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第2話「マルコの事情」~死者たちの船~

漂流する密航船に閉じ込められたマルコ。

次々と命を落とす難民たちの中、ついに生存者はマルコだけになってしまった。

そのマルコにもついに力尽きようとしていたその時、アメリカ沿岸警備隊の巡視艇ポール・クラークがマルコの乗った漂流船を発見する。


※本編はグロテスクな描写を含みますのでご注意ください。


 漂流船に梯子をかけ、隊員たちは次々と乗り移った。

 隊員たちは素早く数名に分かれ、甲板、船室、船倉の検索を開始する。

 まず甲板班が驚いたのは、甲板のいたるところに巨大なナメクジが這い回ったような白い痕跡が無数に残っていること。

 甲板に船員の姿はなく、ただ操舵室の外壁にめり込んだ斧が不気味にギラギラと光っているのみだ。

 次に船室班が異様な光景を目撃する。

 操舵室はおろか、船室にも船員の姿は全く見当たらない。

 そして船室に置かれた鍵のかかっていない金庫には大量の米ドル札が残されていた。

 もしこれが隊員たちの大方の予想通り密航船だったとしても、危険を冒してまで得た大金を置き去りにして船を去るということがあり得るだろうか。

 また、船室にも甲板と同じ異様な痕跡が残されていた。


 隊員たちからこの第一報を聞いたポール・クラークの艇長と副長は思わず顔を見合わせた。

 艇長がひきつった笑いで副長に言った。

「大ダコとか?船乗りたちが昔からクラーケンと呼んでる怪物とか」

 若い副長は落ち着いて答える。

「艇長、それは非論理的な考えですね。そういう生物が実在するという証拠は今のところありません」


 船上での検索は、ついに船倉を残すのみとなった。

 頑丈な鉄扉とそれを閉じる2本の太い鉄のかんぬき。そしてそのかんぬきにがっちりと巻かれた鎖とそれにかけられた巨大な南京錠。

 これほど厳重に管理された船荷は…。

 隊員たちは一様にイヤな予感を浮かべた。

 たとえ麻薬でもここまで厳重であることは少ない。船員たちが船倉を厳重に密封する理由は()()()()船を奪われることを恐れているからだ。

 溶接機を持ち防護マスクをかぶった隊員が、まず鎖を焼き切り始める。

 他の隊員は飛び散る火の粉(スパッタ)を避けるため少し下がった。


 巡視艇ポール・クラークでは、ブリッジから艇長と副長が双眼鏡で鉄扉が開けられる様子を眺めていた。

 重たい鉄扉が焼き切られ、数名がかりで鉄扉が取り除かれた瞬間、下がって見ていた隊員が一斉に手すりを掴み、海に嘔吐し始めた。

 艇長がいまいましそうに声を上げる。

「ビンゴだ!マジかよ」

 副長は黙って双眼鏡を覗き続けた。


 数名の船員が焼き切られた重い鉄扉を船倉に落とさないよう、慎重に外して甲板に置いた瞬間、船倉から黒い塊が唸りを上げて飛び出してきた。

 ハエだ。

 ハエの大群がまるで黒い煙のように船倉の入り口から噴き出し、溶接用のトーチを持った隊員は甲板に尻もちをついた。

 次に隊員たちを襲ったのは刺激を伴った猛烈な腐臭だった。

 隊員たちのあるものは目を押さえ、あるものは咳き込み、大半の者はとっさに手すりに駆け寄って一斉に嘔吐し、朝食のハムエッグともれなく再会した。

 舷側には思わぬ天恵に、色とりどりの魚たちがわらわらと集まってくる。


 惨状が明らかになったのは、通気のためのラインファンを船倉に入れ、マグネット付きのLEDライトを設置し、マスクとゴーグルを付けた隊員たちが船倉に下りてからだった。

 ポール・クラークの隊員たちが悲惨な難民船に遭遇したのは初めてではない。

 しかし酸鼻を極める光景に隊員たちは皆押し黙ってしまった。

 船倉には腐敗した死骸が折り重なり、ドロドロに液化した腐肉の中を見たこともない太った蛆が無数に泳ぎまわっている。

 そして死骸の中にはほぼ白骨化しているものさえあった。いったい何日間漂流すればこんなことになるのか。

 そして隊員たちは思った。生存者なんているわけがない、と。

 誰もがこの腐った気色の悪い穴蔵から一刻も早く逃げ出したかった。

 しかし、彼らが真っ当な職業倫理の持ち主であったことはマルコにとって幸運だった。

 しゃがみ込んで、懐中電灯で淡々と生存確認を続けていたある隊員が叫んだ。

「おい!生きてるぞ‼」



 マルコは甲板に座り込んで、与えられたペットボトルの新鮮な水をがぶ飲みしている。

 だが黒かったその頭髪は、すべて真っ白になって肩まで伸びていた。

 頬はこけ、浅黒い肌は皺だらけでまるで老人のようだった。

 そして落ち窪んだ眼には光がなく、焦点の合わない視線は何も見ていなかった。


 艇長と副長はその傍らでマルコが身に付けていたパスポートを見ていた。

 艇長はマルコの発する臭気に耐えられない思いだったが、彼の階級と任務に対するプライドと恋人からもらった白いハンカチでかろうじて嘔吐を抑え込んでいた。



 巡視艇ポール・クラークが漂流船を曳航して母港マイアミに帰還してから、艇長の悪い予感は現実となった。

 書類の作成と沿岸警備隊各部署からの様々な問い合わせに深夜まで追われ、結局今夜のデートはフイになってしまった。

 ポール・クラークは翌日も早朝から別海域の巡視を予定しており、艇長は帰宅せず第7管区から直接船にに戻った。そして当直に状況報告を受けた後、副長室に直行した。

