第2話「マルコの事情」~脱出~
中米セント・グレゴリオ諸島の内戦を反政府軍の少年兵として戦ったマルコ・フランスア。
しかし、アメリカ軍の介入によって反政府軍は敗れた。
混乱の中、マルコはディエゴ・アルベルト・タカギと名乗る若き赤軍兵士と出会い、彼と共にセント・グレゴリオからの脱出を目指す。
夜明けを待たず、ディエゴとマルコは動き始めた。まだ薄暗い。
何事もなかったかのような表情でディエゴは素早く準備を整えていた。マルコは昨夜の自分の乱れぶりがいまだに信じられず、羞じらいに顔をほてらせながらシャツのボタンを急いでとめた。
ディエゴはマルコの準備が整うのを待って、歩き始めた。
一時間ほど歩き続けて、二人は崖の上に出た。
「この崖を下りればアマネセルだ。ここに僕の同志だった男の両親が住んでる」
朝日が海にほんの少し顔を出そうとしている瞬間、空が深い紫色に染まる。マルコは自分たちの置かれた状況を忘れ、思わず口に出す。
「きれいだ…」
「そうだね、マルコ。海は時にいろんな色を見せる。だけど僕はこの瞬間が一番好きなんだ」
それから二人は崖を下り始めた。
崖には漁村アマネセルの住人だけが使う細い道が村へと続いている。道とは言っても人一人ようやく通れる足場が続くのみで、体を支える手すりや鎖の類は全くない。崖にへばりつくように二人は進む。
こういう場所を歩き慣れているマルコだが、反対側から人が上ってきたらどうするのだろうと余計なことを考えてしまう。
三十分ほどでふたりは崖を下りきった。
崖下に、村から少し離れた一軒家があり、その裏手に洗濯物が干してあった。
ディエゴは迷わず白い襟なしのシャツと色褪せた黒地に白い縞のズボン、赤いタオルを取り、マルコには白地にカツオ縞のシャツを放った。
二人は急いで軍服を脱いで着替える。マルコにはズボンがないので、ブカブカの大きなシャツの裾を結んで、素足はむき出しだ。
ディエゴは素早く砂地を掘って二人が脱いだ軍服を埋め、洗濯ロープに洗濯バサミで100ドル札を挟んで止めた。
「泥棒するのは気が引けるからね」
ディエゴはいたずらっぽく笑いながら、声を潜めて言った。
「100ドルも?」
「どうせ偽札さ」
「偽札?」
「赤軍が物資の調達用に作ったのさ。僕は美術大学で版画を勉強していて、それでこういう仕事をね。こいつは僕の自信作なんだ」
「ばれない?」
「ばれっこない。だってこの国の人たちで本物を見たことがある人が何人いると思う?」
そういえばマルコも本物の100ドル札なんて見たことがない。
声を潜めて話しながら歩いていくうち、二人は次第に漁港に近づいてきた。
「変だぞ」
異変に気付いたのはディエゴだった。
この時間、漁港は出漁する船のエンジン音や、漁のおこぼれにあずかろうと集まったカモメの鳴き声で騒がしいはずだ。
しかし漁船は全て岸壁に繋がれて、波に揺られて静かに上下しているだけだし、何より漁師の姿が殆ど見えない。
二人は不吉な予感を抱いて曲がり角を曲がった。
道路の真ん中に老夫婦が縛り首になって吊るされていた。
目はカモメにえぐり取られ、傷口には早くも蠅がたかり始めている。
そして老夫婦はそれぞれ、首から「ROJO」と書かれたカードをぶら下げていた。
村人たちはそれを遠巻きに眺めながら低い声で囁き合っている。
「息子が赤軍だったんだと」
「ウチのは大学なんてやらなくて良かったよ。なまじっか頭がいいとロクなことがねえや」
ディエゴとマルコは踵を返して来た道を戻り始めた。
間違いない、あれがディエゴの同志の両親なのだ。
突然、ディエゴは物陰から袖を強く引っぱられた。
ディエゴはとっさに身構えポケットに手を突っ込むが、拳銃はすでに処分したことに気付く。
「おっと、こんなとこで物騒なものを出さないでくれよ」
ディエゴの袖を引いた男は嗄れ声でボソボソと言った。
男は背が極端に低く、頭は禿げ上がり、ギョロリとした両目はこれまた極端に離れていた。胡散臭い、というよりは奇怪な容貌だ。
「にいさんたち、逃げるんだろ?」
二人は自分たちの正体を知られていることに動揺を隠せない。
構わず男は続ける。
「アメリカまで3日。一人400ドル。どうだい?」
ディエゴは唾を吞み込みながら尋ねる。
「いつ?」
「今夜0時きっかり。船はこいつだ」
男はすぐそばに繋がれている船に目をやる。そのボロボロの小型貨物船は、なぜか傾いていた。
ディエゴは逡巡する。
