間章 秀秋の経歴表
今回は秀秋の経歴設定です。後々のネタばれもありますので、注意して下さい。
7.5 小早川秀秋の歩んだ道
どうも、歴史転換です。この作品を読んでいただける読者様に感謝しつつ、何とか毎日更新を今の所はしています。さて、今回は小早川秀秋の歴史について述べようっと書いております。前間章にも人物設定がありましたが、今回は小早川秀秋の設定を詳しく迫ってみようと思います。この設定が後々の本編で重要なことも書いていますし、出来事も間章で改めて書すつもりではあります。その意味では、間章扱いはいけないのかもしれません。なので、今後の章を楽しみにするなら経歴を見ない方がいいのかもしれません。ではでは、早速書きましょう。
木下秀俊→羽柴秀俊→小早川秀秋(秀秋で全章、名を固定)
産まれた日、一五八二年六月三日早朝。
産まれた直後、親子はさっさと寝た。産声は小さかった。
父は木下家定である。母は菊姫(オリジナル、出番はあるかも知れない。)
幼名は辰之助。だが、あまりに幼名を名乗る期間が短かったので、基本的に呼ばれない。
五男として産まれているが、家定は七人の男の子がいる。子の仲は基本は悪い。特に長男と次男の仲は険悪である。秀秋は長男の勝俊、六男の俊定、七男の秀規とは仲がいい。逆に次男の利房、三男の延俊、四男の延貞とは仲が悪い。兄弟は秀秋以外は一応は凡将止まり。五男までは血筋で大名になっているっと世間では思われている。六男と七男は元服してないので家定の元にいる。最近では豊臣姓を秀秋以外は下賜されたので、その名を名乗る。
親から疎まれていた。理由は特にない。だが、利用価値からある考えを持った。
一五八五年四月に豊臣(当時は羽柴)秀吉の養子に出される。理由は父の家定の要望が煩かったから。このこともあってか家定には五千石の加増があった。この間、豊臣夫婦から可愛がられることはなかった。秀秋の性格は暗く、人間の欲望の黒さに嫌悪感がでる。他の養子の者達の中で一番仲が良かったのは羽柴秀勝である。といっても親分子分の関係。だが、秀秋にとっては嬉しく感じたと同時に、何故か安心した感覚があった。
一五八六年十月にその羽柴秀勝死去に衝撃を受ける。また、この時に身近の死を初体験。性格もより暗く無言になる。
一五八九月一日に丹波亀山城の城主になる。領地は十万石。この時に松野平八重元が筆頭家老になっている。後の小早川家の中での上層部一の古株になる。当時の信頼関係は零に等しい。また、政治なども家臣任せである。
一五九〇年の後北条の討伐に参加。初陣を果たす。だが、武功らしい武功はない。ただ参加しただけ。
一五九二年に現在の従三位中納言に叙任。この際に濃という不思議な老婆に会う。これが、女の中で始めての優しくされた者だ。当時の秀秋はただ無言で無愛想だったが、濃は気にせずに顔は優しく笑いながらも無言に付き合っている。仲も当時は淡白だった。 実は濃は織田信長の正室であった鷺山である。現在は京の山奥に天魔寺という名の寺を立てて、ひっそりと暮らしている。その濃の正体は、誰も知らない。濃は美濃からとった名であり、流石に歳を老いたから美は自重して濃っと名乗っている。秀秋とは現在も交流があり、仲は良好である。当初は秀秋の正体を濃は全く知らなかった。現在の生活は困ってないが、秀秋は気にしてか五十石程援助している。
一五九三年八月に現在の秀吉の一人息子の秀頼が産まれる。これにより秀吉が養子達の処分を思考を始める。
一五九四年七月に小早川家の養子として出される。この時は李氏朝鮮の戦は講和中の為に休戦。隆景と秀秋は備後三原城にて面会を果たす。更に正室となる古満と結婚。小早川夫婦からは大変寵愛された。また、この際に先に養子になってた小早川秀包は別家という形で独立した。また、特に秀秋を嫌う者達は秀包の家臣に移籍した。その為、同じ小早川家でも仲は険悪である。この頃から秀秋は少しずつだが明るい一面を信用する者達に見せ始める。養子になったが領地などは継いでないし、当主などにもなっていないので、丹波亀山城十万石は変わらず。秀秋は隆景に弟子入りして武将の心得や能力を磨き始める。
一五九五年七月一五日に秀吉と同じ養子仲間の秀次が処刑される。関白残虐処刑事件である。秀吉の嫌悪感が九割に達している。この時に最上義光の子にして側室の駒姫の助命嘆願に参加。義光のしつこさっと古満の同意。秀吉の嫌悪や駒姫と一回だが面会してみて、相性が良かったことが理由。
しかし、駒姫は八月二日に処刑された。その際に伴天連によると死神の鎌が見えたっと言ったことが噂になる。駒姫はこの前日に釣船草を取るように頼むと、それを秀秋に渡すように懇願した。現在、その花は秀秋から古満に渡っていて、押し花として保管してある。
