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転換!関ヶ原!  作者: 歴史転換
本編
17/29

第一章九節 李氏朝鮮脱出

 どうも歴史転換です。今年も頑張っていきますよ。では歴史シミュレーションなのをお忘れなく。

 

9 大阪城会議

 


 十月の二十日。ここは日ノ本の摂津。季節は流石に、十月の中旬の終わりである。夏の色は完全に消えて、秋の真っ最中であった。だがら晴れてても気温は涼しかった、いや涼しすぎていた。

 もう十月の中旬の終わりである。そろそろ、秋から試練の冬に備えなければならなかった。木や草などは夏色を捨てて、秋色になってはいた。だが中には、もう冬色に備えるものもいた。その捨て去ったものは、秋風によって舞う。

 サラヒューっと吹く悲しき音色の木枯らしは、生物の冬支度を邪魔している。生物も秋を楽しむばかりではない。必死になって、冬支度をしているのだ。これをサボるとしっぺ返しがくることを、本能的に察知しているのだ。そう、しっぺ返しが死という奈落の底に叩き落とされることを。だから蜂や熊や蛙や蛇などは、必死になって準備していた。

 それは無論だが、人間もそうだ。やっと稲を収穫し終わった農民は、冬の農作物を植えて始めている。所謂これは二毛作で、稲だけだと生きていけないからだ。商人は秋の儲けの勘定に手一杯で、猫の手も借りたい状況だ。

 こういう状況から思考したら、秋は一番生きる物には、忙しい時期なのかも知れない。


 そして、舞台は大阪城の大広間。そこには、既に石田三成の尋問の為に、豊臣家の重鎮達が勢揃いしていた。つまり、五大老と五奉行の十人である。因みに、今回は主君である豊臣秀頼は欠席である。これは、五歳と幼すぎると配慮した為である。なので今回の会議の進行役である、前田利家が最上座に座している。

 上座には無論だが五大老がいて、下座に五奉行が座している。ここで、最上座に近くを座してる順を両方共に上げる。上座側に座してる五大老は徳川家康、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の順だ。一方の下座側に座している五奉行は浅野従五位下弾正少弼長政、増田従五位下右衛門少尉長盛、長束従四位下侍従侍従正家、前田玄以の順だ。そして尋問される三成は、中央に座している。これが主な配置である。他のも警備の小姓、数十人が各地に配置されている。


(さて、どうなることやら・・・。)

その中で、上座の一番偉い所に座している家康は思った。しかし、家康は天下を奪い取る為に、三成を弾劾する腹でいた。それは文治派の筆頭格である三成を叩き、文治派に対立している武断派を味方にさせるのが理由だ。

 それに元々好かなかった三成に、家康が本気に個人的に恨んでいることもあった。それは豊臣秀吉死後に、家康の暗殺未遂があったからだ。これは、三成が家康の台頭を阻止しようとした謀であった。家康はこれを察知したから回避されたものの、裏で徹底的に首謀者を調べさせた。すると、三成が企んだことが大体の証拠で判明した。これに確証こそなかったが、家康は三成がやったと悟り激怒した。

 だからこそこの際に、その恨みも晴らそうと、家康は意気揚々とこの会議に臨んだのだ。家康は顔こそ能面のような表情だが、内心では禍々しい邪気に満ちていた。もうすぐで会議は始まるが、家康は改めてここにいる重鎮達のことを頭で整理した。


 まずは五大老の面子からだ。前田利家は、家康の五大老筆頭格に近い存在だ。領国こそ利家は加賀を中心に北陸八十三万石と少々少ない。しかし秀頼の傳に命じられていたり、大阪城の主権は事実上、利家が握っている。だから今回の会議の進行役も抜擢されたのである。

 更に利家は秀吉と昔なじみであり、豊臣家に忠義が厚い大大名なのである。能力も性格も特に問題はなかったので家康からして見れば、利家が無き秀吉後の一番の強敵と踏んでいた。

 だが最上座に座している利家は、神尾は白髪、顔も皺だらけ、体は病弱でガリガリに窶れていた。身長が六尺(約百八十センチ)と高い筈だが、腰が折れてて低く見える。その昔、槍の又左っと異名をとった武辺者の面影はない。その青い平服はよく似合った。

 年齢も五九歳と高年齢でもある利家は、体が弱り切っていた。この会議も病魔を押して、何とか参加してはいる。だが、顔入りは真っ青で、体は頻りに震えていた。

(待てばいいだけ、後は勝手に自滅するわ。)

