooting Clubの英字が目を引くポスターが、開きっぱなしになった重そうな鉄製の扉に張りつけてある。間違いない、あそこだと、藤枝は足早に接近して行った。
開きっぱなしのドアの影に、先客がいた。顔を見た直後、呼吸が止まるかと思った。高校時代の同級生、天平和義だった。髪の毛の色こそ薄赤く染められ変わってはいたが、人相は高校の時そのままで、そのやる気のなさそうな目つきからしても見間違いようがない。強いて言えば、高校の時は雄々し過ぎるほどに体回りに付いていた筋肉が、少し落ちて弱々しくなっているくらいだ。
天平は立ちつくしている藤枝に気付いて一瞥すると、少しだけ驚いたように目を見開いて、すぐにまた落ち着きを取り戻した。
「よう。何だ、お前か」
藤枝は言葉も出なかった。ああ、と生ぬるい返事をしただけで、二の句が継げずにただ立ちつくした。どうしてここにカズがいるのだろう。自分よりも遥かに金持ちの彼が、なぜ自分と同じ大学の、しかも今自分が入部を希望しようとしている、この部活――ライフル射撃部のドアの前に立っているのだろう。第一、彼はもっと上の大学に行くのではなかったのか。受験勉強で必死になる友人たちにやる気なくどこでも金さえ積めば入れるだろうと言っていた彼ならば、東京あたりの優秀でオシャレな大学に入っていてもおかしくないはずだし、実際そうだと思っていた。
「やあ、お久しぶり、カズ」
だが脳内に去来する様々な疑問の代わりに出たのはいつもの毒にも薬にもならないような挨拶一言だった。天平は何でもないように藤枝におう、と片手を挙げて応じる。
「お前がこの大学に来てるなんて知らなかった」
「お前こそ。もっと違うところにいるかと思ったのに」
「やる気がなかったんだよ。受験勉強」
あっさりと言ってのけて、ぼりぼりと頭を掻く。自分が努力すればもっと上に行けた、というような態度が如何にも彼らしい。藤枝は曖昧に笑った。これまでただの気まぐれで乗り切ってきた天平に、努力も才能のうちと言う言葉はきっと理解できないだろう。だが裏を返せばそれは、自分が天平との差を努力で埋めたということも意味している。どんな事情はあれ、天平に追いついたのだ。これは喜ぶべきことなのかもしれない。そう思うと悪い気はしない。頬のあたりに少し力が入る。
「でも大学ってこんなもんなんだな。人生を決めるほど大事な場所だって言う割には高校までと違ってかなりのんびりしてるし、ここに来るための受験勉強も意外とあっという間だったと思わないか? お前と俺が同じ所に来たなんて、少し不思議なくらいだよ」
先ほどまで渦を巻いていた感情はどこへ行ってしまったのかというように饒舌になって笑った。あえて挑発しているとも取れるような発言を天平も察したのか、普段から不機嫌そうに歪められた眉間にさらに皺が寄る。天平は数瞬の後に、何事かを思いついたらしく、藤枝を睨みつけた。
「お前が俺と同じ所に来たのは確かにまぐれなんかじゃねえだろうけど、行こうと思えばもっと高みに行けたはずだろ」
「いや、俺は」
お前と違って金がない。行きたい所はここ以外になかった、と言おうとして素早く遮られた。
「高みに果てはない。俺と並んで、こんなところで満足してるんじゃねえ」
藤枝の言うことなど聞きもせずに言って、天平はそれきり口を閉じた。藤枝は天平の考えていることがわからなかった。俺と並んで満足しているんじゃねえ、とはどういう意味なのだろう。売り言葉に買い言葉だとしてもなぜそんなことを言うのだろうか。不必要に煽られ挑発されて、良い気がしないことは確かだ。だが彼の言う高みに果てはない、というのはその通りである気がする。自分ばかりが彼を意識しているのではないだろうか。不思議と、また天平に借りを作ってしまったように思い、胸の奥から湧き出た冷たい感情に奥歯を噛みしめた。なぜこんなに天平に忠告を受けると、強い苛立ちを覚えるのか。
返す言葉もなくなった藤枝と口を開くのも面倒だと言う天平の気まずい空気を破ったのは、その後たまたま見学に来た桐原泉だった。関西出身だと言う彼女の独特のトークと高いテンションは、藤枝と天平を引き摺ってその場の空気を壊し、先輩たちが来るまでの間を埋めてくれた。桐原はいちいち発言に真面目に返す藤枝よりも怠惰に相手をする天平の気だるさをボケと捉えて事あるごとに突っ込むのを好んでおり、この二人が付き合ったらずっとこんな感じで面倒くさがりの天然ボケと破天荒な突っ込みが続くのだろうかと思わされたものだったが、まさか本当に付き合ってしまうことになるとは考えもしなかった。その人となりのせいなのか、あるいは彼女の射撃の成績が芳しくないからなのかは分からないが、練習態度が怠惰でも藤枝は桐原に苛立ちを感じたことはない。そこには少なからず、彼女が異性であることも関係あるのかもしれないが、いずれにせよ藤枝自身は天平の方が気になるばかりで、桐原は彼を介した先にいる、という印象だ。
車は神田橋ジャンクションを抜けて都心環状線に入った。目的地の到着予定時刻まではあと一時間以上もある。あと三十分くらいしたらどこかで休憩を取った方がいいかもしれない。普段の大会では運転手を途中で交代するが、今日は藤枝一人での往復になる。下道で帰っても良かったが、渋滞が起きているからとナビが知らせたので高速で行くことにした。高速を降りたら、どこかのガソリンスタンドに寄って、二人の荷物を部室に置いた後、レンタカー屋に車を返そう。自宅に戻ってからは、来週の本新歓のためにメーリスも回しておかなくてはならない。次のバイトのシフトもそろそろ決めておく必要があるだろう。やることは多いが、一年生の試合に臨む態度を見ることが出来たので、今日二人の引率に来たことに後悔はない。
次のイベントは部室の掃除かな、と思いながら藤枝は左折ウインカーを出して、通常車線に移動した。