第一章二節 李氏朝鮮脱出
歴史シミュレーションなのをお忘れなく。
2 秀秋の立場
陽がテラテラっと無責任に光を地にいるものに与えている中、思考して悩む若い大名がいた。
(さてさて・・・何の用なのだろうか。)
小早川秀秋は傍らに付きいる柳生宗章を共にしながら、廊下を歩きながら思考する。二人は、同じ青い平服をビシッと綺麗に着こなしてる。それがこの若干の暑さが、涼しくさせている気がする程の爽やかさだ。秀秋は思考に夢中なのか、時より他の者が秀秋達と反対方向から交差の表情も、全く気にせずただ思想する。空腹や暑さ、ギシッギシッとあまりいい板を使っていない廊下から出る足音も無視だ。ただ顔を下げ目線を廊下に向け、右人差し指を眉間に置いて思考中である。実に危険な歩き型だ。これでは、反対からの者が交差した時にぶつかりかねない。だが、秀秋は一切ぶつからない。
何故、交差してもぶつからないか。それは、宗章が前に出て先頭を歩いているからだ。宗章は眼光を鋭くしながら堂々と歩いている。スーッスーッっと足音の無い歩きが、威圧感を絶え間なく与えている。しかも警戒していて前だけをみて交差する者達にギラリっと睨む。
(・・・・・・・・・・・。)
宗章は無口で無駄がない。宗章が歩んでいる時、秀秋には一言も声をかける所か、黙視すらない。
それは宗章が、秀秋の思想中は声をかけて邪魔をしないのが最上なことっと思考して結論をだし、邪魔が入らぬようにしなければっと、前の交差してくる者達を警戒しているのだ。
無論、重要そうなことを話す人ならば話させる。宗章は、武者修行をしてきたから人相や経験、そして勘で区別出来ると自負してるので、その時は秀秋に話させる。だが、そんな人物などいる訳がないっと宗章は断言出来る。・・・いや、秀秋の家老などの上層部は、誰もが断言出来てしまうのだ。
それは、交差していく者達が物語っていた。どの顔も侮蔑や嘲笑、どれも小馬鹿にしている顔ばかりである。どの顔も醜悪である。こそこそと二人で歩いてきた者達は、耳打ちをして嘲笑する。仲には、指を秀秋に向かって、何の躊躇なしで指す。正直、人にしていい態度ではなく、大いに不快にさせるものばかりの態度である。だが、交差していくかの者達は、それが当たり前っといわんばかりで、悪そびれたことは感じてない。
こんな態度を取られるのは何故か。それは、ある事件が関係している。現に、それまでの秀秋の評価は、表面上では良いものだった。ある事件に対して当初は賛否両論であった。だが、いつしか悪い印象しか与えなかった為に、秀秋の評価は地に落ちたのである。
李氏朝鮮との講和を破棄した秀吉は、李氏朝鮮の再出兵に対して、秀秋に現地総大将を命じた。一五九七年のことである。秀秋自身は、辞退を何度も進言したが、秀吉は聞き入れられなかった。最終的には養子となっている秀秋に、義父であった小早川隆景と義母の問田の大方が説得して、渋々承知した。秀秋はこの二人には、無条件降伏するしかない。何故なら、返しきれない恩や愛情を感じているからこそ、義を感じて固辞出来なかった。一方の養子親の二人も、内心申し訳なく感じていた。それはこの二人も、この秀秋を愛していたからであり、こんな無駄な戦の総大将になってほしくなかった。だが、秀吉に逆らうのが、どれ程の危険かは重々承知していた。だから、二人は説得したのだ。
こうした経緯で、後の慶長の役と呼称される戦の現地総大将になった秀秋だったが、苦労の連続だった。前回は奇襲に近い形だったので、李氏朝鮮側は警戒感がまるでなかった。だからこそ、破竹の快進撃が続いたのだ。しかし今回は、李氏朝鮮側は再出兵を読んでいた。だから李氏朝鮮側は各地に、警戒網を布いて警戒していた。だから上陸してから、日ノ本軍は苦戦した。暫くするとまた、民衆が武力蜂起した。今回は、武器を李氏朝鮮側が提供していた。だから、前回とは比べものにならない程、強くなっている。更に、李氏朝鮮側の水軍が政戦の混乱で一時的に弱かったものの、政戦の混乱が収まると日ノ本軍を大いに破った。これで、また兵糧不足に陥ったのである。また明からの援軍が、今度は早急に派遣するなど八方塞であったのだ。
