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転換!関ヶ原!  作者: 歴史転換
本編
16/29

第一章八節 李氏朝鮮脱出

 どうも、歴史転換です。やっと修正を完了しました。ここまでかかるとは正直思わなかったです。ご迷惑をおかけしました。

 更新が多少は遅くなるやも知れませんが(年末の為)これからも応援宜しくお願いします。

 では歴史シミュレーションなのをお忘れ無く。

 

 8 暗雲の目、蠢く



 豊臣秀吉が死去した頃から、日ノ本は荒れていた。っといって表立ては平穏ではあった。だが、その平穏が偽りであることは、殆どの者達が承知していた。

 亡き秀吉は果たして、大名達に何を残したか。そんなのは、負の遺産ばかりだった。李氏朝鮮の出兵なぞ、その筆頭格だと言っても過言ではなかった。殆どの大名達は、口には出さないが憤怒している。いや、嫌悪や憎悪をしていた。唯一の領土確保も、自己気分で秀吉は処断することが多く、あんまり有り難みもなかった。寧ろ、秀吉の機嫌取りをし続けなければならないのが嫌だった。元は農民出であって、下克上の風雲に乗って天下を掠め取ったものだ。身分制度が厳重な日ノ本の人にとっては、この男が天下人なぞ認知し難かった。だが、そこは時代の流れには逆らえなかったので、各大名達の殆どが渋々従っていたのだ。

 

 十月の初旬の頃、日ノ本の京にある伏見城。十月なのに夏の名残があるのか、夜なのに残暑が照ってて暑い。だが、生き物は徐々にだか風物詩なものに交代をしつつあった。現に夜中のせいなのかは分からないが、蛙の鳴き声が煩く聞こえる。だが、その声は若々しいものであった。進化の過程で得たものを、試したいのだろうか生き生き鳴らしていた。


 伏見城は、その秀吉が最後を迎えた城ある。秀吉は死後、密かに阿弥陀ヶ峰に葬られたので、伏見城にはいない。いや、豊臣家に忠義を誓う者がいないっと言った方が正しいのだろう。

 ここには、日ノ本に激震を呼ぼうとしている暗雲の目が城主となっていた。その目を警戒して秀吉は、遺言に大阪城立ち入りを控えることなどを盛り込んでいる。自分の息子の秀頼に手を出させない為である。だが、あまり無礼過ぎると爆発することも秀吉は重々承知していた。だからこそ、自分の隠居場所であった、伏見城を半ば譲る形にした。だから、この目は堂々とここの城主の態度をとっても、豊臣派の者の別地への移動、つまり事実上の伏見城追放をしても、誰も文句は言えなかった。


 そして、その目は伏見城の大広間の最上座で座していた。豪華絢爛な部屋に対しては、その目はこことは似合わなかった。見た目は狸爺っといってもおかしくない風貌で、田舎くさい雰囲気を出していたからだ。そして身中こそ五尺四寸(約一六二センチ)と結構な高さではあるが、最近気にしている腹も出てるし肥満に近い狸である。だが、その内部からはただならぬものが滲み出ていた。

「ぐふふふ・・・・。」

その目である、徳川家康は最上座で笑っていた。座しているからか、腹の肉が笑いで揺れてるのが分かりやすい。笑っているのは確かだが、目だけは眼光が鋭く決して笑っていなかった。そしてその笑い方は陰気な雰囲気が出ていた。笑っているが黒い平服がよく似合った。更に、行灯の灯も足りてないのか、大広間は薄暗かったがそれがまた極めさせた。

 家康は陰気な笑いが止まらなかった。やっと、あの憎き秀吉が死んだからである。流石に表立ってはこれを宴にはしなかったが、裏ではこれを杯に、家康は何度も酒を飲んだ。そしてその酒は、美味くて美味しくて仕方がなかった。それは、これからの天下の味を思っての酒だったからである。

 

 元々かの者程、秀吉に忠義を誓っていない男はいなかった。無論だが、表面上は律儀の仮面を上手く被っており、本性は他には悟られないようにしている。だから殆どの大名達から見れば、家康は豊臣家に忠誠を誓う者はいないっと目に映っていた。

 だが家康は、昔から忠義や律儀がない訳ではない。昔は第六天魔王っと自称した覇王こと、織田信長の同盟には一切破ることはなかった。時には嫡男や正室を処断させたり、当時の強敵であった武田信玄の引きつけ役にされたりと、信長から無理難題を要求されたこともあった。それに、家康は全く文句を言わずに実行し続けた。