 

 次に上杉景勝は、年齢は四二歳と下りではある。だが領地ならば会津若松百二十万石と、豊臣家の大名の中で第三位の石高を要している。五大老としては、新任だがその石高は油断できない。その小さい体〔五尺三寸(約一五九センチ)〕に比べたらやたらと顔全体がでかい。目はしかし、顔に似合わず細く小さい。しかし、その格好の悪さが、逆に威圧感を与えるのだ。その威圧感をより強くする為か、黒一色の喪服にも通づる平服を着ていた。

 上杉家は前の当主であった、軍神の化身っと称された上杉謙信の兵がいる。その兵は昔は、武田騎馬軍団と同じぐらい恐れられてた強者達である。その強さは、家康の三河の兵とも互角以上に殺り合えるだろう。

 更に上杉家は、天下の陪臣っといわれる直江兼続がいる。これが何故に天下の陪臣と言われるのかは、その領地にある。上杉領地の内、出羽米沢三十万石の領地を持つ兼続は陪臣一である。その能力も極めて高く、天下の文字は伊達ではない。

 なので、家臣団の兵の強さは五大老の中では、家康に続く実力があった。

(田舎者に何が出来る。)

しかし、家康の景勝の評価は低かった。田舎者っというのは、会津は奥州にあるのだ。いくら領地があろうと、奥州は京からは遠すぎる。なので景勝自身も、中央政治には若干だが疎かった。だから現在でも、四苦八苦して五大老の仕事をしてる。

 それに、家臣団も一枚岩ではない。兼続を優遇しすぎで、こちらも派閥争いをしていた。景勝は実直であり、無骨で不器用で無口だ。そういう仲介は一切出来ない質なのだ。だからいくら兵が強くとも、それが正常に機能するとは限らないのが現在の上杉家なのである。


 次に毛利輝元は、年齢は四四歳っと今年は危ない年である。領地なら中国地方七カ国の百二十万五千石と、豊臣家の大名の中で第二位の石高を誇っている。身長が五尺八寸(約一七四センチ)のひょろ長い体格とひょろ長い顔をしている。地味な橙色の平服がその顔を、目立たなくしている。

 毛利家自体は特に荒れてはいない。また、毛利家には、二つの小早川家、吉川家、安国寺家の四家が別にある。これらは毛利家からは独立はしてる。その四家の内部は複雑化してしまってて、殆どの仲こそ最悪である。だがいざとなれば、基本的には毛利家当主である輝元を守護する立場にあるのだ。

(あれは味方につけねばな。)

家康は何とか、輝元を仲間に引き入れたかった。輝元自体の素質を買ってる訳ではない。輝元は五大老の中では、一番器量に欠けている男なのである。大将として何より駄目な、優柔不断な性格が災いしてるからだ。決断力のない大将ほど、家臣にとって怖い者はない。そのことは、輝元を除く重鎮達はよく承知していた。

 家康は、輝元が自分に嫌悪感を持っていないことを買ってるのだ。まだまだ当分の間は、豊臣家の家臣として動かなければならない。そこに政敵だらけだと、何かと動くのには不便だ。だから輝元を味方にしたいのだ。それに、もれなく他の四家も味方につくので、味方にする手はなかった。


 最後に宇喜多秀家は、年齢が三六歳っと一番若く、武将としては絶頂期であった。領地は五大老一低く、備前岡山五七万石であった。しかし身長が六尺三寸(約一八九センチ)と五大老一の大男であった。顔つきも精悍で、器量もあり、猛将として周知に知れ渡っている。派手な赤の平服が、巨体の体を否応なく目立たせる。

 何より秀家は、秀吉の猶子であったことが重要なのだ。そして秀吉夫妻に大変寵愛されて育った。だから豊臣家の忠義心は、五大老の中で一である。

(あの温室育ちの若造に何が出来る。)

実は家康は、秀家を見下していた。いや五大老の中で家康が、最も馬鹿にしている大名であったのだ。器量なら輝元よりも、俄然秀家が勝っているのにである。

 無論それは領地の少なさでもあり、若さからも未熟さも理由にあった。だが一番の理由は、家中が荒れに荒れてるのだ。家中は現在、李氏朝鮮の出兵の費用が、宇喜多家の財政を圧迫していた。家臣団は何とかしようと、倹約質素なども渋々だがやろうとした。だが、秀家はそんなことをお構いなく、湯水のように金を浪費していた。更に正室の豪姫も恐ろしく金を浪費していく。これでは家中が荒れない訳がなかった。

