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第2話「マルコの事情」~漂流 Ⅱ~

 セント・グレゴリオを脱出したマルコとディエゴだが、密航船は途中で嵐に遭遇し、難民たちは船倉に閉じ込められたまま漂流することになる。

 飢えと渇き、感染症で次々と命を落とす難民たち。

 そしてついにディエゴも力尽きる。

                 ×××××


 ムダイ邸。

 昼食後は片づけをして、自由時間となる。

 広大な庭のあちこちで子供たちが遊んでいる。

 弟子たちは、スポーツや武道に汗を流している者もあれば、鍼灸技術の研究会や読書会、絵画や書道、陶芸に打ち込む者、ただぼんやりとする者、みな思い思いのスタイルでこの時間を過ごしていた。

 

 コルティナは邸宅の黒光りする長い縁側に座って彼らの姿を無表情に眺めていた。

 陰となった縁側からは、庭に満ちる眩しい陽光はどこまでも明るい。

 子供たちは緑に輝く芝生の上で、はしゃいだ声を上げながら元気よく動き回っている。

 しかしコルティナは、それをどこか自分とは関係のない、ずっと遠くのことのように感じていた。

 マルコはいつになったら目を覚ますのだろう。

 今日も朝からずっと寝たままだ。

 息はしているけど、このまま起きなかったらどうしよう。

 やっぱり年下の男の子は頼りないんだわ、と思わずため息をつき、その後で不安感をマルコだけのせいにしている自分を諌めるコルティナだった。

 コルティナはふと足下の縁石に目を落とす。

 蟻が行列をなしてどこかへ向かっていく。

 どこへ行くんだろう。だけど彼らにはちゃんと帰る場所がわかっているんだわ。私にはそれすらわからない。

 故郷セント・グレゴリオ諸島は地球の裏側だ。

 すると、うつむいたコルティナの目の前に大きなゴムのサッカーボールが転がってきて、縁石で止まった。

 コルティナがボールを拾い上げて顔を上げると、はだしの女の子が走ってボールを取りに来た。

 昼食の時、フォークを持ってきてくれた子だ。

 コルティナは思わず笑顔になってボールをその子に差し出す。

 女の子も笑って両手でボールを受け取った。

 しかし、遊び仲間たちの催促にもかかわらず女の子はコルティナのもとを去ろうとしない。

 女の子はコルティナの手を取った。

 コルティナは少し首をかしげながら無言で自分を指さす。

 すると女の子は満面の笑みでうなづいた。

 コルティナはためらいなくサンダルを脱ぎ捨て、女の子と手をつないで待っている子供たちのもとへ駆けていった



                 ×××××



 ディエゴの死から更に数日が経った。

 マルコは時間の感覚だけでなく空間の感覚すら失い、自分というものが限りなく失われていくのを感じていた。

 船倉の腐臭は当初よりさらに激しく、鼻の奥を刺すような臭いに変わっていた。

 マルコは目を開けていることができない。

 静かに息をしないと鼻腔や喉が焼けるようだ。

 しかしマルコにとってそれが唯一の外的刺激であり、今やそれだけがマルコの自我を保っていた。


「あれから何日経った?」

 マルコは隣に横たわっているディエゴに尋ねる。

 答えは返ってこない。

 ディエゴの死骸の鼻からは蛆が這い出てきた。

 マルコは大声で誰にともなく再び尋ねた。

「あれから何日経った?」

 やはり答えは返ってこない。船倉にマルコの声だけがむなしく響いた。

 生きている者は自分だけになってしまったのか。けれど僕だって本当に生きているのか自分で自信がないな…。

 だが次の瞬間、マルコはナイフをくるりと回転させて自分がもたれている壁に投げた。

 ナイフは船倉の壁にネズミを見事に縫い止め、ネズミは悲鳴をあげた。

 マルコはネズミを捕らえ、ナイフでその喉を掻き切る。そして尻尾をもってポタポタと滴り落ちるネズミの血を口に受け、喉の渇きを癒した。

 マルコは確かに生きていた。



 更に数日が経った。

 マルコは船倉の空気と自分との境目を感じることができなくなってきた。

 しかし衰えてゆく体力とは逆に、マルコの感覚は研ぎ澄まされていった。

 今やこの船倉全体とマルコの存在は同じものとなった。


「元気かい?」

 突然何者かがマルコに話しかける。

 それはマルコの正面に座っていた。そして伸びた白髪に皺だらけの老人の姿をしていた。

 マルコは顔を上げると老人には答えず、床を這いまわっているフナムシを素早く捕えて口に入れた。

 数日前からネズミは姿を消した。マルコが食べ尽くしたのか、ネズミたちが難民の死骸を食べ尽くしてどこかへ去ってしまったのかはわからない。

 マルコ唾液の出ない渇いた口をいつまでも、もくもくと動かしている。

 白髪の老人は更にマルコに語りかけた。

「凄いもの食べてるね。それ、美味しい?」

 マルコは口にフナムシをいれたままモゴモゴと答えた。

「わからない」

「じゃあどうしてそんなもの食べるの?」

 マルコは答えられない。

 どうしてだろう。

 再び老人は問いかける。

「君はそんなにしてまで生きていたいの?」

 マルコは吞み込みきれないフナムシの残骸を吐き出しながら考えるがやはりわからない。

「僕は生きていたいのかな」

「おいおい、質問してるのは僕じゃないか。」

 マルコは再び反射的にフナムシを捕らえて口に運ぶ。

 老人はなおも続けた。

「君は自分の父さんと母さんを殺したね」

「そうしないとマリア(いもうと)はあの場で殺されてた」

「けれど君はマリア(いもうと)も救えなかった。」

 そうだ。マリアとはあの時以来逢っていない。マルコはマリアのことを極力考えないようにしていた。大人の兵士たちが自分にしたことを考えると、マリアがどんな目に遭わされているか、想像するのが怖かった。

