01
アルベルト・ローゼ・ベルディアは、ベルディア皇国の第三皇子である。
ベルディア皇国では建国時より、次期皇帝となるのは第一皇子だと決まっているため、皇位継承権はないに等しい。
しかし、彼は生まれた時から、この国においてとても重要な存在であった。
それは彼が皇族の一員であるから、という理由だけではない。
彼の髪は、限りなく黒に近い、ダークブルー。
それは彼に、人族においては珍しい、高い魔力を保有していることを証明していた。
かつて人族には魔力を持つ者が多くいた。
しかし数代前の皇帝が“よりベルディア皇国の敷地を広げるために”と戦争を引き起こし、魔力を持つ者はその戦争に駆り出されたことにより数をどんどん減らしていき、今では多少でも魔力を持つ方が珍しい程である。
皇族においても魔力を持つ者はほとんどおらず、次期皇帝でもある第一皇子や、その補佐として期待を寄せられている第二皇子にも魔力はない。
そのためアルベルトが魔力持ちであると判明した時は、皇宮中が大騒ぎになったものだ。
もともとベルディア皇国では、皇族はこの世の至高の存在であるとされている。
唯一絶対なのが国を納める皇帝であり、皇族なのだ。
だからこそアルベルトは重要な存在なのである。
この世の至高たる皇族であり、近年稀に見る多大な魔力の保有者なのだから。
一時期は、ベルディア皇国の古き慣習を取りやめ、第三皇子ではあるがアルベルトを皇帝にという声が一部からあがったほどだ。
結局はその話は潰れたものの、未だにアルベルトを次期皇帝に、という声は無くならない。
アルベルトにとって、誰が次期皇帝になろうと、どうでもよかった。
一番上の兄が皇帝になっても、二番目の兄が皇帝になっても、自分が皇帝になっても。
どうでもいい、というより、正確には興味がなかったのだ。
アルベルトは幼い頃から非常に優秀で、10歳になった頃には、もう国で教鞭を取るものは彼に教えることは何も無いと言い切るほどであった。
魔力の扱い方も独学にしては素晴らしく、魔力量が多いことにより周囲が感じる威圧感を見事に消せるくらいだ。
知らないことでも一度学べばすぐに身につくし、物心つく前から、出来ないことは何もなかった。
彼は非常に優秀だったのだ。
それこそ、第二皇子どころか、第一皇子ですら及ばないほどに。
だからこそ──彼は10歳にして、すっかり冷めきった性格をしていた。
何かに執着したこともなければ、誰かを愛したこともない。
婚約者候補は何人もいたが、誰と顔を合わせても、誰とお茶の時間を共にしても、誰かにこの女性は素晴らしいと言われても。
何も、思わなかった。
きっと自分には、人としての感情というものがすっかり抜け落ちているのだと、アルベルトは認識している。
その認識が間違いだったと気づくことになるのは、10歳になり、数ヶ月が経過した頃であった。
「ロゼリアよ。せいぜい死なないようにね、第三皇子殿」
ふっと口角を持ち上げ、まるで人を馬鹿にしたような物言い。
皇族であるアルベルトにそんな言葉を放つものは過去に一人もおらず、いつも敬われていたアルベルトを馬鹿にしたのも、彼女が初めてであった。
アルベルトがすっかり動きを止めてしまったのは、しかし、その言葉が原因ではない。
闇夜のように真っ黒な、しかし光沢のある艶やかな髪。
それと対になるような真っ白な肌に、血のような真っ赤な瞳。
弧を描く口元には紅がひかれているのだろう、ぷっくりと赤みを持っている。
ロゼリアと名乗った彼女は、人ではなかった。
赤い瞳というのは、人族には決して現れることのない色素なのだ。
その色を持つのは、この世で唯一、魔族のものだけ。
つまりロゼリアは──アルベルトの婚約者であると紹介された彼女は、れっきとした、魔族の者なのだ。
ベルディア皇国の至高の存在たる皇族の第三皇子アルベルトと、魔族の女。