 この秀家は温室育ちで、何でも思い通りにならなければ気に入らない性格だ。更に、傲慢で人の話も全く聞かない。なのでいくら家老が諌言しても、怒鳴り返す始末であった。なので五大老の中で、一番家が危ういのは宇喜多家なのだ。

 

 家康の五大老の中で、自分に対しての危険順位は【利家>景勝=輝元>秀家】の順である。利家は無論だが一位であるが、何故景勝と輝元が同率なのか。

 景勝と輝元個人なら、景勝の方が大名として優秀である。しかしそれを、家中の混乱と味方大名の多さで、輝元が補っているから同率になったのだ。なので同率となったのである。

 そして、最後には秀家がいる。しかし、これは断トツの最下位である。家康からしたら、権力だけが多すぎる世間知らずの坊ちゃんをこう評価するのも仕方がなかった。

 

 次に五奉行の方面に家康は集中した。五奉行は基本的に、文治派の集まりである。なので家康に敵対している状態である。だがそれは表面上であって、内部は複雑化している。

 この点は武断派が三成憎しの一枚岩とは大きく異なっていた。文治派は頭が切れるからこそ、一枚岩になりにくいのかも知れない。家康は密かに、こちらの内部にも工作をしていた。だからこそ内部は複雑化してしまったのだ。


 まずは浅野長政は、年齢が五一歳と結構な高齢である。領地は甲斐一国二二万石である。これは五奉行の中では最高石高であるので本来なら、五奉行筆頭が正論だ。だが世間は三成を、五奉行筆頭に扱ってるし大名間もそう扱っている。なのでかの者は、五奉行の筆頭ではなかった。身長は五尺(約百五十センチ)と当時の平均値で地味だ。更にその黒い平服は、地味さを表してるようだった。

 長政は義姉妹として北政所(秀吉の妻)がいたお陰で成り上がった男だ。能力は五奉行一低いだろう。だが、暗愚ではなく凡愚なので、歳の経験値で何とかこなしている感じだ。豊臣家の親族の位置に長政はいたので、領地も多かったのだ。

 普段から中央に長政は勤務してるので、現在の領地の経営は嫡男の幸長に任せっきりである。そうでもしないと、捨てられる可能性があったからだ。それに性格は極めて穏和なので、色々な仲介にはもってこいの人材だったので中央に滞在しているのだ。

(これをどう扱うか・・・。)

家康自身は決めかねていた。この重鎮の中で、一番位置付けをするのが難しいっと思ったからだ。

 長政は豊臣親族であるので、鉄槌を下さなければならない。だが長政は五奉行の中で、密かに家康を後押ししている。しかも幸長は武断派である。しかもしかも、長政は文治派ながら武断派に信頼されている。これは豊臣家に長く在籍しているので、秀吉子飼い大名達からは長老的存在として扱われているからである。

 だから家康が処断を誤れば、味方を大きく損ねる恐れがあるのだ。それに味方をしている長政を無闇に処断したら、自分に対して武断派は疑心暗鬼に陥るだろう。だから扱いに大変困っていた。

 

 次に増田長盛は、年齢が五三歳っとこれも結構な歳である。領地は大和郡山二十万石である。これは五奉行では第二位の領地である。身長は四尺七寸(約百四十一センチ)と小柄で、抜け目ない顔をしている。その怜悧な性格は、青い平服で表していた。

 能力は偏ってて、中央の政治にはもってこいの人材だが武はからっきし駄目だった。その点は文治派の能力の特徴でもあったが、その特徴に見事長盛は該当している。

(獅子身中の虫だな。まあ儂の役にはたっておるが、いずれは・・・。)

家康は長盛のそう思っていた。

 秀吉が死んだ直後から、長盛は家康に密かに近づいていたのだ。長政の場合は、死ぬ前から家康に何かと仲介をしていたので可愛げがあった。だが長盛は、明らかに自分の領地を守るために近づいた。

 家康は長政に、最低で隠居させるぐらいの処断を思考していた。その後は武断派の幸長を当主にさせるなど、浅野家を取り潰すつもりは更々なかった。

 だが増田家は、必ず取り潰すことを既に決めていた。あまりに露骨に近づいた長盛が気にくわなかったのである。更に、増田家は甲賀の忍びを土地柄上、多く召し抱えいる。家康の召し抱えてる伊賀の忍びと甲賀の忍びは、昔から敵対関係にあるのだ。なので甲賀の忍びの優遇を、家康が許す訳にはいかなかったのだ。


