第4話「ペドロの戦争」~軽蔑~
中米の小国、セント・グレゴリオ諸島で共産ゲリラの少年兵として戦ったマルコ・フランソワは、数奇な運命を経て日本にやってきた。荒廃した日本で屈辱的な生活を送っていたマルコはある夜、「トッケイ」と名乗る私兵集団に誘われる。そして出逢った同郷の少女コルティナ。
マルコはトッケイで働く傍ら、トッケイの一員で東京八王子の山中に大邸宅を構えるムダイと名乗る老人が運営するコミューンで、コルティナと共に集団生活を送ることになった。
その後マルコはトッケイのメンバー、ゴロウの紹介で「最後の横綱」竜田川と知り合う。
この時代、相撲界はヤクザが支配する腐敗した存在になり果て、なかば公然と賭博の対象とされていた。
八百長が横行する中、頑なにそれを拒み続けて80連勝の偉業を達成した竜田川だったが、タニマチのヤクザに八百長を命じられ、東京脱出を計画する。
竜田川から東京脱出計画の支援を要請されたトッケイ。
作戦に参加したマルコは故郷セント・グレゴリオ諸島で少年兵として一緒に戦った戦友ペドロと再会する。
ペドロが率いる暴力組織の激しい追撃をかわしたマルコたちトッケイは、横綱竜田川とその恋人神代、大関白露山を無事東京から逃がすことに成功する。
明治神宮での騒ぎで、陳大人は大いに男を下げた。
結果的には大儲けすることになったが、大言を吐きながら竜田川に八百長を呑ませられなかった陳は面子を失った。
賭けた大金を失い、最初は騙されたものと会場で激怒していた親分衆も、事の次第がわかるにつれて納まり、特に中国人の台頭を良く思っていなかった国粋主義系の親分衆は陳を嘲笑いながら会場を後にしたという。
一方で株を大いに上げたのが、ティゲリバだった。
高藤から情報を得ていたとはいえ、親分衆の中でただ一人竜田川に賭け、大きな儲けを手に入れた。
奉納相撲の後に行われた花会では、ティゲリバの一挙手一投足に注目が集まったが、そこでのティゲリバの立ち居振る舞いは見事で、明るく陽気に飲み続け、花札賭博でも豪快に負け続け、その人柄に惚れ込んで兄弟盃を求める親分まで現れるほどだった。
陳はこの会の世話人であったにも関わらず体調の悪化を理由に花会に現れなかった。
ところで、この奉納相撲で大儲けをしたのはこの二人だけではない。
場外でもヤクザたちは奉納相撲の結果をネタにして非公式な賭博をしていた。
竜田川が確実に負けるという噂は堅気の人々にもかなり広まっていたが、それを信じない数少ない人々は人生が変わるほどの大儲けをした。
その中の一人、錦糸町の地下相撲場の支配人は、その金を元手に財を成し、両国国技館を買い取って大相撲復興に尽力することになるのだが、それはもう少し先の事になる。
夜勤明けの朝、マルコはふと気になって新宿の「バリエナ」に寄ってみた。
店は相変わらず混んでいたが、一番奥のカウンターにメヒアの姿を見つけ、マルコは席を探して座った。
「やあ、久しぶり」
熊男―メヒアは人懐っこい笑顔でマルコを迎えた。最初に来た時とは大違いだ。
「モンドンゴ…、いや、煮込み下さい」
「ライスはいいのかい?」
「今日はいい」
「あいよ!煮込み一丁!」
メヒアはすぐに湯気を立てた丼をマルコの前に置いた。
「いただきます」
マルコは合掌してそう言い、先割れスプーンを丼に入れた。
「あの…、ペドロあれから来ましたか?」
メヒアはうつむいて少し考えてから答えた。
「来たよ」
「何か言ってましたか?」
「いや。弟分の骨を持ってきた」
「骨?」
「埋葬してくれって。俺は日曜に横浜の教会へ通ってるんだけど、そこで親切にしてくれる神父さんがいて。その人に頼んだよ」
「でも、どうして…。」
メヒアはマルコの耳元で、声を潜めて言った。
「よくわからないけど、アフリカ系組織とのいざこざで殺されたらしい」
まだやらなきゃならないことがある、ペドロの最後の言葉がマルコの心に忌まわしい意味を持って甦る。
メヒアは低い声で続けた。
「新宿じゃ、俺たち中南米系とアフリカ系は割と仲良くやってる。このあたりは商売人が多いしお互い持ちつ持たれつなんだ。だけど最近何となく空気がね、ヘンなんだ」
「ヘン?」
「何か嫌なことが起きそうな気がする。中南米系の浮浪児たちが隅田川の向こうに流れて行ってるって噂もある。」
