05 デビューの確約
立ち去ろうとするボクを、睦お姉さんが呼び止める。
「ほらぁ。戻ってきて、ここに座るのぉ」
ポンポンと自分の太腿を叩いている。
「……は、はぁ」
ちょっと理解できない。
もしかしてお姉さんってば、自分の太腿に座れって言ってるのかなぁ。
……そんなはずないよね?
呼び戻されるままに踵を返して、打ち合わせのテーブルに向かう。
すると睦お姉さんが、ボクの腕を握った。
そのまま引き寄せて、ぽすっと自分の膝にボクを座らせる。
「ちょ!? ちょっと、睦お姉さんっ!?」
お姉さんは驚くボクに構いもしない。
後ろからぎゅーっと抱きすくめてきた。
これでは身動きが取れない。
後頭部にふにゅっと当たるおっぱいの感触が、マシュマロみたいに柔らかかった。
「暴れないの、しょうくん。……それよりほらぁ、原稿を忘れてるわよぉ?」
「あ……」
そうだった。
持ち込んだ漫画原稿を置いたまま、帰ろうとしてしまったのか。
それで睦お姉さんは、ボクを引き止めてくれたんだ。
「す、すみません……。すぐに持って帰ります。……いえ、なんならこんな不出来な原稿、捨てちゃってくれても……」
散々にダメ出しを受けた原稿だ。
真っ直ぐ見れなくて、目を伏せる。
悲しくて、情けなくて、涙が浮かんできた。
「こぉらぁっ。自分の描いた漫画を、そんな風に言わないの」
「……だって。……ぐすっ」
「言ったでしょ? しょうくんはぁ、漫画の天才なんだからぁ!」
どういうこと?
だってお姉さんが、ボクの漫画は面白くないって言ったのに……。
後ろから抱き止められたまま、肩越しに振り返る。
目が合うと、睦お姉さんが震えた。
「――きゃふん!? あ、あ、あ……」
「睦お姉さん……?」
小首を傾げてみせる。
瞬間的にお姉さんの顔が真っ赤になった。
「〜〜〜#*☆〒%¥っ!? んぁっはぁあんっ!」
睦お姉さんはガクガクしている。
白目を剥いて、失神寸前だ。
「ま、またこれぇ?! お姉さん大丈夫ですか!?」
「あ、あ、あ、あ゛……」
お姉さんの体が、一際大きくぶるるっと震えた。
体が急に緊張したかと思うと、すぐに弛緩した。
ふぃーと惚けた声を出す。
「……ふぅ。もう、だいじょうぶよぉ? ちょおっと内腿に、ゾクゾクきちゃっただけぇ」
舌舐めずりをするお姉さんの頬は、まだかすかに火照ったみたいに上気している。
ボクを見つめる視線。
それが獲物を凝視する猛禽類みたいに思えて、ちょっと怖い。
「そ、それより! ボクが漫画の天才って、どういうことなんですか!」
怖くなって話題を戻した。
このお姉さんは危険かもしれない……。
ボクの本能がそう伝えてくる。
「そうそう。その話なんだけどぉ、厳密にはしょうくんは、漫画作画の天才なのよぉ!」
「さ、作画ですか……」
「そうよぉ! 例えば見なさいな、この表情……!」
睦お姉さんの膝に乗せられたまま、原稿に向き直る。
白くて細長い指がしめすコマを見た。
そこにはボクの漫画キャラクターの少年『タック』が、歯を食いしばり戦っている姿が描かれている。
タックは魔法使いの少年だ。
いつもビッグに兄貴ぶるんだけど、ここぞという場面では臆病風に吹かれる。
このコマはそんなタックが初めて奮い立ち、勇気を振り絞って、ビッグの為に敵に立ち向かうシーンだった。
「あ、あのぉ、このコマがどうかしたんですか? 確かにボクもお気に入りのシーンですけど……」
「もうっ。シーンなんてどうでもいいのぉ。この表情よぉ。キッと相手を見据えながらも、怯えを孕んだこの顔ぉ……。堪んないわぁ」
「は、はぁ……」
それは確かに、タックは内心の怯えを隠して戦ってるんだから、そんな表情にもなるだろう。
「それにぃ……」
お姉さんが原稿を捲る。
すごい勢いだ。
ついでに空いた方の手のひらで、ボクの胸をまさぐってくる。
こっちもすごい勢いである。
「このページのここ! いいわぁ、すっごくいいわぁ!」
「あっ! そこはだめ! 睦お姉さぁん……!」
「ユンケルが、倒れたタックを抱き上げるこの構図! 見つめ合うふたりの表情! ぁあ……。なんて素晴らしいのかしらぁっ!」
お姉さんは段々とヒートアップしていく。
はぁはぁと息を荒くして、興奮状態だ。
「あっ、あっ、だめ! そこだめぇ……!」
「ここも! ここも! このコマもぉ!! あ、あ、あ、あ゛……!」
睦お姉さんが落ち着きを取り戻すまで、ボクは体をまさぐられ続けた。
「ん、んー。んほん……」
お姉さんがわざとらしく咳払いをする。
「あ、あ〜、しょうくぅん?」
「……ぅっ。……ひっく。……ぐすっ」
「ご、ごめんなさいね? 私ってばぁ、つい夢中になっちゃってぇ……」
ボクの服は、乱されきっていた。
色んな場所をさわさわされてしまった。
もうこんなんじゃボク、どうしていいのか分かんないよぉ……。
「ふぇ……、ふぇぇ……」
「あわ、あわわ……」
泣き出すと、お姉さんが慌てた。
「ご、ごめんねぇ、しょうくん。私ってば、ホントに……」
「ぐすっ……」
「きゅるふーん! って、それは置いておいてぇ!」
睦お姉さんが真面目な顔をした。
ボクも鼻をすすってから、なんとか泣き止む。
「しょうくんはぁ、誰かに絵を教わったりしてるのかしらぁ?」
「……はい。お姉ちゃんに、教えてもらって……」
「それはきっと、凄く優秀なお姉さんなのねぇ」
お姉ちゃんは、とっても絵が上手だ。
本人は自分のことを『同人びーえるのクイーン』なんて呼んでいるけど、ボクにはちょっと意味がわからない。
お姉ちゃんはボクが漫画を描きたいと言ったあの日から、文字通り、手取り足取りギュッて体をくっ付けながら、漫画の描き方を教えてくれた。
ボクがこうして曲がりなりにも漫画が描けるようになったのは、お姉ちゃんのおかげなのである。
「それでねぇ、しょうくん。デビューの件なんだけどぉ……」
そうだ。
その話をしなくちゃ。
本当にボクは、双花社さんからデビューさせて貰えるんだろうか……?
睦お姉さんの話に耳を傾ける。
「しょうくんの漫画はぁ、お話はだめ」
「……う。……は、はい」
「でも絵はすでにぃ、素晴らしい実力を持っているわぁ」
「ほ、本当ですか!?」
良かった。
ボクの漫画は、全部がダメなわけじゃないんだ!
「それでぇ、漫画原作者はこちらで用意するわぁ。ひとり、扱いにくいけどぉ、凄いお話を書く原作者に、心当たりがあるのぉ」
睦お姉さんが、ボクのほっぺたを優しく撫でた。
冷やっとした手のひらが気持ちいい。
「だからねぇ……」
「は、はい……」
頬を撫でていた指を下唇に移したお姉さんが、すぅっと息を吸い込んだ。
「だから、しょうくんにはぁ、漫画作画担当として、双花社からデビューしてもらうわぁ!」