男は気味の悪い笑い声を上げた。
「そりゃビジネスクラスってわけにゃいかねえけどさ。あんたたちが最後の客だぜ」
男はディエゴとマルコをボロ船の船倉に案内した。
男は無言で手を出し、ディエゴはその手に800ドルを握らせる。男は水の入った2リットルのペットボトル2本と缶詰を幾つかディエゴに手渡した。
「機内食のサービスでございます。こいつは無料だよ」
男の気味悪い笑い声に送られて、二人は梯子を伝って船倉に下りた。
船倉は狭く、大人ひとりがかがんでようやく立てる高さだ。そしてそこにはすでに先客がギッシリと詰め込まれていた。
臭いが酷い。すえた臭いが船倉に充満している。まるで羊小屋のようだ、とマルコは思った。
二人は片隅にようやく場所を見つけて体をねじ込む。
それを見届けて、男は船倉のただ一つの出入り口の鉄扉を乱暴に閉じ、鍵をかけた。
船倉には全く灯りがなかった。
ディエゴとマルコは改めて真っ暗な船倉を見回す。
そこには各々ペットボトルを抱いた夥しい数の難民がひしめき、皆一様に押し黙って二人と目を合わさないよう、下を向いていた。
ディエゴは身に付けた軍用腕時計の発光する文字盤を見て溜息をつく。
「出港までまだ16時間もある…」
マルコは暗闇にすぐに目が慣れた。みんなうつむいて目をつむって静かにしており、潮騒の音だけが聞こえる。
ディエゴはマルコに話しかける。
「僕の祖父はjapone(日本)から来た移民でね。両親は苦労して僕を大学までやってくれたのにさ」
「僕の近所にもjaponeのお爺さんが住んでた。僕はその人が大好きでよく遊びに行ってた。カジローって名前だったけど、町の人はみんなサムライって呼んでたよ。」
「お年寄りか、じゃあ移民の一世かな」
「カジローは僕に日本語を教えてくれた。だから少しは読み書きができるし…それから箸も使えるんだ」
「そりゃ凄い。僕なんかサッパリさ」
こうして話をしているうちに、二人とも昨日からの疲れでいつの間にか眠ってしまった。
轟音と振動でふたりは目が覚めた。
船のエンジン音だ。
ふたりの場所は運の悪いことに機関室と板一枚隔てた船尾側だったようだ。
音と振動がひどく、会話すらまともにできない。
ディエゴは困った顔でマルコの耳元で大きな声を出した。
「こりゃひどいね」
マルコは無言でうなづく。
騒音に閉口してふたりともしばらく黙っていた。
やがて、船の揺れがひどくなってきた。船がようやく外洋に出たようだ。船に慣れていないマルコは次第に気分が悪くなってきた。船酔いだ。
まわりではすでに多くの人がゲエゲエと嘔吐し始めている。
その音と酸っぱい臭いにつられて、マルコも我慢できなくなって嘔吐した。隣を見るとディエゴも口をタオルで押さえている。
船酔いをしない連中もたまらず梯子を上って船倉の出入り口の鉄扉を叩きながら叫んだ。
「おい!こんなゲロ臭い所に居られるかよ!おいったら!」
一人の男がしつこく鉄扉を叩き続けるが、何の返事もない。エンジンは相変わらず船倉に騒音を響かせながらも快調に動いている。
やがて男は拳が痛くなったのか、あきらめて悪態をつきながら自分のいた場所に戻って座りこんだ。
丸一日経った頃から、次第に船倉の人々も船酔いに慣れてきた。
しかし、皆が翌日のアメリカ到着を心待ちにしていた二日目の夜、嵐がやってきた。
小さな貨物船は大波になす術もなく翻弄された。
大きな波に船体が高く持ち上げられ、一気に水面へと叩きつけられる。
ディエゴら数名は、船倉にあったロープを荷物を固定するフックにくくりつけ、そのロープを握って何とか体勢を保っている。マルコはディエゴに必死でしがみついていた。
もはやロープを握る握力もない人、もとからロープの恩恵にあずかれなかった人々は、壁や柱に強く体を叩きつけられ、生死も定かではなく、船の大きな揺れに合わせてボロ人形のように床を転がっていた。
ピタリと閉ざされたはずの鉄扉からは海水が容赦なく流れ込んでくる。
船体はミシミシと不気味な音をたてて軋み、いまにもバラバラになってしまうのではないかとマルコは怯えた。
マルコはゴウゴウというすさまじい風雨や高波の砕ける音に混じって、甲板の船員たちの悲鳴が微かに聞こえたような気がした。
第2話「マルコの事情」~漂流Ⅰ~につづく
今週も読んでいただき、ありがとうございました。
次回は1/20(土)午後10時の掲載を予定しております。
マルコの脱出行やいかに!
来週をお楽しみに。