ペドロのやつ、まさか本当に戦争を始める気なんだろうか…。マルコの心には一滴の墨を落としたように不安が広がっていく。
「ま、俺はこう見えて臆病で心配性なんだな。今の話は忘れてくれ」
メヒアはぎこちなく笑って仕事に戻った。
あの日以来、サギリは兄のンドゥギに外出を禁じられている。
ミゲルがあれからどうなったのか、誰も教えてくれない。
サギリは居ても立ってもいられなかった。
あの日、ミゲルの事を問い詰められたサギリは激怒する兄の怖さからパニックに陥り、つい兄に尋ねられるままあることないことを喋ってしまった。
ミゲルはあたしに指一本ふれてない。発電所を偵察していたことは確かだけど…。
サギリはどうしてもティゲリバに会わなくてはならなかった。
きっと恐ろしいことが起きる。
でもディゲリバに本当のことを話せばなんとかなるかもしれない。
その日、ンドゥギは朝から発電所に出かけていた。
サギリはベランダのテラスに出る。
ここはマンションの9階だ。
サギリは思い切ってテラスの手すりを乗り越えて、右足で次の足場を探った。
ペドロは「クミチョー」宅に呼び出された。
明治神宮での騒動以来、ペドロは表立って動くことはなかった。
昼過ぎに縄張り内の見回りに出て、夜になるとどこへもいかず根城に帰る、珍しくそんな規則正しい生活を送っていた。
クミチョーの家は本所にある。
日本風の池のある小さな庭を持つクミチョーは日本に憧れ、日本人になりたいと真剣に考えていた。
クミチョーの慎ましい日本家屋を見るたびに、ペドロは彼に哀れさを感じた。
ペドロがクミチョーの部屋に入ると、クミチョーは畳の上に置いたソファーに、不機嫌な顔で埋もれていた。
ペドロはクミチョーの左手に包帯が巻かれていることに気付いた。
「クミチョー、手ェどしたの?」
「指ィ詰めた」
「え?なんで?!」ペドロは驚いた。
クミチョーは突然怒鳴った。
「バカヤロー!みんなお前のせいだぞ!!」
ペドロは意表を突かれた。
「俺?」
「お前が竜田川を殺り損ねたからこういうことになったんじゃないか!」
「それでなんでクミチョーが責任取るのさ」
「お前なんかが指詰めても陳大人が納得するわけねえだろ?」
「いやいや、なんで俺やクミチョーが指詰めんの?そもそも竜田川に八百長を呑ませられなかった陳が悪いんじゃない。」
「別に陳大人に言われて詰めたわけじゃないぞ。これはオレのケジメだ。それが任侠の世界の掟ってやつだ」
ペドロはクミチョーの「日本趣味」に滑稽さを通り越し、憐れみを抱いた。
「クミチョー…、無理すんなよ」
「うるせー!お前なんかに俺の気持ちがわかってたまるか!!」
ペドロはため息をつきながらクミチョーに向かい合ったソファーに腰をおろした。
「それで?陳は納得したの?」
すると突然クミチョーは涙をポロポロこぼして号泣し始めた。
ペドロはまたも意表をつかれた。
「どうしたんだよ、指が痛いのか?」
「違う!」
「どうしたのさ」
クミチョーは嗚咽しながら絞り出すように言った。
「オ、オヤジの奴よ、俺の指を見てよ。こ、こんな…こんな、う、薄汚ねぇドブ、ドブネズミのゆ、指なんざいらねえって。指をご、ゴミ箱に投げ込みやがった!」
「な、だから言ったろ?奴らにとってしょせん俺らはドブネズミ。ドブネズミはこの国じゃどこまでもドブネズミなんだ。陳なんかに尽くすこたぁないんだよ」
「いいや。そんなはずはねえ!きっとオヤジにはもっと深い考えがあるに違いねえ。俺も、いや俺だけじゃねえ、お前も、ここが辛抱のしどころだぞ」
ペドロは呆れてしまった。
—このオッサンはドMかもしれない。それに任侠道や仁義なんてのはヤクザのタテマエで、せいぜい映画の中のお約束。けれどそれをクミチョーはまるで宗教のように信じている。だからいくら言って聞かせてもムダなんだ。
ペドロは話の向きを変えた。
「で?それを聞かせるために俺を呼んだの?」
クミチョーはハンカチで涙を拭きながら、ついでに鼻もかんで言った。
「そうだ、思い出した。陳大人が言ってたぞ。しばらく揉め事起こすなってな。おめえ、ミゲルの事でコソコソ何かやってるそうじゃねえか」
「知らねえよ」
ペドロはしらを切ったが、内心驚いていた。