 ただし、家康が信長に逆らっても絶対に勝ち目がなかったのも要因にある。近畿、山陽、北陸、山陰、四国、関東地方にも手を伸ばしていた織田家は、当時は飛ぶ鳥も鉄砲で撃ち殺す程の勢いがあった。織田家の支配した地の総石高も、五百万石は軽く超えていた。当時の信長は、最も天下人になるのが近いとも言われていた。一方の徳川家は当時、駿河、浜松、三河の三国であり、総石高も百万石もなかった。

 だから二人の同盟とは名ばかりであって、事実は織田家に徳川家は支配されているのも当然だった。だが、これは半分は仕方ないっと家康自身が諦めて納得してたから、文句も殆どなかった。互いの才能の出来が違いすぎることを、家康は重々実感してたからである。だからこそ、この時は天下人になる野心など夢にも思ってなかった。ただ、生き抜くのに必死だった。

 

 だが、時代は大きく揺れた。一五八二年本能寺の変にて、反逆した家臣の明智光秀に信長は殺されたのであった。当時、信長は家康に堺で豪遊させようとしてた。それを堺で聞いた家康は、光秀の追っ手から逃れるために僅かな家臣達と伊賀越えをして、命からがら何とか敵地から脱出した。

 その時に目聡い家康に、天下への野心が芽生えた。家康は信長の嫡男であった信忠も、本能寺の近くの二条城にて光秀と交戦。一時期は存分に暴れたが、結局は多勢に無勢で討ち死にしたことを知っていた。家康はこの信忠は信長の子の中で、唯一の出来の良い息子だと感じていた。もし、信忠存命ならばそのような野心は芽生えなかったであろう。

 だが、信忠も討ち死にして織田家は大混乱である。光秀は秀吉に討たれてしまったが、火事場泥棒の如く、織田家領地の甲斐一国と信濃の大半を掠め取った。名目こそ織田家援軍と発言したが、事実はそこを乗っ取る為だった。

 現に、織田家清洲城会議にて、そこ二カ国の領地を家康は手に入れたのであった。織田家の救出を手助けをしたという手柄であった。これで徳川家は、一気に百五十万石近くの大大名に成り上がった。この時には家康は天下取りの野心が、完全に開花してた。


 だが、時代は家康を選ばなかった。豊臣秀吉の台頭があったからである。家康はこの秀吉に一時は交戦もしたが、結局は降伏するしかなかった。ただし家康は、自己の評価と価値を存分に高めてから降伏した。この為に秀吉からは、信用こそ勝ち取れなかったが牽制は出来たので迂闊に手を出せなくした。

 その後は家康は表面上は律儀の仮面を被り、秀吉の配下になった。関東一帯をほぼ支配していた後北条氏を滅ぼしてからは、秀吉が今までの領地を没収し、後北条氏の領地に移封を命じられた時も唯々諾々と従った。家康の内心では無論、故郷を離れることに怒りもあった。それに後北条氏の残党も気になった。しかも、家康一同は関東のことを殆ど知らなかった。そういう点では、前途多難が予想された。

 だが家康はここに大きな好機があることを察知していた。だからこそ家康は家臣達が反対をする中、強引にでもここの移封を決定し断行した。

 好機とは、まずは領地拡大であった。後北条氏は武蔵、上野、下野、上総、下総、相模、伊豆の七カ国を支配していた。関東は米がよく収穫されていた。総石高は約二百五十万石であった程だ。しかも、移封当時がこれであって、今現在は三百万石近く実はある。これにより徳川家は、更に大大名となって戦力を拡大させた。

 次に徳川家は、李氏朝鮮の出兵に参加しなくてもいいことであった。秀吉は天下統一間近から、周囲に出兵を公言していた。家康からしてみれば、馬鹿馬鹿しい限りの暴挙である。だからこそ家康は、後北条氏の残党と新領地の経営を盾にして、秀吉に対して出兵を平然と断った。これには秀吉も了承するしかなかった。

 

 そして、豊臣家に降伏したものの、家康は決して天下の野望を捨てていなかった。家康は信長なら天下人になることには納得はしたが、秀吉は出生や個人能力は自分に劣って見えた。だから到底、天下人に秀吉がなるのは納得し難い。ただ運が良いだけだと感じていた。だから家康は運が無かったから仕方なく降伏したのだっと常々思っていた。