 次に長束正家は、年齢が三六歳と一番若く、油がのりきった歳である。領地は近江水口一二万石である。身長は四尺九寸(約一四七センチ)と少し小柄である。顔つきはノッペリとしている。その青い平服は、少し冷たい性格に合っていた。

 五奉行の中でも正家は、豊臣家の財政や蔵入地の管理を担当している。なので政務は五奉行でも一・二位を争う程の切れ者である。だが文治派の特徴に漏れず、正家も武関係はからっきし駄目であった。

(あれは叩き潰すしかない。だが惜しいな。)

家康は、正家を買っていた。その手腕は、各大名達も認める腕だった。だから家康も天下を取ったら、正家を何らかの役職に就任させたかった。

 だが正家は性格は冷たいが、豊臣家の忠誠心は厚い。だから家康には、完全な敵対心があるのだ。なので仕方なく家康は正家を叩き潰すつもりでいた。


 次に前田玄以は、年齢が五九歳っと五奉行一年齢が老いている。領地は丹波亀山五万石と五奉行一少ない。かの者は僧でありそれを買われて、朝廷の橋渡しや寺院の管理などを任されている。

 そんな重要な役職ながら、何故に領地が少ないのか。それは僧は野心もつべからずっと日頃から玄以が言っているからだ。玄以は無欲であり、出しゃばることを一切しない。それもあって五奉行一野心がない男とも言えよう。

(あれには死なれては困るな。)

家康は何故かこう思った。

 実はここ最近、玄以は寝込みっぱなしだったのだ。一時的に危篤状態まで陥る始末である。今回は病を押しての参加だが、先程からゴホゴホっと重い咳が止まらない。身長は五尺七寸(約百七一センチ)と五奉行一の長身が、咳き込みでまるで目立っていない。顔も白の僧衣と同色に見える。利家も病を押しての参加だが、明らかにこちらの方が容態が悪く見えていた。

 家康はどうしても玄以には生きて欲しかった。玄以は文治派でも武断派でもなかった。現在も頑として、中立な立場を貫いている。それに、公家や朝廷や寺院などの人脈もある。万が一敵対しても、たった五万石では何も出来ないだろう。だから家康は、玄以だけは敵対しても特に処断するつもりもなかった。その中立と人脈を利用したいからだ。


 そして中央に座して尋問される石田三成は、年齢は三八歳っと絶頂期こそ過ぎたがまだいける歳だ。領地は近江佐和山一九万石である。この他にも石田家は、別家で何家かある。

 五奉行筆頭にして文治派筆頭格であるから、政務は一・二位を争う程の能力がある。だが文治派に漏れず、戦闘は苦手である。ただし文治派の中では、苦手というぐらいの腕前はある。つまりからっきし駄目ではないのだ。

 現に三成の配下には、軍師兼家老筆頭の島清興(通称・左近)や、猛将家老の蒲生郷舎、曽祢高光、村山越中などの高名な武将達がいる。だから五奉行の中では、ずば抜けた戦闘力を要している。しかも家中も安定している。だから戦闘にいざなれば、石田家は大暴れするのは必至である。

(あれは利用価値があるが、あまり調子に乗らせないようにしないとな。まあ問題はなかろう。この嫌われ者にはな。)

家康も先程のことから、三成が五奉行の中では一番警戒する相手ではある。だが如何せん、三成には大きな問題があった。

 三成は恐ろしく人気が無かった。他の大名達から内心、殆どが三成を嫌っていた。三成の性格は恐ろしく自分に真っ直ぐであった。嘘を嫌い、政務では一切の情を切り捨てる。

 しかも多少の野心家であり、豊臣家の家臣達の中で権力が欲しかった。なので、政敵や自分が思う通りに動かない大名は、片っ端から威圧し処断していった。その苛烈な行動をしても、豊臣秀吉の一の寵愛を受けていたのでそれを盾にして断行した。そのお陰でか、多くの大名が減封したり改易にされたりした。

 現に清興は元筒井家、郷舎は元蒲生家、高光と越中は元小早川家であり他家の家老衆であった。これ等の家は、三成の手で何らかの処断が下された家である。ただし、高光と越中は秀秋を見限っての出奔であり、少しだけ事情は違う。

