第2話「マルコの事情」~漂流 Ⅰ~
中米セント・グレゴリオ諸島の内戦を反政府勢力として戦ったマルコ・フランスアとディエゴ・アルベルト・タカギは、政府軍の手を逃れて故国を脱出しアメリカを目指す。
しかし多くの難民を乗せた船は嵐に遭遇する。
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ムダイ邸では午前中の学習が終わると大広間で昼食を摂る。
今日の昼食のメニューはうどんだ。
オーケー、スープに麺ね。生玉子をライスにかけるよりは味が想像できる。しかし…、コルティナはまたしても悩む。
この2本の木の棒でどうやってスープに沈んでいるこの白い麺を食べればいいのか。
まずは自分流でやってみる。
予想通り、箸はすべすべしているし、麺はつるつるしているし、まるで掴むことができない。
隣の男の子は涼しい顔をして器用に麺を啜っている。
コルティナは思い切って両手に箸を一本ずつ持って麺を掴んでみた。
何とか一本挟んで口に入れる。
美味しい!特に出汁は島育ちのコルティナには馴染み深い魚の味で、コルティナは思わず笑顔になる。
と、コルティナは隣の男の子が横目で彼女を見てニヤニヤと笑っていることに気付く。
ーむーっ、生意気な子。でもそうね、やはりその土地にはその土地のやり方があるんだわ。
コルティナはそう思い直した。
負けず嫌いなのだ。
コルティナは隣の男の子をじっと観察し始めた。
逆に見られる立場になった男の子は、顔を赤くしてコルティナに少し背を向けて食べ始める。
コルティナはしばし箸を見つめて、男の子の持ち方を思い出し、再びうどんに挑戦するが、やはり難しい。
うどんはつるつると箸から滑り落ち、コルティナは次第に情けなくなってきた。
その時、コルティナの目の前に突然フォークがにゅっと突き出された。
驚いたコルティナが顔を上げると、幼い女の子が無言でフォークを差し出している。
コルティナは思わず頬を赤くして「アリガトウ」と礼を言う。
すると女の子は丁寧にお辞儀をしながら「どういたしまして」と答えた。
女の子のおしゃまなレディぶりに、コルティナは思わず笑い、女の子もつられて笑った。
××××××
嵐は去った。
海は静かで船も揺れてない。
しかし何かがおかしい、と意識を取り戻したマルコは感じる。
ぼんやりとした不安が次第に焦点を結ぶ。
エンジンだ!
あれほど騒がしかった船のエンジンの音と振動がまったく聞こえない。
アメリカに到着したのだろうか?
しかし、甲板の上で誰かが動いている気配がない。
その時、ディエゴがうめきながら目を覚ました。
「ディエゴ、変だよ。エンジンが止まってる」
ディエゴはしかめ面で頭を振りながら答える。
「到着したのかな」
「…甲板に誰もいないみたいなんだ」
二人は改めて船倉を見渡す。
浸水した床に半分水に浸かって死体が転がっている。
その脇にプカプカと浮いているのは眼球だろうか。
壁にもたれて座っている者は身じろぎもせず、生きているのか死んでいるのかわからない。
ディエゴは立ち上がり、梯子を上って鉄扉に向かって叫んだ。
「おい!死人がいるぞ!ここを開けてくれ!」
外から応える者はない。
「おい!誰かいないのか‼おいったら‼」
ディエゴは力を振り絞って鉄扉を拳で叩く。
「おい、開けろ‼開けてくれ‼」
ディエゴは鉄扉を叩き続ける。しかしその音はただむなしく船倉に響くのみだ。
続いてディエゴは鉄扉を押し開けようと梯子に両足を踏ん張り、力の限り鉄扉を外側へ押した。
しかし鉄扉はビクともしない。
ディエゴはしばらく頑張っていたが、やがて疲れ果て、荒い息を吐きながらマルコの隣に戻ってきた。
「こりゃいったいどういう事だ」
「逃げられたのさ」
向かい側の隅から声が聞こえた。生存者はマルコたちだけではないらしい。他にも身じろぎする音や咳払いが船倉のあちこちから聞こえた。
ディエゴは答える。
「この船に救命ボートはなかったぞ」
「じゃあ嵐で全員海に投げ出されたのかも」
「そんなバカな…」
男は言った。
「はっきりしてるのはこの扉が開かない限り俺たちは生きてアメリカの土を踏めねえってことだけだ」
