第3話「神代も聞かず竜田川」~マルコ褌(ふんどし)を担ぐ~
ティゲリバの配下、ンドゥギに弟分のミゲルを無惨に殺害されたペドロは怒りに燃える。
その頃、トッケイの総力を挙げての横綱竜田川の東京脱出計画が進んでいた。
そして運命の奉納相撲の日がやってきた。
その朝、東京は久々にからりと晴れて青空が広がっていた。
明治神宮では恒例の奉納相撲が開催されていた。
神前舞台に特設された土俵の南側には全国から集まった暴力組織の親分衆が紋付き袴でかしこまって座っていた。
一堂の目は公式の場に初めて姿を現すティゲリバに向けられていた。
日焼けした彫りの深い精悍な顔立ち、太い眉、ギラギラと輝く大きな目。
あれがティゲリバか、日本人じゃねえか、結構いい男だな、などのひそひそ話もどこ吹く風、ティゲリバは堂々とした態度で周囲を睥睨していた。
すでに親分衆の挨拶、化粧廻しを付けた竜田川の土俵入りも終わり、後は取組を待つばかりとなっている。
東の花道の奥、神楽殿前に幕が張られただけの簡素な支度部屋で、竜田川は椅子に座り神代に髷を整えてもらっていた。
幕の外から付き人のヤクザが声を掛ける。
「横綱、そろそろお時間です」
「おう!」
竜田川はそう答えて、不意に神代を抱き上げ、頬を寄せ、その耳元で囁いた。
「必ず帰ってくる。俺が迎えに来るまでここで待っていてくれ」
「はい」
竜田川は神代をゆっくりと下ろし、ふたりは見つめ合った。ふたりの瞳に一点の曇りもなかった。
竜田川が支度部屋を出ると神代は鏡の前に座り、じっと鏡を睨みつけ、目を閉じる。
東西の花道から、竜田川、白露山両力士が姿を現す。
親分衆は盛大に拍手した。
親方衆の興味はただ一点に絞られていた。本当に竜田川は負けるのか。
それはあの陳が竜田川に八百長を呑ませるほど大きな権勢を持っていることを意味する。
白露山は内心穏やかではなかった。
タニマチの親分から今日の取組が八百長と聞かされた日、白露山は荒れに荒れた。
横綱が、自分が今日まで目標として精進を重ねてきた竜田川がわざと負ける。
ロシアから流れてきて、ここで初めて生涯を賭けて挑むものに出会えたというのに。
招待された親分衆が全員自分に賭けていると知っても、白露山は今日の取組が八百長であることを未だ信じられないでいた。
土俵に上がる。
東側から土俵に上がった竜田川は白露山に目を合わせない。
いつもなら必ず相手を一度睨みつけてから土俵に上がるのに。
しかし白露山は、竜田川がいつもより時間をかけて土俵に礼をしていたことに気付かなかった。
マルコはオリーブドラブの帽子を被り、顔にグリーンの迷彩を施し、参道から拝殿への曲がり角の深い森の中、その一本の高い樹上に前夜から潜んでいた。
マルコは身動きしないようにこっそりと下を眺める。
参道には10メートルおきに緊張した面持ちのヤクザたちが並んでいたが、招待の親分衆が会場に入ってしまうとその緊張は緩んだ。
これなら楽勝かも、マルコは微笑んだ。
マルコからは見えない場所にクガも潜んでいるはずだ。
竜田川と白露山、どちらが勝つのだろうか。
マルコはふと勝負の行方が気になったが、ここから土俵は見えない。
竜田川は時間いっぱいを使って念入りに土俵を塩で清めた。
これもいつもの竜田川とは違う。
白露山は再び得体のしれない違和感を感じる。
やはり八百長なのか。
ならば、一撃で仕留めてやる。
得意の鉄砲で一撃、顎を砕いてやる。
信ずるものに裏切られた白露山は怒りに腸が沸々と煮えたぎってくる思いだった。
「時間いっぱいです!」
そう告げる行司は、元関取だったヤクザの親分だ。
竜田川と白露山は共に仕切線に片手を付く。
二人は見事に呼吸を合わせて立った。
白露山は思い切り踏み込みながらアッパーカットのような角度で竜田川のアゴを突く。
しかし、竜田川はその攻撃をまるで読んでいたかのように、突きを右に回り込みながらかわす。
白露山はすかさず左の張り手を繰り出す。これはややカウンター気味に竜田川を捉えた。竜田川の顔が歪み、髷が大きく揺れる。
いつもならばここで鉄砲と張り手の連打につなげるのが白露山の取り口だが、張り手が命中した瞬間、竜田川の脇が開いたのを白露山は見逃さなかった。
