第5話「売国奴の盾」~隻眼の魔女~
クリスマスイブの夜、ペドロは射殺され、暴動は鎮圧された。
友を失った悲しみを胸に、マルコはコルティナと結ばれる。
ゼイゼイと息も絶え絶えに、それでもなお男はビルの屋上を走っていた。
顔は恐怖に引きつり、絶望に歪んでいる。
男は豊かな黒髪を乱し、鼻の下に蓄えた立派なカイゼル髭から汗を滴らせ、屋上のフェンスに突き当たる。
「そこまでだな、大統領」
そう言いながら、全身を黒いマントで隠した若い男がゆっくりと歩いて塔屋の陰から現れた。
「違う!俺は大統領なんかじゃない!気が付いたらこんな姿形にされて…。違うんだ!俺はフランコじゃない!」
「貴様も影武者だというのか」
「そうだ!フランコに騙された!いい金になるって」
そこへ黒づくめの少女が現れた。
少女は、黄色いロンパースを着た赤ん坊を抱いている。
「いかがいたしましょう」
マントの男が、少女に指示を乞う。
「真贋は問わぬ。その顔、姿形、そしてフランコに汚い金で自分の人生を売るという愚行。そのすべてが万死に値する」
いきなり男は懐から拳銃を出し、少女に向け立て続けに発砲した。
しかし、男のグロック17拳銃から発射された十八発の9ミリ弾は一発も少女に届くことはなく、途中で力を失いコンクリートの床に音を立てて転がる。
銃弾の先端はことごとく潰れていた。
少女は微動だにしない。
「その整形、いい出来だ。褒美にいいものを見せてあげる」
そう言って少女は顔を覆ったレースの黒いヴェールを上げた。
均整の取れたまるで人形のような美しい顔立ち、深い彫り。長い睫毛に金色の瞳。
少女がその顔の右半分に垂らした前髪をかき上げると、下からは醜く焼け爛れた皮膚と右眼に掛けた黒い眼帯が現れた。
少女は眼帯を外した。
眼帯の下は眼窩がぽっかりと口を開けており、その真っ暗な空洞は底が見えない。
「大統領」と呼ばれた男は、もうその虚ろな空洞から目を離すことができない。
女が静かに言い放った。
「これが『死』よ。そして教えてあげる。あなたに死をもたらす私の名はマリア・ノーチェス・フランスア」
その言葉を合図に、マントの男が右手を前に突き出し、ゆっくりと掌を握り込んでいく。
男の右腕は肩から先が精巧にできた義手で、赤いメタリックの塗装が施されていた。
「大統領」は、言葉にならない悲鳴を上げる。
まず首の骨がミシミシと胴体にめり込み、膝の関節が逆方向に折りたたまれた。
そしてまるで巨人の手の内で丸め込まれたように、中空に浮いたまま人間の形を失う。
マントの男はなおも強く掌を握る。
ヒトの形を失った肉塊から、ボトボトと血があふれ出す。
「もうよい!マゼンタ」
マゼンタと呼ばれたマントの男は少女の声で我に返り、掌を開いて腕を下ろした。
血の滴る肉塊がグシャリと床に落ちる。
塔屋の上から女が軽やかに飛び降りてきた。
女は青のゴーグルで目を覆っていた。
「マゼンタったら、やりすぎ!」
ゴーグルの女はマゼンタに軽口を叩く。
「この気色悪い肉の塊から試料を取り出す身にもなってよね」
マゼンタは黙って自分の掌を見つめている。
「シアン、解析を」
「任せて、マリア」
ゴーグルの女、シアンはベルトに着けたポーチから、プレパラートと綿棒を数枚取り出し、綿棒で肉塊を拭った。
「でも…やっぱり違う感じがするのよね」
そういいつつ、シアンは綿棒をプレパラートにこすりつけ、それをゴーグルの前にかざしてじっと集中した。
十数分が経過した。
「やっぱり、こいつもニセモノね…」
シアンはため息交じりに呟く。
その時、マリアの胸に抱かれた赤ん坊が喋った。
「まったくキリがねえぜ!フランコのクソ野郎、一体何人の影武者を用意したんだ」
それはとても赤ん坊とは思えないダミ声だった。
「たどり着くまでよ、イエロー。本物にたどり着くまで続くわ」
「ヘッ、気の長いこった。それまでに俺は頭だけになっちまうぜ」
イエローはシッシッシと気味の悪い声で嗤う。
イエローには下半身がなかった。
そしてその姿形は赤ん坊だが、年齢は40をとうに越えている。
「でもフランコはこの東京にいる。絶対に」とシアン。
「調べましょう、イエロー、シアン、あなたたちの力が必要よ」
マリアはイエローをあやすように優しく揺すりながら言った。
マルコは廊下をボンヤリと歩いていた。
六本木特区のシェルターを巡回中だったが、考え事で仕事が手に付かない。
おかげで、巡回のコースを何度も間違えて時間を大幅にオーバーしていた。
あの日から、ずっとコルティナの態度がおかしい。
ムダイ邸ですれ違って挨拶しても目を合わせようとしない。
話しかけようとすると慌ててどこかへ行ってしまう。
―何か怒らせるようなこと、しちゃったかな…。
考えれば考えるほどわからない。
それからペドロが最期に言った「マリアは生きている」という言葉もマルコの頭を掻き乱していた。
マリアが、妹が生きているなら今すぐにでも逢いたい。
しかし、ペドロによれば彼女は故郷セント・グレゴリオ諸島で反政府ゲリラとして戦っているという。
―あの気が弱くて泣き虫だったマリアが、ゲリラの頭目?