 そして石田家はこの他にも、自分で処断した家から出奔した家老や武将達を雇った。だからこそ家は強化したが、他の大名達からはそれがより気に入らない。だから一層、三成は多くの者から憎悪の目を向けられた。特に武断派からは、憎悪だけで殺せる程の憎しみを抱かれている。

 現在は尋問にこの場にいる三成は、やや緊張している。内容も既に、前もって聞いているからだ。平服は青色だが、若干だが顔もそれに近い顔色であった。その身長五尺二寸(約百五二センチ)の体を少しだか震えている気がした。


 家康の五奉行の中の、自分に対する危険順位は【三成>正家>長政>長盛>玄以】の順である。しかし、一番から二番以降の危険度は離れすぎている。二番以降は似たり寄ったりで、玄以は特に害すらないっと家康は思っている。

 この五大老と五奉行を合わせた危険順位は【利家>三成>景勝=輝元>秀家>残り五奉行】の順だ。家康は三成を天下の為に利用はさせてもらうが、三成をそれ程までに評価もしていた。政務や外交などはこれ程に、厄介な相手はそうはいないからだ。だから三成をこの重鎮からは、二番手に危険指定を家康はしていた。


「では揃ったので、李氏朝鮮撤退についての会議を始める。」

家康は色々と思考してたら、いつの間にか利家が会議の開始を告げた。ピーンっと雰囲気も緊張感が支配する。空気もそれに連動して、まだ十四時なのに冷たい空気を出していた。流石の家康も、会議に集中する為に無駄な思考を遮断した。

 今回は李氏朝鮮撤退について、重鎮が集まって会議をする為に、ここ大阪城の大広間に集結した。報告状況なども兼ねるが、主な題材は何故に遅れているかである。秀吉死後の直後に撤退を発して、二ヶ月が過ぎていた。だが全くその間、三成は重鎮達に報告すらしていない。なので重鎮達は無理矢理にでも、三成を尋問させて聞くつもりなのだ。

 利家の発言に一斉に大名達は平伏する中、三成は内心で焦っていた。確かに三成は報告しなかった。だがこれは、李氏朝鮮に出した使者がまだ帰国していない。だから撤退状況は何一つ分かっていないので、使者の通達結果が分からないのだ。三成は基本的にこれまで、事柄の過程を報告することをしなかった。つまり結果主義なのだ。だからしなかったが、それは秀吉が生存してたからこそ出来た特権だ。だからこうして三成は、尋問される立場にいるのだ。

 それに三成は、少々立場を危うくする事柄があった。それは使者を李氏朝鮮に送るのが、九月初旬と遅れて出したことである。秀吉死後直後に五大老が三成に、至急使者を出すように五大老連名書を出しているのにである。実は秀吉死後直後から三成は。、内安定や秀吉の死を秘匿にさせることを優先させることに集中してしまった。なのでうっかり、使者を出すのを忘れてしまったのである。三成は月が変わって九月の初旬になって、やっとこの事柄を思い出した。流石にうっかりではすまされる訳はない、重要な問題である。三成は慌てて、使者を李氏朝鮮に派遣した。

 その際には兎に角、使者を急がせた。だが使者からの報告はない。因みにこの時点で使者は、李氏朝鮮からの即時撤退の説得に失敗。必死にいい訳を思考しながら、日ノ本に帰国してる最中である。


 重鎮達の視線は三成に集中している。そんな中で三成は尋問には一部、自分に不都合なことは隠して報告した。三成は嘘は嫌いだが、それを貫いて処断される程の肝はなかった。だから遅れは天候が悪かったことや、波が悪かったので航海に支障が出ていることにした。

 だがこれには重鎮がきな臭さを感じた。三成の口調がはっきりしないのだ。三成は普段は、スラスラっと流暢に事柄を報告するのだ常である。しかも顔はやけに青く、汗も大広間は冷たいのに吹き出ている。時より、李氏朝鮮の現地総大将である秀家が詳しく質問しているが、その回答の切れ味は悪い。

 徐々にだがそんな三成の態度に、大広間は邪険な空気が漂い始めた。その空気に景勝は眉間の皺を深くし、輝元と三成を除く五奉行の面々は顔が硬直していった。

「ですから、私は・・・」

「ええ石田。お主に任せて早二月が経った。李氏朝鮮なら使者は、二月もあれば行き帰りも出来よう。なのに何故に出兵した大名達は仕方なしに、使者も帰国しておらんのだ。お主・・・怠慢しよったか。出兵してる大名達のことを捨てるつもりか。」

