08
「ロゼ!遅くなりました、申し訳ありませんっ」
ランスロットと顔を合わせていた部屋を飛び出したアルベルトは、真っ直ぐにロゼリアの部屋へ向かった。
ノックをしてから彼女の部屋に飛び込めば、ロゼリアはメインルームに用意されたソファに腰掛け──ベルディア皇国でも最高級品質のものだ──きょとん、とした様子でアルベルトに目を向けた。
肩で息をするアルベルトに、ロゼリアは「あら」と言葉を漏らす。
「ロゼ……?」
そんなロゼリアの様子に、思わず首を傾げるアルベルト。
ロゼリアはまじまじとアルベルトを眺めたあと、手招きをしてテーブルを挟んだ向かいのソファに座るよう促した。
ちなみにその場所はいつもアルベルトがロゼリアの食事姿をうっとりと眺めている、彼がよく腰掛けている場所である。
「あなたにロゼと呼ばれたのは初めてね」
「え?」
椅子を勧めてくれるなんて、なんて心優しいロゼ!と心の中で感動しているアルベルトは、一瞬ロゼリアの言葉を理解出来なかった。
数回ほど目を瞬かせるうちに彼女の言葉を噛み砕いて飲み込み──さっ、と顔を青ざめさせる。
アルベルトはロゼリアのことを“ロゼ”と呼んでいる。
しかしそれはロゼリアがいない場所でだけの話であり、ロゼリアの前では、その呼び方をしたことは一度もなかった。
「も、申し訳ありませ……っ!」
魔族にとって、名前というのはとても大切なものなのだと、聞いたことがある。
名前があるから認識され、名前があるから強くなれる。
魔族は魔力により寿命が決まるそうだが、魔力というものは最大量が徐々にであっても増えるものである。
名前の有無により魔力量というものにも差があるらしく、さらに名付け親の魔力量によっても異なるらしい。
魔力量の多いものに名前を付けられれば、それに準ずる高い魔力を得ることができる。
逆に魔力量の少ないものに名前を付けられれば、思うように魔力が伸びないのだそうだ。
ロゼリアの名付け親は、実の父だと、以前聞いていた。
つまりそれは現魔王に名をつけられたということであり、強さの象徴でもある魔王に名付けられただけあり、ロゼリアの魔力は、魔族の中でも特に多い部類に含まれるらしい。
だからこそロゼリアは自分の名前が好きだと言っていたし、大切だとも言っていた。
そう、ロゼリアにとって“ロゼリア”という名前は特別なものなのだ。
人族は親しくなれば愛称をつけたがるそうだが、魔族はその限りではない。
アルベルトも一応は人族であるため、ロゼリアのことはぜひとも愛称で呼びたいとのだったが、その話を聞いてからは、ロゼリアの愛称を、少なくとも彼女の前で口にするのは止めておこうと気をつけていたのである。
なのに、つい、彼女の前で“ロゼ”と呼んでしまった。
ロゼリアの大切な名前を、あろうことか、自分が。
「──いえ、いいの。そう呼ばれたのは初めてだから、少し驚いただけよ」
「……怒らない、のですか?」
しかし予想に反し、ロゼリアは驚いただけだとあっさり答えるだけだった。
「なんてことを!」と怒鳴られたり、責められたりすると思っていたのに。
「なぜ怒る必要が?」
「魔族にとって、名前は……とても、大切なものだと仰っていたので」
アルベルトの言葉にようやく納得がいったのか、ロゼリアは「ああ……」と頷いた。
そしてふふっと面白そうに笑うと、ゆっくり瞬きをしながら口を開く。
「確かに、名前はとても大切よ。けれど、ロゼというのはロゼリアからとったものでしょう?全く無関係というわけでもないし、別に違う名前で呼ばれたからと言って弱くなるわけでもないわ」
ロゼリアの言葉に、アルベルトはあからさまに胸をなでおろす。