「それから君はたくさんの見ず知らずの人を殺してきた」

「だってそれが命令だから!それが戦争だから!」

「だけどその人たちにも生活があって、毎日の喜びがあって、夢や希望があったかもしれない。君はそれを永遠に奪った」

「じゃあ僕はどうすれば良かったのさ!」

 老人はマルコの問いには答えず、さらに問いを重ねる。

「そして君はたくさんの戦友を見捨ててきたよね。置いていかないで、一緒に連れてって、そんな声を無視して」

「だってそうしないと僕が死んでしまうんだ‼」

 声に出してそう叫び、マルコはハッとした。

 どうして僕は死にたくなかったんだろうか。

 むしろ僕が死んでしまえば多くの人の命が助かったのかも知れないのに。

 マルコは顔を上げて初めて老人の顔を直視して言った。

「僕はどこかで死んでしまった方が良かったのかもしれないね」

 老人の顔の半分は腐り落ちて骨が見えていた。そして歯をむきだしながら凄まじい笑顔を浮かべた。その拍子に前歯が2本ポロリと落ちる。

「そう、君はたくさんの人を犠牲にして今ここに生きている。それが()()だ」

「僕は生きているの?」

「生きている。少なくとも僕が見えるうちは」

 眼窩から眼球をドロリと落としながら老人は消えた。澱んだ水溜りに浮かぶ白っちゃけた眼球がいつからそこにあったのか、マルコにはどうしても思い出せなかった。



 さらに数日が過ぎ、マルコの体力に限界が訪れようとしていた。

 例の眼球は相変わらずそこに浮かんでいる。

 マルコは力のない声で眼球に呼びかけた。

「おーい」

 突然眼球はマルコに視線を向け、宙に浮きあがった。そして老人の眼窩にするりと納まった。

 老人は頭を掻いた。

 大量の長い白髪が抜け落ち、頭皮からどろどろとした液体が流れ出した。

 老人はひとしきり頭を掻きむしると、マルコを見て言った。

「やあ、しぶといね」

「君が現れるということは僕はまだ生きてるんだね」

「そうさ、君は生きている。どうしてかな」

「僕が生きているのは、この世で犯した罪に対する罰じゃないかな」

「誰が君に罰を下すの?」

「神様、かな」

「君は日曜の朝、教会に行くのが面倒臭いくせに、なぜこういう時だけ神様を持ち出すのかな?」

 老人は(わら)いながら言った。

「神様は忙しいんだ。君なんかにくだらない罰を与えてる暇なんてないのさ」

 そう言って老人はまた頭を掻いた。

「タイムアウトだ、ひとついいことを教えてあげよう。君はまだ死なない。だから()()()は宿題だ」

 マルコは朦朧とした意識の中でぼんやりと老人の言葉を聞いていた。そしてなぜか昔のことを思い出していた。

 マルコが集めていた野球カードにまだ幼いマリアが落書きをした。

 それもよりによって一番お気に入りだったロドリゴ・マルカーノのカードに。マルカーノはメジャーリーグで盗塁王になったセント・グレゴリオの英雄だった。

 マルコはマリアをぶった。

 あんなことをしなければよかった。

 マルコはマリアに逢ってあの時のことを謝りたいと思った。


 

 アメリカ沿岸警備隊第7管区所属の巡視艇(カッター)ポール・クラークは、母港であるマイアミを出港してから1時間もたたないうちに()()を発見した。

 誰が見てもそれは不審船で、ポール・クラークからの無線に応答しない。どうやら自力で航行できず、漂流している様子だ。

 また密航船か。艇長は正直なところうんざりしていた。

 セント・グレゴリオでの共産ゲリラの敗退以来、こういうことは日常茶飯事だったがこの手の不審船は処理の手続きが煩雑なのだ。

 まず難民たちの扱いについて。

 ボートで接舷しようとしている隊員たちに日頃から口が酸っぱくなるほど言っているが、まず彼らに対して紳士的に接すること。

 しかし、難民の中には武装勢力の残党もいて荒くれ者も多い。そしてたまに武器を隠し持っていることもある。最初に船内を臨検する隊員たちは緊張せざるを得ないし、そうした状況から不測の事態が起きる可能性もある。

 世間は現在セント・グレゴリオで行われている、政府の左翼(アカ)狩りに同情的だ。難民にケガ人でも出した日にはマスコミになんと言われるか。

 それからこいつを曳航してマイアミに帰ってもその後で書類仕事が山のようにあるし、場合によってはあちこちの部署に出頭しなくてはならない。

 艇長が今夜の予定に頭を巡らせているその時、隣に立って双眼鏡を覗いていた副長が報告した。

「接舷します」


            第2話「マルコの事情」~死者たちの船~に続く

今回も読んでいただき、ありがとうございます。

しんどい展開ですが、もうちょっと粘れればと思います。

それから、先日ブックマークを付けて下さった方、感激です。ありがとうございます。

ひとりひとりの読者の方々の存在が、僕が書いていける原動力です。

どうかこれからもよろしくお願いいたします。

また、感想もお待ちしております。

公に出す以上、どんな酷評も修業の一部と考えておりますので、遠慮なく書き込んで下さい。

なお、次回掲載は2月3日(土)22時を予定しております。

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