その事もにわかには信じがたい。
ぐるぐると考えながらマルコは管理室に戻ってきた。
管理室のドアを開けると、いきなりゴロウが怒鳴る。
「おい!いつまでお散歩してるんだよ。俺の仮眠時間をどうしてくれるんだ!」
「ご、ごめんなさい!」
マルコは反射的に頭を下げる。
すると分解清掃中のワルサーPPKから顔を上げてクガがゴロウを揶揄する。
「お前、別に仮眠時間じゃなくても寝てるじゃねえか」
「横になって寝るのと座って寝るんじゃ、疲労の回復が違うんだよぉ」
ゴロウはバツが悪そうに反論した。
「それにしてもマルコ、お前が時間に遅れるとは珍しいな、何かあったのか?」とクガ。
マルコはしばらく黙っていたが、やがてもじもじしながら話し始めた。
「…最近、コルティナが冷たいっていうか…よそよそしい?っていうか…」
「何だ、喧嘩でもしたのか?」
クガはそう言って再びワルサーの分解掃除に戻る。
「クガのダンナ、違うんだよ。こいつ喧嘩どころか…な?」
ゴロウはニヤニヤしながら意味ありげな目つきでマルコを見た。
マルコは不意を打たれたように真っ赤になった。
「ゴロウさん、何で?」
「お前らなあ、他人ん家でああいうことしてバレないと思ってんの?」
「下らねえ」とクガ。
「お前ら、初めてか?」
ゴロウは身を乗り出して訊く。
「僕は…そう。コルティナも…多分」
マルコは真っ赤な顔のままうつむいて小さな声で答えた。
ゴロウはため息をついて言った。
「あのなあ、マルコ。女の子ってのはすごーく傷つきやすくて繊細でよ、ガラスのように壊れやすいの。だからさ、とにかく優しく優しく扱わないといけないわけ。それを君はなに?いきなりがっついて何回も何回も」
「ゴロウさん、見てたの?!」
「バカ!んな趣味はねーよ!ゴミ箱見りゃわかるに決まってるじゃねーか!」
マルコはアッという表情で固まってしまう。
「最初からいきなりそうガツガツされちゃあよ、コルティナだってドン引くに決まってるだろ?結構傷ついてんじゃねえの?」
「そ、そうなの?」
「とにかく謝るこった。土下座でもするんだな」
すると、クガが顔を上げずに口を挟んだ。
「マルコ、こんな極道者の言う事なんかあてにならねーぞ」
「だって一般論だろ?それに俺は元ヤクザ!」
「そんなのは男の勝手な思い込み。人間はひとりひとり違うんだ。戦場においては相手に合わせて臨機応変に戦うべし、だろ?元少年兵」
クガは組み上げたワルサーPPKを壁に向け、片目をつむって歪みをチェックしながらマルコに言った。
「そんなのは男の勝手な思い込みね」
ミドリがタバコの煙を輪っかにして吐き出して言った。
しかし顔を赤くして、恥ずかしそうにうつむいて椅子に座っているコルティナはその芸当を見ていない。
「あたしなんかさあ、ぜんっぜん痛くなかったのよ。そしたらあいつは遊んでるとか噂流されてさ。あの時はけっこう乙女心傷ついちゃったなー」
コルティナはミドリの言葉で余計に不安になったのか、目に涙を浮かべている。
それに気づいたミドリはコルティナの背中をさすりながら言った。
「だーいじょーぶよ。マルコはそういう子じゃないから」
「本当?ミドリさん。わたし、その…、いやらしい、はしたない女だと思われてない?」
「そんなわけない」
「どうしてわかるの?」
「そういうことはね、当人同士より傍で見てる人間の方がわかるものよ。コルティナとマルコはすごく相性がいいし、信じ合ってる。まるで生まれてからずっと一緒にいるみたいよ。うらやましいわ」
「そ、そうかな…」
照れたコルティナはまた恥ずかしそうに下を向いてしまう。
