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番外1 二見さんの話

前日譚です。

 彼女と初めて会ったのは、予報外れの夕立が降り注ぐ暗い街の中だった。

 その日は店が定休日で、僕は買い出しや店の掃除をしてその日を過ごしていた。店に置き傘があったのでちょうどよかった。そう思ってそろそろ帰ろうと駐車場へ向かおうとした時、少し離れた道の先にどしゃぶりの雨に女性を見つけた僕は、慌てて駆け寄って傘を差し出した。



「大丈夫ですか!?」

「……え」



 走る様子もなく冷たい雨の中に立ちすくんでいた彼女は、こちらを見上げて少し驚いたのように目を瞬かせる。このままでは風邪を引いてしまうと女性を店の中へ呼び、急いでタオルを渡した。



「……すみません、本当に」

「構いませんよ。僕のもので申し訳ありませんが、ちょっと着替え出してきますね」



 生憎ここは自宅ではなく職場なので大した着替えは置いていない。仕事着のシャツや防寒用のジャケットなどとにかくあるものを引っ張り出して彼女に差し出すことにした。



「あちらにお手洗いがあるので、そこで着替えて下さい」

「でも……」

「早く温まらないと風邪を引いてしまいますよ」



 ぽつりぽつりと小さな声で謝り続ける彼女を落ち着かせて服を渡す。しばらくして着替えて戻ってきた女性をカウンター席に座らせると、僕は体が温まるようにとコーヒーを入れ始めた。ずっと俯いている女性の表情はあまり窺うことが出来ないが、酷く憔悴していることだけは確かだ。



「どうぞ、飲んでください」



 湯気の立つコーヒーを女性の目の前に置いたのだが、彼女は困惑するようにこちらを見上げ、そっとカップを遠ざけるようにして首を横に振った。



「あの、私今お金無くて……」

「今日は定休日ですから店は営業してません。だからお代は頂きませんよ」



 そもそも僕が勝手に連れて来たのだ、そんな彼女からお金を取る気はなかった。全身雨に打たれていた彼女は、見た所鞄の一つも持っていなかった。何か訳ありなのか、そう考えていた僕の疑問に答えるように彼女は遠慮がちにコーヒーを口に運んで自分の状況を語った。


 曰く、今日彼女は相当酷い目に遭って来たらしい。特にひったくりに鞄を盗まれて財布も携帯も傘も家の鍵もないとなればあれだけ憔悴していてもおかしくない。



「……あったかい」



 コーヒーを飲んだ彼女はそう呟いた途端、突然堰を切ったかのように大粒の涙を溢し始めた。



「だ、大丈夫ですか」

「う……ご、ごめんなさい……」

「謝らなくてもいいのですが……」



 泣きながらコーヒーを飲んで「あったかくて、優しくしてもらって、何かもう……ううう」と少々支離滅裂な言葉を紡ぐ彼女に、申し訳ないが気付かれないように少しだけ笑ってしまった。何とも感情豊かな人だと。







 彼女の名前は二見詩織さんと言う。大学生である彼女は、あれから時々この店を訪れるようになった。最初に会った時は本当に落ち込んでいたらしく、本来の彼女はとてもよく話す人だった。

 二見さんは店に来るたびに色々な話をしてくれる。大学や家族の話、そして他に多いのが彼女の周囲の変わった知人の話だ。



「どうにも私の周り、変わってる人が多いんですよね……」



 そう言って語られる話はいつもちょっと現実離れしていて不思議な話だった。元々話すよりも聞く方が好きな僕には彼女の話は毎回興味深く、気が付けば二見さんが来店するのを心待ちにするようになっていたのである。

 彼女がこの店を訪れるのはせいぜい週に一度くらいだ。定位置であるカウンター席が寂しげに空いているのを見る度に、今度はいつ来てくれるだろうかと考えてしまう。


 そうして日々を過ごしているうちに、いつしかぼんやりと心の中に彼女への気持ちが芽生え始めていた。愚痴だと言いつつも何だかんだ楽しそうに話す二見さんを見ているのが好きで、その気持ちは日に日に大きくなっていったのだ。



「こんなことマスターさんにしか話せませんよ! いつも聞いて下さってありがとうございます」



 そう言って僕の淹れたコーヒーを飲んで表情を緩ませる彼女に、まるで自分が特別な人間であるかのように錯覚させられる。少しでも気を許されていると内心喜んでしまった。

 僕など、彼女の知り合いに比べたら何のとりえもないつまらない人間だと言うのに。


 自分が平凡な男だという自覚はあった。昔からいい人だねと言われることは多々あったが、それだけだ。突出したものは何もなく、何かで一番になったこともない。恋人が出来ても、優しいだけでつまらないと何度も別れを告げられてきた。

 そんな僕が、二見さんを好きになってしまった。彼女の周りには沢山の特別な人がいるが、そんな中で彼女の特別になりたいと望むようになったのだ。


 しかしそう望んでも、結局碌に行動は起こせなかった。いくら僕が彼女を好いていようと、自分達の関係はあくまで店員と客だ。下手に行動を起こしてその関係を壊し、二度とこの店に来てくれなくなったらいとも簡単に繋がりは切れてしまう。それに年も離れた女子大生である二見さんが、そもそも自分を恋愛対象として見てくれるだろうかという懸念もあった。



「あー、本当にマスターさん優しい。結婚してくださいー」

「そんなこと軽々しく言うものではありませんよ」



 一度、愚痴を溢した後の彼女にそんなことを言われたことがあった。どう考えても冗談で言っているのは明白で、だからこそ実際にはまるで意識されていないのだろうと少し落ち込んだ。



「……勘違いして期待する馬鹿な男がいるかもしれませんからね」



 そんな馬鹿な男が目の前にいるなんて、二見さんは全く気付いていないのだろう。







「マスター、どんまい」

「……ありがとうございます」



 彼女が訪れる時間帯はあまり客の入りが多くない。だからこそ大きな声で話していなくても多少会話は届いてしまうのだ。特にいつも一人で雑誌を読むサラリーマンの彼には。

 いつも端のテーブル席で黙って文字を追っている彼とは、常連ながらあまり話したことはなかった。しかし二見さんが帰った後に少し憐れむような目でそう言った彼は、僕の気持ちを察していたのだろう。



「あの子、結構鈍そうだから大変ですね」

「ええ、気長に頑張りますよ……」



 元々気は長い方である。二見さんが来店するのは待ち遠しいが、それでも待っている時間も嫌いではないのだ。



 仕込みをして店を開け、モーニングやランチの忙しい時間を乗り越えて、そして日が傾いて来る頃に、ようやく彼女は現れる。



「マスターさん、聞いてくださいっ!」

「いらっしゃいませ、二見さん」



 さて、今日はどんな話を聞かせてくれるのだろうか。期待に胸を膨らませながら、僕は今日も彼女が喜んでくれるコーヒーを淹れるのだ。





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