本来であれば、どうまかり間違えても、婚約者という関係になるはずがない。
なぜならベルディア皇国と魔族は、数代前の皇帝の代より、土地を求めて戦争をしていたのだから。
その戦争がようやく集結したのは、ここ数ヶ月の間のことである。
多くの人族に犠牲者を出し、魔族にも犠牲が出て、結果的には和解という形で戦争は集結した。
和解のための条件としてどちらともなく提案されたのが、魔族と人族の婚姻だった。
その人族の代表に選ばれたのが、アルベルトだったのである。
「……人族はまともに口も聞けないのかしら?」
ロゼリアを一目見てから、アルベルトは一言も口を開かない。
訝しむように眉を寄せるロゼリアは、ふん、と鼻を鳴らしながら問うた。
この場にいるのは、ロゼリアとアルベルト、アルベルトの近衛兵、そして現皇帝の右腕ともいうべき宰相。
ロゼリアの物言いに近衛兵や宰相たちは顔を青ざめさせており、しかし、ロゼリアをたしなめるものは誰もいない。
なぜならロゼリアは既に皇帝と魔族の王──いわゆる魔王──が、正式にアルベルトの婚約者と認めているからだ。
第三皇子であるアルベルトの婚約者ということは、いずれは皇族の一員となる者。
皇族というのはこの世の至高であるため、現段階でロゼリアは近衛兵や宰相よりも尊い存在となっているのだ。
例えそれが長年戦争を繰り広げていた魔族の女だとしても、敬うべき相手であることには変わりがない。
アルベルトはおよそ数分の間すっかり固まってしまい、しびれを切らしたように、ロゼリアが大きく溜息を吐いた。
はあ、という大きな溜息が聞こえたのか、アルベルトはようやく我に返る。
正気に戻ったアルベルトはまじまじとロゼリアを見つめ──見惚れるような上品な所作で、その場に膝をついた。
そしてロゼリアの手を両手ですくい上げると、まさしく“うっとり”といった様子で、ロゼリアを見上げる。
その頬はほんのりと赤らんでおり、ロゼリアを見つめる瞳はどこか熱っぽい。
「ロゼリア様と仰るのですね……」
ようやく口を開いたかと思えば、そこから漏れでたのは甘ったるい声色。
まるで愛しいものに恋焦がれるようなアルベルトの姿に、近衛兵たちが目を見開いて顔を見合わせあったのは仕方がないだろう。
アルベルトが丁寧な言葉をつかったことが、うっとりとした表情を浮かべることが、初めてだったのだから。
「様、なんて要らないわよ。別に私を敬うことはないし、私もあなたを敬うことはしないから」
「で、では、その名を呼んでも……?」
「……構わないけれど」
「ロゼリア……ああ、ロゼリア!なんて麗しい響きだ」
にっこりを通り越してドロドロに蕩けてしまいそうな甘ったるい笑顔で、ロゼリアの名を褒めるアルベルト。
ロゼリアはしばらくアルベルトのことを見下ろしたかと思うと、ふ、と口元に笑みを浮かべた。
「人族が、魔族を“麗しい”……ねぇ。随分と面白いことを言うじゃない」
アルベルトに握られていない左の手を伸ばし、彼の顎に手を添える。
くい、と顔を強制的にあげさせると、ロゼリアは顔をアルベルトに近づけた。
それだけでアルベルトの顔は真っ赤に染まり、しかし、何かを期待しているかのようにロゼリアを見つめる。
「気に入ったわ。まあ、せいぜい長生きすることね」
あまりに魔力の強いもののそばに人族がい続ければ、必ず身体に影響が出る。
それが体調不良につながり、そのままあっさりと命を落とす……ということも珍しくはない。
ロゼリアが最初に「せいぜい死なないように」と声をかけたのは、ロゼリアの持つ魔力に侵されてしまわないようにというある種の忠告でもあったのだ。
アルベルトはこの国で最も魔力を保有するもの。
“魔力の差”がどれだけ周囲に影響を与えるかは、充分理解しているはずだ。
ロゼリアの言葉に、アルベルトは憤るでも不安に思うでもなく、嬉しそうに「心配してくれるのですか?なんて心優しい女性だ……」と頬をだらしなく緩めるだけであった。