 すでに明け方近くにもかかわらず、副長はまだ制服を着て書類を作成していた。常々思っていたが、この男はいつ眠っているのだろうか。

「君は制服を着替えないつもりか?」

 艇長は笑いながら副長に話しかけるが、副長は至極まじめに答える。

「明朝にはシャワーを浴びて着替えます」

 艇長はため息をつきながら、副長の傍らの椅子に腰かけた。今日一日の疲れがどっと押し寄せてくるようだった。

 デスクから向き直った副長は艇長の様子を見て言った。

「バーボンがいいですか?それともラムにしますか?」

 艇長は少し考えて言った。

「ラムだ」

 副長は座ったまま長い手を伸ばし、二人の椅子の真ん中に小さな丸テーブルをひょいと移動させ、その上に棚から取り出した二つのショットグラスを置いた。

 次に冷蔵庫のフリーザーからラムの瓶を取り出し、よく冷えてとろりとした褐色の液体をショットグラスになみなみと注いだ。

「くそったれな漂流する棺桶で亡くなったやつらに」

 艇長はそう言いつつグラスを上げ、献杯してから一気に飲み干した。

「ずいぶん感傷的ですね」

「たまにはそういう夜もある」

「ところでディエゴ・アルベルト・タカギはどうなりました?」

「あの日系人は入国管理局の附属病院に入院した」

 副長は片眉を上げながら尋ねる。

「それで?」

「まだ生きてる。しかし重大な感染症に罹ってないか、検査のため隔離病棟に入れられている」

「ビルジ(※船底にたまった水)に腰まで浸かって三週間ですからね。衛生的環境とはいいかねます」

「全身がありとあらゆる皮膚病に侵されているそうだ」

 副長は黙って艇長のグラスにもう一杯、ラムを注ぐ。

「記者の連中はどうでした?」

「我々が()()を引っ張ってくるのを見てたからな。しかし広報は会見を開くことを躊躇している」

「なぜでしょう。大西洋を一か月近く漂流した難民船を救助した。しかも生存者がいた。いかにも広報部の好みそうな話ですが」

 艇長はそれには答えず二杯目のラムに口を付けながら、副長にゆっくりと言葉を選びながら問いかけた。

「君はその…、あの奇妙な…、印、痕跡をどう考える?」

 広報部が会見を躊躇する理由はそこか、と合点しつつ副長は答える。

「さあ、私は生物学者ではありませんのでなんとも」

「ふむ…。」

「いずれにせよ、専門機関による調査が必要です」

 艇長は言いよどむ。この超合理主義者にこうした話題を向けることに意味はあるのだろうか。

「何というか…、最近奇妙なことが世界のあちこちで増えているように感じる時が…、ある。日本での超巨大地震以来、この海域で原因不明の船舶遭難が増加している」

「艇長、我々の管区で船舶遭難が増えているのは専らセント・グレゴリオをはじめとする中米諸国の政治的混乱が原因と考えるのが合理的です」

「日本での地震で地軸が大きくねじ曲がったという話もある」

「天体は精密機械ではありません。ですから地球においても微細な地軸の移動は常に起きている可能性があります。しかし、天候や環境を大きく変えるほどの変化は観測されていませんね」

「ふむ…」

「艇長、しっかりして下さい。仮にも我々は船乗りなのですから。地震の前後で星の位置が大きくずれたりしましたか?」

「そうだな。しかしその…、最近各地に現れているという高次特異技能者(ハイパー)というのは…?」

 副長もさすがに呆れた顔で、頭を掻いた。

「艇長、超能力はある周期で流行する傾向にあります。しかしその大多数はインチキな手品師ですよ。超能力の存在が科学的に正しく証明されたことは一度もありません」

「そうか…、そうだよな」

 副長は、今夜の艇長は明らかにおかしいと感じていた。

 あの漂流船の中を見れば、たとえローマ法王でも神の存在に疑問を抱くに違いない。

 副長は気を取り直して言い方を変えた。

「艇長、日本での大地震とそれに連なる大恐慌以来、全世界が不安に支配されています。詐欺師たちはそういう空気に敏感なのですよ。こういう時代には誰もが超常の力に憧れる。それは人類の歴史が繰り返し証明してきたことです」

 艇長は空のショットグラスを前にしばらく無言で考え込んでいた。

 副長はラムの瓶の表面を覆った霜をハンカチで丁寧に拭き取り、ラベルの絵を艇長に見せながら言った。

「いかがですか、もう一杯」

 ラベルには帆船を襲う巨大なタコの怪物が描かれていた。

 艇長はラベルを見てニヤリと笑い、立ち上がって明るい声で言った。

「結構、ありがとう。世界がどうなろうと我々は我々の仕事をするしかない、要するにそういうことだ」

「本日の航海日誌は作成して送っておきました」

 いつもながらの手際の良さに、艇長は感嘆して首を振りながらながら副長室を後にした。


            第2話「マルコの事情」~Japone(ハポネ~に続く

今週も読んでいただき、ありがとうございます。

連載10回、字数4万時(400字詰め原稿用紙にして100枚)突破という記念すべき回ですが、増ページも巻頭カラー(小説だし)もなく、いつもどおり静かに書きました。

第2話「マルコの事情」は来週をもちまして終了となります。

なお、次週は2月10日22時に更新予定です。

ご期待ください。

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