その後数日、何人かの男がディエゴと同じ事を試みた。ディエゴを含めた何人かの男が協力して扉を押してもみた。しかし結果は同じだった。
脱出を試みた者はことごとく疲れ果て、生存者たちを次第にあきらめと絶望感が支配し始めた。
ディエゴは拳から血を流していた。そして独り言のように呟いた。
「どうしてこんなことになってしまったんだろうな。僕は世界を変えようと思っていたのに…」
その時、船倉の隅で女の悲鳴が聞こえた。男たちが数人がかりで女を押さえつけ、犯そうとしている。男たちの間に卑猥で粗野な言葉が飛び交う。しかしそれを止めようとする気力のあるものはない。
するとディエゴがふらりと立ち上がって声のする方へ向かった。
突然船倉の暗がりに、男たちの獣じみた、言葉にならない呻きが響く。男たちは静かになり、船倉には女のすすり泣きだけが聞こえる。
ディエゴは何事もなかったかのように戻ってきて、マルコの隣に座った。ディエゴは顔に大量の返り血を浴びていた。
首からかけたタオルで顔をふき、サバイバルナイフに付いた血を丁寧にぬぐいながら、ディエゴは再び呟く。
「…だけど変わってしまったのは僕なのかもしれない」
マルコは時間の感覚が失われていくのを実感していた。
エンジンが止まってから10日目まで、マルコは壁にナイフで傷をつけて日付を数えていたが、それがいつから途絶えたのか自分でもわからない。
その間、生存者たちは飢えと渇きと感染症に苛まれ、次々と命を落としていった。
死骸と汚物は増え続け、それらは赤道直下の環境であっという間に腐敗し、猛烈な悪臭を放っていた。
もはや口をきくものも殆どなく、潮騒と、大量に発生した蠅のうるさく飛び回る羽音だけが船倉に響いている。
ディエゴは三日ほど前から嘔吐と下痢を繰り返すようになり、急速に衰弱していった。
ディエゴは弱弱しくかすれた声でマルコにたずねた。
「マルコ、何日たった?」
マルコは壁にナイフで刻み付けた印を見て適当に答えた。
「十日。たぶん」
ディエゴにはすでに死相が現れている。マルコはディエゴの隣に座り続けながら、彼の肉体から次第に魂が消えつつあることを実感していた。
だが、マルコに特別な感慨はない。戦場で仲間を失うのは日常だった。そんな環境にも慣れた。人間はどんな環境にも慣れてしまうのかもしれないな、とマルコは思う。この肥溜めの中のような悪臭にも、そのうち慣れてしまうんだ。
「下痢が止まらないんだ。におう?」
ディエゴの問いかけにマルコは黙って笑いながら首を横に振るしかなかった。
するとディエゴは震える手でマルコに自分のパスポートを差し出した。
「これ持っててくれ」
それをマルコが受け取るとき、パスポートの間から何かがはらりと落ちた。
マルコはそれを拾い、じっと見る。
それは色褪せた古いモノクロ写真で、キモノを着た老婦人が椅子に座っていた。
ディエゴのおばあさんかな?しかしカメラを睨むような老婦人の強い視線は、時代を超えてマルコの心に刺さった。
「僕はもうダメだからそれは君が持ってて。もしかしたら日本の保護が受けられるかもしれない」
「ディエゴ、弱気になっちゃだめだよ」
マルコはこの期に及んでこんな言葉が出る自分に驚いた。もしかしておばあさんのあの目が僕にそう言わせたのかもしれない、とマルコは思う。
「この目で先祖の国を見てみたかったな…」
ディエゴは呟いた。
マルコはディエゴの骨と皮だけになった手を握る。その表面に無数のちりめん皺が寄った。それはあの日、優しく、力強くマルコを抱いた人とは別人の手だった。
ディエゴが光のない目で囁くように言った。
「僕の名はディエゴ・アルベルト・タカギ…。忘れないでくれ」
ディエゴは目を開けたまま動かなくなる。
マルコはディエゴの目を閉じてやり、胸の前で十字を切って祈りを捧げた
第2話「マルコの事情」~漂流Ⅱ~に続く
今回も大変でした。
で、また字数が少なくなってしまいました。申し訳ありません。
さらにこの回で終わる予定だった第2話がまだ終わらず。これまた申し訳ありません。
読んでくださった方、ありがとうございます。
次回掲載予定は1/27(土)夜10時です。
よろしくお願いいたします!