—そうなんだ、クミチョーは意外と侮れない。このオッサンは小心者のくせに細かいところによく気が付く。
「ウソついても俺の目はごまかせねえぞ」
「ウソじゃねえよ!俺最近体調も悪いし、だから昼からしか見回りに行けねえけどよ。夜だってどこにも寄り道せずに真っ直ぐ事務所に帰ってすぐに寝てるぜ」
「ホントだな?」
「ホントだよ。俺があんたにウソついたことがあるか?」
「こないだの錦糸町の相撲場。ありゃなんなんだよ」
「あ、ありゃ、ちょっとした手違い!下の奴らが勘違いしただけなんだ。もう謝ったろ?」
「…そうだったな。疑って悪かった」
クミチョーはバツが悪そうにうつむいた。
「じゃあもういいかい?俺は見回りに行くぜ?」
ペドロが腰を上げかけると、だしぬけにクミチョーがうつむいたまま絶叫した。
「ペドロォォッ!」
顔を上げたクミチョーは再び涙をボロボロこぼして、鼻水まで流している。
「な、なんだよ!」
「俺はよ、はるばるエルサルバドルから来てよ、おめえだけが頼りなんだ。なあ、おめえだけは付いてきてくれるよな?」
クミチョーはペドロにすがりつかんばかりににじり寄って哀願する。
ペドロは及び腰になって言った。
「だ、大丈夫だよ、クミチョー。あんたには他の誰にも手は出させねえ。だから安心してくれ」
クミチョーの家を出たペドロは辟易していた。
バイクにまたがったままペドロはしばし考えた。
俺にはもう時間がない。これ以上このくそったれな国で茶番を演じるのはごめんだ。
俺は俺のやるべき事だけをやる。
そのためにはまず最初に邪魔者を片付けなくちゃならねえ。
クミチョーは小物だが不確定要素だ。消そう。
それから、少しずつ情報が洩れている。
「イヌがいるな」
そう呟いてペドロはキックペダルを蹴り、バイクのエンジンをかけた。
その夜、ペドロは弟分のイグナシオと二人だけで荒川にやってきた。
イグナシオは18才でペドロより年上のメキシコ人で、背が高く、彫りの深い顔立ちをした優男だった。
メキシコでは漁師をしていたが、麻薬組織に目を付けられて日本に逃げてきたという。
ペドロが高崎から帰ってきてから数日、このふたりは毎晩のように連れ立ってこの場所に来ている。
弟分たちの間ではふたりは出来ているという噂が流れ始めていたが、イグナシオの女好きは度を超えていて、噂は今一つ信憑性を持たなかった。
イグナシオが先に立ち、ふたりは細い階段を川面に下りていく。
その先には、伸び放題の葦原があり、葦の陰にはボロボロのすだれが何枚もかけられた小さなボートがあった。
ふたりはすだれを手早く片づける。
すだれの下からは最新のハイドロジェット式小型ボートが現れた。
ボートはつや消しの黒で塗装されており、その上にはなぜか長い櫂が乗せられていた。
ボートに乗ったイグナシオは櫂を取ると慣れた様子でグイと力強くボートを川に漕ぎ出した。
岸に残って周囲に目を光らせていたペドロも遅れてボートに飛び乗った。
二人が乗ったボートはゆっくりと深夜の荒川の黒々とした流れを下っていく。
川の両岸に灯りは乏しく、道路を走る自動車のヘッドライトが煌めくだけだ。
しばらく下ると右手に巨大な水門、荒川ブロックゲートが見えてくる。
ペドロは暗い川辺に立ちはだかる巨人のような水門をじっと眺めていた。
やがて、船は東京湾に出た。
元漁師のイグナシオはさすがで、ここまで息ひとつ切らせていない。
しばらく東京湾を漕ぎ進み、ボートが陸から十分離れるとイグナシオは船尾から操縦席に移る。
ペドロはイグナシオから櫂を手渡され、入れ替わりに船尾に座った。
イグナシオはボートのエンジンをかけた。
ペドロは櫂を立てて、肩に担いでいる。
ハイドロジェットエンジンが、ごぼごぼと一瞬水音をたて、勢いよく水流を吐き出しながら、ボートは滑るように真っ暗な海面を進む。
対岸は浦安だ。
「ペドロの戦争」②に続く
今週も読んでいただき、ありがとうございました。
やっと新章の始まりです。
ふたたび心機一転、更に面白いものにしていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
次回は6月9日(土)夜10時に更新予定です。
ご期待ください!