秀秋はこれに対して様々な対策を実地した。民衆からの財産強奪禁止や強姦の禁止。職人、商人の保護。襲って壊してしまった村や町の再建。納税は免除。医師は優遇して民衆、兵の順で診させる。食料の困っている民衆のはなるべく自分たちの兵糧から分け与える。山賊や海賊などの賊などから民衆を護る為の警備隊の結成と見回り。翻訳者を一番優遇して各地にふりあてる。下人などにも働いたら賃金を与える。民衆に無闇に武力であたることを禁止。民衆の要望が応えられる範囲ならそれに答える。軍はあまり深入りせずに着実に進める。補給線には必ず五万石以上の大名が維持すること。城攻めに対しての村や町を火で燃やすのを禁止。敵将は各地の判断で任す。ただし、敵将の処置後には必ず秀秋に報告すること。・・・などなどである。
これでは攻め入った日ノ本軍は、財政破綻や食料不足をしかねないものであった。現に出兵してる大名達はかなり渋った。しかし、秀秋はこれを厳命にした。秀秋は厳命を守れなかったり、不服ならば、太閤殿下に申し立てをしてみよっと脅すと、渋々だが誰もが従った。
この対策の為か、何度も物陰から民衆の奇襲にあったり、民衆がとんでもない要求があったりなどの混乱が生じた。しかし、保護する対策を見た民衆が、徐々にであるが日ノ本軍に協力をし始めた。その頃か、徐々に秀秋の評価も良いものになっていった。
しかし、ある戦によってそれは台無しとなってしまう。一五九七年十二月の出来事だった。蔚山城に明、李氏朝鮮の連合軍約六万が城を包囲したのだ。ここには、浅野従四位下左京大夫幸長、加藤従五位下主計頭清正等が、約一万の兵で篭城して抵抗。まだ、出来立ての新城だったのが災いしてか、兵糧の蓄えが極めて少量だった。その為に、兵糧が直ぐになくなった。その為に、この篭城の間の兵達は、兵糧が無くなるとそこらの雑草や軍馬を食し、水は尿すら飲んで、餓えを凌いでいた。
この時、秀秋は釜山城を守備していた。そこは日ノ本軍、重要兼最終防衛拠点地でもあった。ここから、秀秋が日ノ本軍を指揮してるのだ。秀秋は蔚山城篭城の報告を聞くと、直ぐに大広間で軍議を開いた。軍議を開くなり、秀秋は開口一番こう明言した。
「蔚山城に篭城してる大名達を討ち死にさせてはならん。特に加藤殿だ。直ぐに援軍を送る。」
これには全武将が承知。蔚山城は日ノ本軍の重要な城だ。だが、最も急ぐには別の理由がある。
それは、清正は李氏朝鮮側から大変怨まれてからだ。日ノ本軍一の主戦派で邪魔な者にはどんな者でも切り捨てている。更に李氏朝鮮側の二王子を生け捕りにしたりっと清正許すまじき者というのが、李氏朝鮮側の怒りが心中にある。現に秀秋の政策で、数少ない味方の民衆は清正だけには庇護を受けたくないっとの申し出は多くあった。李氏朝鮮がこの好機に全力を尽くすのは、目に見えていた。
迅速な決定を下した秀秋は自らの出陣も表明した。これには皆が驚愕した。だが、秀秋は釜山城を出陣した。
この他にも毛利右正五位上京大夫秀元や黒田従五位下甲斐守長政らと共に約三万の兵が、丁度一五九八年正月になって出陣した。
この時、秀秋は千五百程の自兵を置いている。留守大将は小早川軍の筆頭家老、稲葉正成である。更に小早川軍の鉄砲のほとんどである、七百挺あまりも残している。
