デイ・ゼロ
〇月×日。
あれから、2年が経った。
人体に寄生し、自己増殖でき、かつ、IoT技術により常時オンラインで、GPSによって物理的な位置を把握できる、そういう高度なナノボットがいよいよ完成した。
伝染ルートも、いくつかのものに対応している。
空気感染。飛沫感染。飲食による感染。性感染。
人類に決定的なダメージが与えられるレベルになるまでは、無症状でじっくり感染させていき、発覚を遅らせる。
万一発覚したとしても、製法の異なるいくつかの「亜種」を流しているので、発信源は特定できないはずだ。
技術的にも、誰もが検索サイトからアクセスできる論文のものしか使っていないから、私にたどり着く決定打もないだろう。
最初のサンプルは、来月学会が開かれるアメリカの、空港で帰りがけに散布しようと思う。
国際線の発着が多いこの空港で散布すれば、発覚がどれだけ早くても、ナノボットたちが世界の複数国に伝播するだけの時間は十分稼げるだろう。
更に、ペイシェント・ゼロ、発信源の特定も困難になる。
全ては、計画通り…。
ミキよ、これが私の復讐だ。
いけない、またあの子のことを思い出してしまう。あの子は今、確か香港にいるはず…。
西方の 月は綺麗と つぶやくも 我が傍らで 聞く君もなし
何をやっているんだ、私は。うっかり歌を書きつけてしまった。この日記は閉じよう。
日記を濡らしたくはないから…。
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ミキは、その日、月を眺めて不思議な気分に浸っていた。
2年前のちょうどこの日、シュウを振ったということが、不思議と思い出された。
百万ドルの夜景に負けじと輝く月。その月に薄っすらとかかる雲。
あの時付き合っていた彼氏とは破局し、色々あって、今は中国の新進気鋭の財閥の社長と付き合っている。
その社長が、英語でミキに話しかける。
「ダイアモンド・フォーエヴァー・マティーニ。
ダイヤの輝く美しいマティーニ。君へのプレゼントだ。
今宵は夜景も月も綺麗だが、全ては君の美しさを一層増させるための脇役。
一番美しい君には、私から、一番美しいカクテルを捧げるとしよう。
だから、そんなに浮かない顔をしないで。
マリッジ・ブルーも、ホーム・シックも、全部僕が吹き飛ばして見せよう」
社長は、ミキとそっと唇を重ねる。
ミキは、訳もなく瞳が潤むのを感じたが、グッとこらえて、社長の誘いに応じた。
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2012年ごろに流行ったシミュレーションアプリがリメイクされ、巷では再ブレイクしていた。
女子高生のトモミは、他の人から聞いて、そのアプリをインストールしてみた。
その名は、「株式会社・伝染病」。伝染病を広めて、人類を根絶するというアプリである。
英語圏由来のアプリゆえ、ところどころ和訳が不自然だが、それを差し引いても十分に面白いものであった。
だが、生物を履修しているトモミとしては、どうしても理解できない点があった。
高いリアリティを誇っているのにも拘らず、一つだけ、好都合過ぎたのだ。
本来個体レベルで起こるはずの遺伝子突然変異が全世界的で一斉に起こり、症状の発症なども世界的に同期している点。
それは、通常のウィルスや最近、寄生虫などではありえないことだった。
ゲームの進行で開放される、ナノボットや生物兵器のシナリオなら、まだ分からなくもないものの…。
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ナノボットたちは、空港の出発ロビー階のフードコートで起動するようにプログラムされていた。
学会発表を終え、帰路に就いたシュウは、指定便の出発まで時間があったので、フードコートに寄り、ゆっくりとピザ屋のピザを頬張っていた。
その間に、GPSにより所定の位置にいると知らされたナノボットたちは起動し、密閉膜に微細な穴を開け、シュウのリュックを飛び出し、世界へと広がっていく。
Hello, world!
それは、世界との邂逅、デイ・ゼロの開始であった。