CASE5 両親の話 後編
死ぬかもしれない。そう思うと怖くて怖くて仕方が無くて、堪え切れずに泣き出した。泣いて泣いて、喉が痛くなって涙が枯れるまで泣き続けた。
「……お腹空いた」
そして一頻り泣いた所で段々冷静になって来たのである。手が使えない為未だに涙の所為で視界は滲んでいるものの、既に涙は止まっている。そうして停滞していた思考が動きはじめ、最初に考えたのは空腹だった。
泣いた後は妙にお腹が空くものだと思いながら、私は何とか縛られている手足を動かしてどうにか縄が解けないかと試行錯誤する。真矢だったらきっとこんな風に縛られていても簡単に抜け出せそうだ。私も叔父さんに教わっておけばよかったと考えても当たり前だが今更である。
「……ん?」
ひたすらじたばたと足を動かしていると、きつく足首を拘束していた縄がほんの少しだけ緩んだ気がした。気のせいかもしれないがそのまま抵抗を続けていると、どんどん両足の距離が離れていく。やっぱり気のせいなんかじゃない!
足に絡まる縄を片足を引き上げてゆっくりと踵を縄に通す。完全に解けた訳ではないので難しいが、それでもぎりぎり出来た隙間から無理やり踵を通し、そしてそのまま片足を完全に縄から解放させる。
「やった!」
足がようやく自由になり、じわじわと血が通う感覚がする。ようやく体を起こし、今度は手首の縄もどうにか出来ないかと思ったのだが、前ならともかく背中に回されていると碌に動かすこともできない。体が硬い所為で、後ろ手にされているだけでかなり辛いのだ。
仕方がないのでそのまま立ち上がる。後ろに倒れそうになりながらなんとかバランスを取って立ち、そして周囲をぐるりと見回した。すると横になっていた時に見たよりも詳しく部屋の状況が分かる。
荷物は乱雑に置かれているものの、段ボールや袋ごとに置く場所が決まっているようだ。そして木箱の置かれた場所の上方には天井近くに横長の窓が取り付けられている。もしかしたらあそこから脱出できるかもしれない。
そう思い木箱の山を上ろうとしたのだが、何せ手が使えない。足だけで登るのは本当に危険で、二つ登った所で諦めることにした。その場で窓を見上げた時に、ガラスの奥が格子状になっておりとても抜け出せないと理解したというのも理由だ。
「ちょ、わっ」
がっくりと項垂れて床に降りようとした時、体が後ろにぐらりと傾いた。慌てて足を掛けようとするが目測を見誤ったのか足が木箱に触れることはなく、私はそのまま背中から床に落ちてしまった。
咄嗟に横向きになったので手を下敷きにすることはなかったが、その代わり肩を打ち、側にあった荷物に頭をぶつけてしまう。
「っ!?」
痛みに悶えていると、不意に顔の数センチ前に大きな荷物が落ちて来た。がしゃん、と何かが割れるような音を立てて落下したそれは、私が転げ落ちた衝撃で降って来たものだろう。
あと少し頭がずれていたら直撃していたと、心臓が縮むような感覚と共にぞっとする。
「……マスターさん、大丈夫かな」
自分の頭に目の前の荷物がぶつかっていたらと考えていると、誘拐犯に殴られて頭から血を流して倒れた彼の姿が思い浮かんだ。犯人はその場に置いて来たと言っていたが、誰かが気付いて救急車でも呼んでくれたんだろうか。まだあの場に倒れているかもしれないと思うと酷く苦い気持ちになる。
私と一緒に居たから彼はあんな目に遭ったのだ。無関係な彼を巻き込んでしまったのは私の所為だ。
「おい、さっきからうるせえぞ!」
罪悪感に押しつぶされそうになっていたその時、勢いよく扉が開かれておばあさんの姿をした誘拐犯が部屋にずかずかと入って来る。彼――と呼んでいいのだろうか、多分言動から男だと思う――は私の足の縄が解けているのをみると大きく舌を打ち「慣れねえ手でやったから縛りが甘かったか」と小さく呟いた。
「もう一度縛るから、そこを動くなよ」
「そんなこと言われて動かない訳ないじゃないですか!」
「いいから大人しくしてろ、どうせあと一時間でタイムリミットだ。電話の逆探知も妨害してるし場所の特定もされないように細心の注意を払った。あいつらがいくら血眼になって探そうが、時間内に探し当てるなんて無理な話――」
「さて、それはどうかしらね」
喋りながら縄を持って近付いてくる犯人から逃げようとした私は、しかし犯人の声を遮るように割り込んだ女性の声に反射的に顔を上げた。