軍を進めた秀秋等は明、李氏朝鮮連合軍と対峙。そして戦では城に篭城していた清正等が迎撃をし、挟み撃ちをして撤退させた。この時、秀秋は総大将なのに、自ら先陣を駆けて十数の将の首を取った。顔こそ傷はなかったが、矢が右足、左肩に一本、腕に槍で受けて負傷、甲冑はボロボロになりながらのことであった。この武勇に各武将は驚愕した。秀秋からすれば、若輩な総大将が、自ら武働きをしたら、各武将の誇りを刺激させて、我武者羅に奮起すると読んだからである。
だが、秀秋はこの後直ぐに、日ノ本に強制帰国させられる。しかも小早川軍全軍である。このことに秀秋は不審がったが、従った。大阪城の大広間で直ちに豊臣太閤秀吉に会わされた。その服装は悪趣味に金が高い服だと主張している金の平服だ。最上座にいる秀吉は扇を右手に持ち、右肩をポンポン叩いて座しているが、何故か憤慨している。
その傍らには石田従五位下治部少輔三成がいた。秀秋に冷たい目を向けてながら上座に座している。青の質素な平服がその冷たさを煽る。三成の右手には何やら紙を持っている。秀秋を中央を空けて、左右に座している将も、何故か冷たい目だった。
(何だ、この目は。)
秀秋には全く理解が出来ない。だが、いい話ではないことは分かった。心なしか、秀秋の青色の平服が顔色に写ったように見えた。
仰々しく名を名乗り一通りの礼法が終わると本題に入った。つつーっと二月なのに汗が滴る。秀秋は意識的にかなり緊張していることに気付いているが、どうしようもなくただ左右に別れて座する将の中央にポツリと一人座している。そしてこの場には誰も味方がいないことに余計緊張感が出てしまう。
三成が言い始めた。どうやら李氏朝鮮での活動内容である。朗々と噛むことなくいう三成は、事務的な印象を周りの将が与えたが、秀秋はどうも誇称くさいと感じた。三成の内容が、一つ一つが過小評価しすぎであり、まるで李氏朝鮮の日ノ本軍は、木偶であり意地っ張りだと言っている内容であった。
秀秋は不快に思うと同時に憤慨した。こちらはやりたくもない現地総大将をしているし、日ノ本軍はよくやっている。講和中の休戦前の戦とは違い、李氏朝鮮に出兵してる大名達は、過大評価せずに事実しか報告していない。オロオロと出来もしない理想論言い、秀吉に諫言をせずにただ従っている、文官達の一人である三成に、秀秋はこの時心底腹が立った。
三成の発言は更に先日の蔚山城の戦に入った。この時になって三成は詰るようにいい始めた。総大将が重要兼最終防衛拠点地の釜山城を放棄、自らが足軽の如く戦う軽率な行動は総大将とはとても思えない行為は罰するべきであると結論つけた。
これには秀秋は反論した。放棄はしてはいない。千五百程の自兵を残していること。将として筆頭家老の稲葉正成を大将にしたこと。戦働きは確かに軽率かもしれないが、相手が圧倒的に数が多かった。その為、誰もが本気になって、戦わなければ敗北は必至であった。なので、総大将の私が戦働きをして奮いだたせたことなど告げた。
(こんな文官如きがいくら口でいっても太閤殿下なら分かる筈だ。)
秀秋はそう思い込んでいた。三成は総大将になったこともなく、武功すら大したことがないのである。三成の戦下手は、日ノ本で知らない者はいない程であった。だから、武勇について語る三成に秀秋は舐めていたのだ。
だが、全ての発言が終わっての秀吉の決定は始めから決めていた。秀吉は、秀秋に冷め切った顔をして告げた。
「総大将解任、越前北庄十五万石に国替えせよ。」
秀秋は顔面蒼白になった。体も平伏させてから、震えている。惨いっと非難を叫ぶのを、秀秋は何とか飲み込んだ。この決定に大広間にいた者達も騒ぎ出す。少々、厳しすぎる処罰だったからだ。
実は秀吉は何とか秀秋を処分出来る出来事を探していた。それは幼い我が子の秀頼が危なくならないようにしたいが為だ。
秀秋は秀吉の正室である北政所の甥が出生であり、一時跡取り候補にもなったからである。既に豊臣従一位関白秀次は消した。残る秀秋だけだと思い、何とか処分したかった。