「相性が良すぎるとね、んー、例えばじゃんけんであいこが続くみたいな…、そういうことがあるのよ。今そういう感じじゃないかな」
ミドリはまたタバコの煙で輪を作って言った。
「いいわねー、青春って感じ」
高藤はティゲリバの事務所を訪れた。
ティゲリバはいつものように地下の映画館跡でくつろいでいた。
スクリーンの中では移民船から降りたグルーチョ・マルクスが民衆の前で例によってでたらめな演説をぶっていた。
ティゲリバは上機嫌だ。
高藤は隣の席に座る。
ティゲリバはスクリーンから目を離さず高藤に話しかける。
「高藤さん、あんた相当な策士だね」
「あら、今度の事は伊庭さんの顔のおかげよ」
「信越管区の越境攻撃をほのめかして空挺部隊を降下させ、総理大臣以下政権の主要人物の保護を建前に箱根を制圧。総理に圧力をかけて戒厳令を出させる。これじゃ殆どクーデターだ。ヒヤヒヤもんだぜ」
「圧力なんてそんな。わたしは仲良しの安生総理にちょっとアドバイスしただけ」
「俺にもな。それで自衛隊と警察を動かして暴動を鎮圧する。大したもんだよ」
「お褒めに預かり光栄ね。でも実際暴動が大きくなりそうだったのは確かだし」
「そうだ。そうなれば暴動鎮圧を名目にして信越管区が越境してくることは本当に有り得た。そうなれば北海道や九州も黙ってない。この国は戦後どころか中世に逆戻りだ」
「その代わり子供一人を犠牲にするはめになっちゃったけどね」
「ペドロ・マルティネスか。しかしありゃ子供のおイタにしては度を越してたぜ。俺の縄張りでもだいぶ犠牲が出た」
「そうね。だけどわたしはこの作戦でひとりも犠牲者を出したくなかったのよ」
その時、ブツっと音がしてスクリーンが真っ暗になった。
「あら、フィルムが切れちゃったわね」
「古いプリントだからな」
ティゲリバは映写窓を振り向くが、映写室には誰もいないようだ。
二人は真っ暗な劇場で話し続ける。
「まあいい。しかし生贄を出さないと警察が納得しなかったからな。仕方ないだろ?それはそうと…、今東京にセント・グレゴリオ諸島のフランコ大統領が居るってのは本当か?」
「正確には元大統領ね。本当よ。だってわたしが安生ちゃんに勧めたんだもの」
「セント・グレゴリオ諸島は共産ゲリラが反攻に出てほぼ全域を掌握。大統領は逃亡。あんたは逃げた独裁者を日本に亡命させる気か?」
「さあ、どうでしょう」高藤はニヤリと笑って言った。
「護衛に付いてた腕っこきのSPが全滅したそうじゃないか」
「さすが、耳が早いわね」
「今度は自衛隊の特殊部隊にも護衛の話が来てる。暗殺者はそんなに手強いのか」
「それは目下警察とうちの弦本が調査中」
ティゲリバはしばらく考え込んで唐突に言った。
「高藤さん、『隻眼の魔女』って聞いたことあるか?」
「ええ、噂には。セント・グレゴリオの共産ゲリラのリーダー。反政府軍勝利の陰の立役者。しかしその素性は一切不明…。調査でセント・グレゴリオに潜入したアメリカやロシアのエージェントは一人も帰ってこなかったとか」
「高藤さん、はっきり言っとくが俺がいる限り一人の自衛隊員も犬死にさせる気はない。大義のない、わけのわからない任務はお断りだ」
「やっぱりその様子じゃそっちでもかなり情報を掴んでいるようね」
高藤は巨体をぬッと乗り出してティゲリバに言った。
「今日はそれを話し合うためここに来たのよ」
次回第5話「売国奴の盾」②につづく
今週も読んでいただき、ありがとうございました。
今週から始まった第5話「売国奴の盾」いかがでしたでしょうか。
ここからようやく最後の周回に入りますが、まだ先は長いです…。
とにかく最終話、面白くしますのでお楽しみに!
なお、次回は10月6日(土)夜10時に更新予定です。