そのまま中に入って、両手でしっかりと竜田川の左右の廻しを掴み、双差しの体勢になった。
白露山が竜田川の胸に頭を着ける。
盤石の体勢。
これまで竜田川は白露山にこの体勢を一度も許したことがなかった。
やはり今日は八百長…、白露山が一瞬そう考えた時、頭の上から竜田川の囁きが聞こえた。
「白露、俺が八百長をやると思ってたのか?」
次の瞬間、白露山の両肘に激痛が走った。
竜田川は下手に入った白露山の両肘を極めていた。
閂。
相撲の数少ない関節技といえる。
竜田川は自らの両腕を内側に絞り込みながら、白露山の両肘を関節とは逆方向に締め上げ続ける。
たちまち白露山の肘がミシミシと音をたて始めた。
激痛に顔を歪ませて耐える白露山の耳元で再び竜田川が囁く。
「油断したな。相撲にギブアップはないぞ」
と、白露山は竜田川の胸から頭を離し、両肘を極められたまま大きく後ろに反ると反動をつけて竜田川の胸、正確には心臓を狙って頭を叩きつけた。
竜田川の意識が一瞬飛び、白露山の右肘を極めていた左腕が緩む。
白露山は自由になった右手で再び竜田川の頬を張るが、痺れた右手にはもう力がなかった。
竜田川は白露山の左肘を極めたまま、右から小手投げを打つが、白露山はなおも無理に踏ん張ろうとする。
「折れるぞー!」
竜田川が警告を発したその時、白露山の左腕は限界を超え、客席にも聞こえるほど大きな音を立てて壊れた。
左肘があらぬ方向に向いたまま、白露山は背中から土俵に落ちた。
一瞬、客席は静まり返る。
「た、竜田川!」
狼狽した行司の勝ち名乗りを聞き届けるなり竜田川は土俵を飛び降り、東の花道を全速力で走った。
客席にどよめきがおきる。
陳は立ち上がって警備のヤクザたちに叫んだ。
「逃がすな!門を閉めろ!!」
慌ててヤクザたちが神前舞台の門を閉めにかかる。
うしろから竜田川に飛び掛かる者もいる。
竜田川は4、5人のヤクザを引きずってなおも前進をやめない。
その時、後ろからヤクザたちを強い力で引き剥がし、ポンポンと放り投げる者があった。
白露山だ。
白露山が左腕をだらりと下げ右手一本で、竜田川に後ろから群がるヤクザたちの前に立ちはだかっていた。
白露山は大声で叫んだ。
「横綱、行って下さい!」
正参道の入り口、原宿側の南門には、ヤクザたちが十数名警備のために配置されていた。
しかしここでも、親分衆が全員入場してしまうと、皆安心してタバコを吸ったり、他愛のない雑談を交わしていた。
陳の部下に電話が入る。
「えッ?!何ですって?よく聞こえなかったのでもう一度お願いします」
携帯電話から陳の怒鳴り声が漏れ聞こえ、弛緩した空気に緊張が走る。
「わかりました!すぐに向かいます」
陳の部下が他のヤクザに伝える。
「よくわかんねえけど、なんかあったらしい。全員拝殿の方に急いで来いってさ」
やれやれ、といった表情でヤクザたちが南門の大鳥居をくぐり、正参道を北へ行きかけた時、表参道から爆音が聞こえた。
何事かと振り返ってみると、原宿通りを一台の黒い車が疾走していた。
車が近づくにつれ、その巨大さにヤクザたちは目を見はる。
その車、ハマーH2はあっという間に石橋を超え、タイヤを軋ませながら右折して南門に飛び込んできた。
ヤクザたちはその巨大さに圧倒され、飛びのくのが精いっぱいだ。
一人のヤクザが尻もちをついたまま叫んだ。
「せ、戦車か?!」
3トンはあろうかという車体を震わせて暴走する黒いハマーの前に素手で飛び出す勇気のあるヤクザはいない。
ハマーは参道を小砂利を巻き上げながら走り去っていく。
ヤクザたちはようやく我に返り、その後を追って走り始めた。
始まった。
拝殿のあたりが騒がしくなったのを感じたマルコは、樹上からロープを投げ下ろし、するすると地上に降りた。
ヤクザたちは全員拝殿に向かっている。マルコは素早くいったん参道を渡り、道路わきの繁みに身を隠しながら拝殿に走った。
マルコの位置からはクガがどこにいるのか、まだ見えない。
拝殿ではヤクザたちが竜田川を逃がすまいと、外側から門を閉めようとしていた。
しかし門は竜田川の両手の一突きであっという間に開いた。
門を押さえていたヤクザたちは一斉に吹っ飛んだ。