「私は決して、そのようなことは・・・。」

長々と三成のいい訳がましい報告に、遂に家康は焦れて怒鳴りながら詰問した。それに三成は即座に反論したが、顔色は更に青くなった。家康が三成の核心を言ったからである。三成は普段から高い位置にいるので、尋問や逆境には弱かった。そしてそれを見逃さなかったのは、家康と利家だけだった。

 露骨に苛立った表情で家康は、チッとその気持ちを代弁する舌打ちをした。本当は親指の爪を噛みたかった。これは家康が昔からの苛立った時の癖である。だが流石に、親しくない人前ということもあって何とか自重した。

「まあ落ち着かれよ徳川殿。だが三成。我らもこれには疑問がある。だからお主には、この会議が終わった次の日には、博多に向かわせる。そこで改めて撤退の指揮をとれ。ただし今年中に出兵した大名達を帰国させなかったら・・・分かるな。」

苛立っている家康を、利家が冷静にいって落ち着かせた。そして発言が終わると、三成に向かって扇子をトントンっと首を叩く。この態度には大広間の緊張感は、一気に最高潮に高まる。三成の命はとらないと利家以外は思うが、何かしたの代償を示しているのは必至である。

(潮時か・・・)

本気で苛立ってはいるが、内心で家康は計算していた。三成を叩きすぎると後で煩い。それに無理な処断は、三成の利用価値も無くなる。三成にはある程度の地位がなければ、武断派から憎まれないのだ。

 だから家康は渋々な顔を作りながら、首を頷いて見せた。冷静になることと、利家の発言に反論がないことを示したのである。これに他の重鎮も黙って頷いた。これ以上話し合っても意味がないっと悟ったのだ。

 三成からしたら、首の皮一枚だけ繋がった。だがこれを失敗したら、中央の政治から消されることは重々承知した。三成は平伏しながらも、体の震えが止まらなかった。


「ではこれで会議を・・」

「お待ち下さい。」

利家が終えようと発言しようとした矢先、三成は平伏しながらもそれを制した。

「なんじゃ。」

「最近、徳川殿に不審な噂が出ております。太閤殿下が天に逝かれてから、良からぬ噂が出ていますが、徳川殿自身はどう思いますか。」

この三成の発言は正しかった。そして家康は余計なことを出しゃばったっと思わず言いそうになった。

 世間では既に、家康が次の天下人っという後押しの声が広がっていた。実は家康が召し抱えている伊賀の忍びに、そう噂を流すように仕向けたのである。だから全国で家康待望論は広がっているのだ。

 一斉に重鎮達の目線が、家康一人に集中する。特に利家、三成、景勝、秀家、正家の五人の視線は鋭い。かの者達は、反家康である面々だからだ。その他の四人は若干だが狼狽えている目をしていた。

 家康は内心で、三成に対する憎悪を強めた。だがそんなことは、無論だが一切顔には出さない。重鎮達の目線にも怯えることなく、家康は惚けた顔をして言った。

「それなら儂も耳にしておる。全く、亡き太閤殿下から五大老筆頭を命じられた儂からしたら傍迷惑だ。私は今でも上様の一家臣として忠誠を誓っているというのに。」

野心なぞこれっぽっちもないっと言わんばかりの発言に、三成はカッっと顔を赤らめた。これ程の大嘘を平然とつく、家康の太い神経にである。その他にも秀家や景勝や正家も同じ顔をした。出来ることなら、この事柄を尋問したかった。だが一切の証拠はない。だからもうこれ以上、家康を詰問することは出来なかった。

 一方の家康も惚けながらも、目は全く真剣で鋭かった。両者とも譲るつもりはない。その為に大広間の邪険な空気が、一層極まった。大広間に不気味な沈黙の睨み合いを両者がしている中、利家が発言した。

「これ以上は収拾が付かなくなるので、会議を辞める。三成は出兵した大名達のことだけを考えよ。徳川殿は今後もより一層の忠誠心を見せるように期待している。両者ともよいな。」

利家は確かに、家康の行動を怪しんでいた。だがそれ以上に、会議の進行役としての義務を果たしたのだ。

 この両成敗的な発言に、家康と三成は同時に苦虫を噛んだ顔をした。そしてそれを受け取った。こうして大阪城会議は幕を閉じたのであった。

 大阪城会議は終わった。その深夜、三成は怒り狂うしかなかった。

 次回、転換!関ヶ原! 第一章十節 李氏朝鮮脱出

『10 三成の決意』「決めたぞ」

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