三成は早期和睦を諦めていないので、李氏朝鮮で活躍されては困る。それには秀秋を一時叩いて戦意を挫く必要である。この二人の思惑が見事に一致したのだ。
流石に三成が顔をサッと青ざめた。叩けばいいだけで秀吉は厳重注意して、その後は自分が秀秋に李氏朝鮮に対して釘を刺すのが頭で計算をしていたのだが、ここまで厳しくなるとは思っても見なかった。しかし、今更になってはどうにもならない。
(何故・・・。この怨み、忘れはせんぞ。)
秀秋はこの後は二度と秀吉及び三成を信用や好意を向けるものかと密かに誓った。
その後、越前北庄十五万石の国替えは五大老の徳川正二位内大臣家康ら大名などの取り成しもあり特別に却下した。だが、総大将は同じ五大老の宇喜多従三位参議秀家が就任した。
秀秋は格下げされたが、これが当たり前という風潮が世間を占めた。これは、秀吉が世間操作をしたのもある。だが、これは焚きつけである。いい若造が総大将になって、しかも高い領地を要していること。また、戦働きに昔は動けたと、年老いた老将大名などのが羨ましく思ったこと。更に秀吉が裁いた冷徹な態度に寵愛が完全になくなったことで、血縁でも堂々と悪口が公言出来るようになった。これらの嫉妬、妬み、憎悪などが一気に火がついたのだ。秀吉もこれで秀秋は潰したっと納得した。
そして現在、秀秋は一大名として李氏朝鮮に出兵している。皮肉にも釜山城の守備を任されているのだ。ここは安全だった。戦の最前線ではないのもある。だが、大きな理由は、民衆が全く襲わないからである。
秀家は秀秋の対策を悉く変えた。民衆などにも全く心にとめない対策を出した。その為に味方をしていた民衆は、一気に態度を硬化。一切協力をしなくなってしまった。
しかし、協力した民衆も秀秋には恩義を感じたようで、大変残念だ・・・っなどといった無念さを書状で書し、送っている。秀秋もそれに対して同じ気持ちであった。数少ない味方してくれた民衆が、日ノ本軍のいる地から離れる際に警備として秀秋は兵を出している。数少ない最後の施しであった。無論、これに対して多くの大名から非難轟々を受けた。
だが、秀秋はこれに一切弁論はしなく、更に僅かな兵糧と金を渡している。これには民衆も大いに喜んで受け取った。これしか秀秋にはもう出来なかったのである。
このこともあって民衆は秀秋だけは手を出しにくく、また前線でもないので襲わないのだ。
また、今まで従ってきた大名達は秀秋のいうことを全く聞かなくなった。元々、嫌々政策に付き合っていた大名達であるから仕方ないであろう。しかも、今まで負担が多かった秀秋のやり方を公然と否定し馬鹿にするようになっていた。不満が爆発したのである。
だが、そんな中でも秀秋は、現在も李氏朝鮮に出兵を続けている。命は、従わなければいけないからだ。
(思いつかん・・・。)
視線を戻して、秀秋は思考がまとまらなかった。使者の来訪の理由である。戦況は硬直状態だし、叱咤かとも思った。だが、これは今までそんなことは、一切なかったことなので取り消した。その後も色々と案は出たが、決定打がない。
(考えても仕方ないか。なるようになれか。)
秀秋は仕方なしに、そう結論つけると思考を止めて、姿勢を前を向けて足取りを速めた。ゴチャゴチャ思考してても、結局は命には逆らえないのだ。なら、命を早く聞いた方が良いのである。
それに宗章もまた、歩みを速めて、先頭を進んで行った。警戒心は解いてはいない。宗章は秀秋の護衛兵であり、近侍である。それが宗章の役割であるから、宗章にとっては当たり前なのだ。
まもなく軍議が始まろうとしていた。
秀秋以下の李氏朝鮮出兵のほとんどの大名武将と使者は対峙する。使者は果たして大名武将を説得出来るか。その時、一人の男が立ち上がる。
次回、転換!関ヶ原!第一章三節李氏朝鮮脱出『3 大名と使者と思惑と・・・』
「少し、待たれよ・・・・・。」