竜田川はそのままの勢いで「支度部屋」に飛び込む。
神代が幕の中に立ち尽くしている。
「あんだ!」
竜田川は神代にニコリと笑いかけるとすぐさま彼女を右腕に抱え、再び走り出した。
白露山は門のあたりで群がるヤクザたちを右手一本でいなしていた。
軍隊時代に習い覚えたコマンドサンボに相撲の突き、張り手。
ヤクザたちは片腕の白露山に手首を軽く極められただけで悲鳴を上げて戦意を喪失した。
「ウオォーッ!!」
天を仰いだ白露山が獣のような叫びを上げて威嚇すると、気圧されたヤクザたちは思わず後ずさりする。その隙に白露山も踵を返して門に向かい、竜田川の後を追った。
参道を疾走するハマーは太鼓橋のところで少し車体を浮かせ、荒っぽく着地すると再びV8気筒の野太い咆哮を響かせ、緩い上り坂の参道を猛然と駆け上がっていく。
参道に並んだヤクザはみな丸腰で、巨大な黒い怪物を呆然と見送るしかなかった。
マルコが少し走ると、神代を抱えた竜田川が走ってくるのが見えた。マルコは繁みを飛び出して竜田川と並走する。
「ヨコズナ!」
「マルコ君、前はいい。後ろを頼む」
マルコが後ろを振り向くと白露山が無数のヤクザを連れてこっちへ走ってくる。
マルコは白露山の方に向かう。
白露山は顔を真っ赤にして汗だくでマルコに言った。
「き、キミは、み、味方か?」
「はい!」
「じゃあ、廻しを頼む!このままだと…ヤバイ!」
言われて気付いたが、白露山は緩んでほどけた廻しを尻尾のように引き摺って走っている。
マルコは慌てて廻しの端を肩に担ぎ、白露山の後を追う。
しかし、ヤクザたちは次から次へと飛び掛かってくる。マルコは廻しを担いだまま身軽にそれをかわしていく。
白露山は右手一本でヤクザたちをなぎはらうが、その度に廻しはズルズルとほどける。そしてついに…白露山は全裸になってしまった。
「キミ、廻しはもういい。逃げるぞ!」
マルコは担いでいた廻しをその場に投げ捨て、全力で走る。
竜田川と神代が、拝殿から参道へ向かう曲がり角にたどり着いた時、脇の繁みからクガが飛び出してきた。
「横綱、無事か?」
竜田川は息を切らせて答える。
「ああ、大丈夫だ。あんたは?」
「トッケイのクガだ」
と、後ろからドタドタと駆けてくる足音が聞こえる。
クガと竜田川が見ると、巨大なイチモツをブルンブルンと振り回しながらあられもない姿で走ってくる白露山と、その後ろを追走するマルコが見えた。
「おいおい…」
クガが思わず笑ってしまう。
「あいつ、廻しの下にあんなすごい鉄砲、いや大砲を」
竜田川も苦笑した。
「マルコ、もういいぞ!」
クガの声にマルコはポケットから手榴弾を取り出し、追ってくるヤクザたちに投げた。
怯んでたたらを踏むヤクザたちの前で手榴弾はポンという情けない音で弾けると、もくもくと白い煙を吐き始める。
煙幕だ。
あたりが見えなくなり、ヤクザたちはしばらく右往左往していたが、やがてこちらを見つけて殺到し始めた。
クガが素早く前に出て脇に抱えていたH&K/MP5KA短機関銃を空に向けて連射する。
丸腰のヤクザたちは怯えて再び後ずさった。
「クソ!遅いなゴロウの奴!」
ようやく白露山が息も絶え絶えで竜田川たちに追いつく。
「横綱、俺も、俺も連れてってくれ!」
「白露、お前…」
その時、轟音と共に黒いハマーが猛然と突っ込んで、急停車した。
「お待たせ~!」
ハマーの運転席の窓が開き、顔を出したのはミドリだった。
次回第3話「神代も聞かず竜田川」~ミドリ爆走する~に続く
今週も読んでくださってありがとうございます。
ようやくクライマックスのアクションにたどり着きました。
ここからは勢いです(笑)。
おかげさまで、ここにきてPV数、ブックマーク数共に漸増に転じております。
これを励みに、これからも皆さまの余暇の良きお供として、この小説がもっと面白くなるように頑張ります!
また、感想、採点など気軽に入れていただければなお幸いです。それは小説を書いていく上で一つの指針ともなりますので、こちらの方もできればお願いいたします。
なお、次回は5月5日(土)午後10時に更新予定です。
さあ、横綱竜田川と神代に大関白露山まで加わった東京脱出行は果たして無事成功するのか?
乞うご期待!