怒られなかった──というよりは、ロゼリアに嫌われなかったことを安堵しているのだろう。
安堵の表情を浮かべるアルベルトに、ロゼリアはくすくすと笑い声を漏らした。
「私がロゼなら……あなたはアルね」
次いでロゼリアの口から飛び出したその言葉に、アルベルトは目を丸くする。
アル、などと。
呼ばれたのは、初めてだった。
初めての呼び方を……愛しいロゼリアが、してくれた。
ようやく思考の追いついたアルベルトの顔が、ぶわっと真っ赤に染まる。
面白いくらいに真っ赤になるアルベルトに、ロゼリアはからからと楽しそうに笑う。
そしてその笑みを浮かべる表情の、アルベルトを見つめる眼差しが、あまりに……柔らかくて。
アルベルトは顔を真っ赤に染めたまま、ロゼリアに「愛してます!」と大きな声をあげるのだった。
「そう、ありがとう。私もアルのこと、結構好きよ」
いつもであれば、ロゼリアはアルベルトの愛の言葉を「あらそう」と流している。
なんとなく嫌われていないということはわかっているけれど、だからといって、好かれているとも思っていない。
だからロゼリアが答えてくれるとは思っていなくて、そのまま聞き流されたとしても、構わないと思っていた。
アルベルトとロゼリアは婚約者なのだ。
例えロゼリアがアルベルトを好いていなくても、アルベルトが彼女を愛している限り、表面上だけでも夫婦になることは決まっている。
貴族には幼い頃から、家の決めた婚約者がいることが多い。
基本的に親の決めたことに子が逆らうことは出来ず、婚約者の他に想い人がいたとしても、婚約者に対する気持ちが一切なくても、結婚しなくてはならない。
その場合は式を行い、義務的に子どもを作り、後継者さえ出来てしまえば、あとはもう何をしようと自由である。
互いに愛人のいる夫婦だって少なくないし、子どもを置いて家を出ていく妻もいる。
公式の場でのみ“夫婦”という仮面を被る──いわゆる、“白い結婚”というやつだ。
ベルディア皇国では白い結婚をしている者は少なくないため、だからこそ、誰もが愛し合って結ばれる夫婦というものに淡い憧れを抱いている。
アルベルトはいずれ自分は白い結婚をするだろうと思っていたし、婚約者候補たちと何度顔を合わせようと、愛情の欠片も抱くことは出来なかった。
だからロゼリアを一目見た時の衝撃といえば、言葉では言い尽くせないほどに、素晴らしいものだと思う。
まるで電流が走ったかのような、雷で撃たれたような、体の奥底から何かが溢れ出てくるかのような。
ただただ、彼女を愛おしいと思った。
だから、彼女と共に、生きたいと。
「ロゼ、ロゼ……!ああ、俺は夢を見ているのか?ロゼが、俺を好きだなんて。いっそ、今死んでも幸せなくらいだ!」
「死んだら、もう私に触れないわよ?」
「それは困る!」
幸せ、だ。
愛するロゼリアと同じ時間を過ごして、愛するロゼリアに好きだと言ってもらえて。
死んでも幸せなくらいだという言葉に嘘はないけれど、やはり、ロゼリアの言う通り、ここで死んでしまえば彼女に触れられなくなる。
それは嫌だ。
まるでゴロゴロと喉を鳴らして懐く猫のように、アルベルトはロゼリアにべったりと甘えている。
ロゼリアが軽く膝を叩いてやれば、アルベルトは顔を赤くして、けれど嬉しそうに、彼女の足に頭を乗せる。
アルベルトのダークブルーの髪を撫でてやれば、アルベルトはへにゃりと、幸せそうな笑顔を浮かべた。
──どうやらアルベルトの機嫌は、すっかりなおったようである。
自分の行動ひとつで態度を変えるアルベルトに、ロゼリアは可愛いなぁと頬を緩めた。