駒姫の首は畜生塚に埋められそうになったが、秀秋が直談判をし、秘密裏に秀秋が葬ることで何とか回避された。秀秋が選んだのは、濃がいる寺である。
だが、これが秀吉の勘気に触れて丹波亀山城十万石を没収される。更に三原城に監禁を命じられる。駒姫事件は表向きは、秀秋が関わってないことになっている。なので駒姫は畜生塚に葬られたことになっている。
だがこの際に目聡く、小早川家以外の部外者で一人気付いた駒姫の母、大崎夫人がこのことを知って、後に秀秋に感謝状を書している。また、秀秋と共に一緒になって墓参りもしている。だが、これは同時に遺書的な要素もあったようで、その後大崎夫人は自殺している。
同じ年の十月に隆景が隠居。秀秋の監禁が許されないことと、最近体調が悪いことが理由。秀秋は固辞したが、小早川夫婦や古満、唯一付いてきた家老の重元の説得に渋々認めた。現在の筑前と筑後・肥前の一部の三十万七千石を引き継ぎ、小早川家の当主になる。家紋も隆景のを変えて、違い鎌に変更する。これは秀吉の秀次処刑の際に、妻子や側室達を惨殺したことの皮肉である。秀吉は隠居を渋ったが、隆景は気に入ってたし、人望や能力を思考すると粗末な態度が出来ずに認めた。だが、筆頭家老に稲葉正成を命じたり、三大家老に正成、平岡秀勝、山口宗永を任命などと口を挟む。この時に現在の主な武将達が集結する。また、本格的に小早川家にいた家老達が本家毛利家や別家の小早川家、隆景の身辺につくなど出奔して、上層部が一時空欄になる。
一五九六年、小早川家に秀秋派と秀吉派に二分される。家に不穏な空気が漂う。
一五九七年一月に李氏朝鮮の再出兵を秀吉が決断。秀秋を現地総大将に任命する。秀秋は固辞するものの、聞き入れられなかった。ただし、秀秋自身は出陣せず。肥前の名護屋城にて指揮をする。
一五九七年七月、小早川隆景死去。三原城で最後は問田の大方に看取られて亡くなる。秀秋は三原城に駆けつけて死去の前日に面会した。その後、容態が急速に悪化、慌てて大広間に向かったが死去してしまい看取ることは出来なかった。その後、問田の大方は周防国の吉敷郡問田に在住することになる。秀秋はこれに二百石程の援助をしている。本人は千石以上にしたかったが、二百石ぐらいなら・・・っと問田の大方に言われたから二百石で我慢している。この後に秀秋家中では三原城の反乱っと言われる事変が起きる。秀吉派の出奔である。隆景がいるからこそ秀吉が手を出しかねた。その隆景が死去したからには、遠慮もなくなり家も危うくなることを懸念したのだ。予想通り、秀吉は家が混乱してるにも関わらずに李氏朝鮮に直接行けとの指令が出る。結局、葬式をして直ぐに現地に向かう。
一五九八年一月に蔚山城の戦で活躍する。だが、これに待ったがかかり、小早川家全軍の強制帰国させる。二月に伏見城にて秀吉から現地総大将解任と越後北庄十五万石に国替えを命じられる。隆景がいないから遠慮なく処罰したのだ。だが、直ぐに国替えは却下された。この時に秀秋は完全に秀吉を憎悪する。また、三成にも憎悪を持つようになる。三月には再び李氏朝鮮に出兵する。
同年五月に再び秀秋は小規模の強制帰国を命じられる。六月に伏見城で秀吉と最後の接見を果たす。だが、老弱してる秀吉の哀願を聞いても心中に一切の悲しみはなかった。八月には再び李氏朝鮮に戻る。
一五九八年十月十五日に李氏朝鮮からの撤退を命じられる。
秀秋の経歴は以上です。関係を書すと、秀秋の小早川家は本家の毛利家とは仲はそんなに良くはないです。疎遠といった関係です。毛利両川といわれた吉川家とは仲が悪いです。それ以上に悪いのは別家の小早川家です。隆景が死去してからは、秀秋の小早川家と仲がいい大名は秀吉死去の時には木下勝俊だけです。基本的に秀秋の小早川家は馬鹿にされています。
家中の仲はいいです。適度に節度も守っているし、上層部の武将達は忠義心の塊です。また、下っ端の足軽などの秀秋の信頼度も高いです。秀秋を中心に家は動いています。
秀秋の小早川家の方針は『本家毛利家第一にする』です。この他にも『天下を狙わない』もあるが、秀秋はこの天下に嫌々関わって痛い目にあっている(李氏朝鮮の現地総大将)ので先頭に立ったり、総大将などの重要な役割などに関わりたくないっと秀秋は思っている。
詳しい経歴の出来事は今後、間章で書くことになると思います。後、追伸ですが立花宗茂などの有名で名をよく改名する者ですが、現在で有名な名を使用しています。ご理解をお願いします。
いつかは家中の家臣達の感情の設定も間章で書くつもりです。