 それに家康は降伏して豊臣家を内部を拝見すると、更に天下の野心は根強く残った。豊臣家の内部抗争は表面上にはなかったが、家康が降伏してた頃から既に始まっていた。

 秀吉は、いくら出生を誤魔化した書物を作ろうとも、所詮は農民出である。だから秀吉は、元からの家臣達は零であった。つまり年季の入った家臣達がいなかったのである。

 だから秀吉は、一から家臣団を形成する必要があった。秀吉は子に恵まれなかった代わりに、子飼い達に愛情を出して急激に出世させた。それは依怙贔屓っと周囲に言われても仕方がない程であって、露骨過ぎであった。そしてその子飼い達は、秀吉にとって譜代大名として扱ったのである。

 だが、その譜代大名間で亀裂が入っていた。石田三成を台頭としている文治派と、加藤清正を台頭にしている武断派が対立してたのだ。ただし、家康降伏時は大した亀裂ではなかった。

 しかし、家康はこの亀裂に目をつけた。抗争事態は何処でも見られるので珍しくない。だがそれを秀吉は、全く注意もせずに静観していた。秀吉は、この両者を競わせる目的があったので傍観したのだ。

 だが、家康がそこの悪い所に目をつけた。もしこれを根深くしたら後々、豊臣政権を揺るがすことになることになると思った。大体、殆どの大名が渋々、秀吉に従っているのだ。そこで子飼い大名達が争えば、豊臣政権は保つ訳はなかった。

 それを察知した家康の行動は早かった。自分がやっているとは気づかせないように、内部抗争を煽ったのだ。これには、配下の伊賀の忍びを使った。家康には、雇った伊賀の忍びを統率した服部正成がいたので、容易なことであった。まさに家康は、自らを獅子身中の虫となって豊臣家を動き回った。

 

 そして、現在。家康の工作は実を結びつつあった。文治派と武断派の対立は、収拾がつかなくなっている。つまり、互いに憎悪してしまっている状態であった。

 そして、知恵が今ひとつ回らない武断派の者達を、自分に今後は味方するように家康は動いていた。三成の憎悪に気が回りすぎてる者達を籠絡するのが簡単だったからだ。文治派は武断派を馬鹿にしてる態度が多く、そこまで憎悪は高くはなかった。だから家康は武断派を味方につけようと動いているのだ。


 そして一番家康が懸念していた、秀吉の命もいい時に散った。初めは早く殺そうと伊賀の忍びを動かせた。だが流石にこればかりは、伊賀の忍びが陰で工作しようとしたが無理であった。家康は早々とこれを諦め、秀吉の寿命が尽きるのを気長に待つことにした。元々、待つのは得意分野だし、健康管理には自信があったからである。

 何故、家康が秀吉の命を早く縮めようとしたのか。それはこの両者の対立の、最後の留め具だったからである。傍観してても悪い方向になったら、流石の秀吉も和解に乗り出す。だからこそ家康は、陰で内部工作を程ほどにして対立を煽らせた。だが秀吉は、その対立の最高潮一歩手前で死んだ。だからこそ、家康にとってはいい時だったのだ。


「今宵も上機嫌ですな。」

伏見城の大広間には、家康の最上座と上座の分かれる段のすぐ側で座しているこの男しかいなかった。不用心だったが、屋根裏には伊賀の忍び達がいて、警護していた。なので、表向きには不用心だが、万全の警備体制であった。

 だが、この男には警備はいらない。何故なら、家康が特に寵愛していたからである。その老いた木の枝に等しい体に平凡な顔つきは、どう見ても大した者には見えない。しかし、その知能は徳川家随一といっても過言ではなかった。

 そしてこの男は昔、一時は徳川家から出奔したが、現在は心から忠誠を誓っていた。その忠誠心は家康の中では一番を勝ち取り、密談などにはこの男を片時も離さなかった。この家康から、絶大な信頼をされてる男の名は本多正信といった。


 正信も家康に話しかけて、黒い笑いをしていた。かの者は元来から陰険であった。その家康とお揃いの黒い平服は、心中からの染み出た色と言っても過言ではなかった。

「ぐふふ・・・。この家康がこの時をどれだけ待っておったと思うのだ正信よ。」

「はて。上様の考えておられることなど分かりません。」

家康の問いに正信は如才ない返答をした。家康はそれを聞くと陰気な笑いを強めた。その笑いは

 上様は天下人しか使えないのである。この世だと秀吉の幼き息子であった秀頼に使う言葉だ。例え秀頼が六歳だろうと、秀吉の後釜はかの者しかいない筈である。

 だが正信はそれを無視した。つまり、天下人は家康だと正信は遠回しに言ったのだ。これを察知したから家康は、更に陰気な笑いを強めたのだ。


「正信・・・。これからはどうすれば良いかの。」

笑いをピタリと止めて真顔になった家康は、飄々として座している正信に聞いた。家康の内心では既に、決定事項もある。だが、この老獪な謀臣の話を聞くのが通例であった。

 正信も家康の真顔に笑いを止めた。んーっとわざとらしく腕組みをして、正信は考え込み姿を見せた。この時点で正信には案がある。だが、勿体ぶって簡単に話さない嫌な癖があった。家康は普段から、その癖には苦々しいものを感じてはいた。

「・・・そうですな。上様が今後は大人しくした方がいいかも知れません。」

正信の回答に家康も頷く。家康自身もここまで来た以上は、焦ってはならないと思ったからである。

 

 家康以外にも五大老はいる。毛利輝元、宇喜多秀家、上杉従三位中納言景勝、前田従三位権中納言利家の四人である。この内、秀家、景勝、利家は家康に警戒心を出している。つまり、敵意があるのだ。一人残された輝元は、中立的であって家康に敵意はない。 この四人はそれぞれで家康に戦えば、勝ち目は薄い。各領地は、秀家は備前岡山五七万石、景勝は会津若松百二十万石、利家は加賀を中心に北陸八十三万石、輝元は中国地方七カ国の百二十万五千石であった。個人だと頑張って家康の半分にしかならない。

 だが、もしこれが協力して刃向かえば話は別だ。家康は忽ち窮地に立たされることになる。特に利家には、各大名達から人望が高いので敵になったら厄介である。焦って豊臣家に敵対行動を起こしたら、即座に敵意のある三人は行動するだろう。だから家康は迂闊に動けないのだ。


「工作も暫し休息か。それに待てば待つ程、此方が有利になる。」

家康はそういうと、正信もこれに頷いた。

 待つとは何なのか。実は、最近になって利家の体調が良くない。病気がちで、屋敷で床に伏している状況なのを家康は知っていた。利家は五大老の中で、家康は一番厄介な存在であった。利家が死ねば、家康の行動に重荷は殆ど無くなる。だからここらで、利家が死ぬのを待つ方がいいと二人は感じた。

「それにしても、上様はご健康ですな。アチラでも健康と聞いております。」

正信の横に逸れそうで逸れていない発言に、ニヤリと家康は口元を歪めた。その歪みはネットリしたものであった。

 家康は夜の契りも俄然現役だ。御年五十七歳である。凡人ならば下は引退してしまうか、この時代の鉄砲並みになる筈である。だが家康の下は、現代の連射式鉄砲並に元気なのだ。流石に毎晩とはいかないが、一日間隔で日を開けて、側室と長い夜を共にするのだ。そこの元気な所を正信は言ったのである。


「いやいや、女はいいぞ。・・・さて正信、ここにいない大名達はどうする。」

家康のこの問いには、正信は真剣に腕を組んで思考した。

 ここにいない大名達とは、李氏朝鮮に出兵している日ノ本軍である。かの者達の殆どが家康とは繋がりはある。だが流石に今の状況で、家康に味方しろなぞ言える訳がない。かの者達は撤退に精一杯なのだ。家康が味方にしたい武断派の多くは、未だに出兵してる大名が多かったのだ。

 秀吉死後直後には、五大老の連名で撤退を命じてはいる。そして、五奉行筆頭にして文治派筆頭の三成に撤退の指示を任せている。だがその役目の成果について、全く応答がない。近日その結果を聞く為に、五大老は大阪城に集結し、三成を尋問する予定も入っている。この時に家康はかなり三成を弾劾する予定だ。武断派に対して味方であることを訴える為である。

 因みに三成を叩くには訳がある。武断派は家康に好意を向けているが、豊臣家に忠誠心がある者が多い。清正や福島政則などは秀吉を敬愛している程だ。だが、かの者達は三成を憎悪していて、豊臣家のことを忘れてしまっている。なので三成を利用することによって、武断派の目を三成に向けて、豊臣家を見せなくする為に三成を叩くのだ。

「暫しは、内堀に集中した方がいいかと存じ上げます。」

つまり、ほうっておけと正信は家康に進言した。確かに、いない以上は仕方ないっと家康も感じてか、賛成の意を首で頷かせた。家康にはまだまだやることが沢山あるのだ。さっさと話を打ち切った。

 正信と家康は、天下取りの野望達成の為の策略を、深夜まで話し合っていた。


 

 大阪城の大広間で始まる尋問。そこには、日ノ本の重鎮と一人の文官がいた。

次回、転換!関ヶ原! 第一章九節 李氏朝鮮脱出

『9 大阪城会議』「私は決して・・・。」

 

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