瞬間、ガラスの割れる音が大きく響き渡る。そして割られた窓から格子を破って室内に飛び降りて来るお母さんの姿を見た瞬間、私は瞬きも忘れて目を見開いてしまった。
「なっ、てめえ……何でここが分かった!? 絶対に見つかれねえはず」
「さあ、どうしてかしらね。世の中不思議なことってあるのねー。――娘は返してもらうわよ」
見ればおばあさんはお腹を押さえて蹲っていた。押さえた手から溢れた赤い液体に、ガラスが割られた時に同時に撃たれていたのだと気付いたが、目の前で人が撃たれたという事実に思わず動けなくなった。
「詩織、大丈夫?」
「私は平気だけど、でもあのおばあさん……」
「あいつはあれぐらいじゃびくともしないわ。だから早く逃げるの」
「逃がすかっ!」
お母さんが走り寄って来るのに僅かに安堵したものの、しかし誘拐犯は恫喝しながらすぐにその身を起こす。
ぴりぴり、と何かが裂ける音がした。
その音の発信元はすぐに分かる。何せ目の前で、おばあさんだった誘拐犯の全身が引き裂かれていくのを目撃してしまったのだから。
「ひいっ」
「窮屈な地球人の恰好なんてしてられるか!」
おばあさんの顔が大きく歪み、裂ける。そこから現れたのは青緑色のふよふよとした何かだった。よく見れば目や口のようなものはあるが、おおよそ人間と呼べるものではない生物が現れたのだ。おばあさんであったものが全て取り払われると、全身蛍光色をした生き物がにたりと笑った。
「やっぱりこの姿は楽でいい」
「詩織!」
唖然と誘拐犯を見つめていた私の隣でお母さんが不意に私の体を抱きしめる。いやそのまま私を肩に担ぎ上げた。
「え、お母さん」
「じっとしてなさいよ……えいっ」
えいっ、じゃなくてええええ!?
軽い掛け声と共に体がふわりと浮く。その直後、私は空を飛んでいた。
いや実際に飛んでいた訳ではないのだが、お母さんが入って来た窓に向かって思い切り投げ飛ばされていたのだ。悲鳴を上げながら割れた窓に突撃しそうになり、思わず目を強く瞑る。
「……大丈夫か」
尖った破片を残す窓にぶつかる寸前、しかし私の体は何か温かいものにぶつかり、受け止められた。耳元で酷く安心する声を聞いて目を開けると、そこには心配そうな顔をしたお父さんが私をしっかりと抱えていたのだ。
「お父さん」
「遅くなって済まなかった」
窓枠に足を掛けたお父さんが私を受け止め、そして慎重に窓の外に運んでくれる。
どうやら部屋は二階だったらしく、窓の外の屋根に下ろされた。頭に大きな手が置かれて、枯れたと思っていた涙が再びじわりと浮かんでくる。しかしすぐにお父さんは私を傍に居た部下らしき男性に預け、そして今度は全く別のものをその腕に抱えたのだ。
「え」
驚く私に何の反応を示すこともなくお父さんはごついライフルを構え、そのまま部屋の中へ発砲する。思わず覗き込んだ室内ではお母さんが誘拐犯と戦っており、自由自在に伸びるスライムのような腕を避けながら銃を撃っていた。お父さんはお母さんを援護するように何度も発砲し、どんどん誘拐犯を追い詰めていく。
「何これ……」
どこのアクション映画だ。というかあの誘拐犯は一体何なんだ。
「もう大丈夫ですよ」
警官服に身を包んだ男性が腕の縄を切ってくれたようでようやく手が自由になる。ふらふらとよろめいた体を支えてくれた男性にお礼を言いながら、部屋の中の光景に対して何と尋ねて良いか視線をうろうろとさせる。
すると何を勘違いしたのか彼は「ああ、お二人でしたら心配はいりません」とこちらを安心させるように微笑み、そして私の常識を吹っ飛ばす一言を何の悪気もなく口にした。
「二見夫妻はこの銀河系でも屈指のエイリアンハンターと名高いですから」
誘拐犯は捕まった。お父さんとお母さんに追い詰められて窮地に陥った彼はその体をぐりゃりと細くして外へと繋がっていた配管から脱出しようとしていたのだが、予め出口に配置されていた他の警察官によって取り押さえられ、重厚な金属の箱に入れられて連行されていったのである。
そして手足と頭に軽い怪我をしていた私は、手当を受けたあと警察で事情聴取を受けることになったのだが……両親と犯人のインパクトがすごすぎて、尋ねられるよりも尋ねたことの方が多かった。
念のため警察に保護されていた宗司もやって来て一緒に話を聞いたのだが、二人揃ってぽかんと口を開けたままである。
「ごめんなさい。今までちゃんと説明できなくて」
「私達は普段地球から離れて色んな惑星の犯罪者を捕まえる為に飛び回っている。……特に今回の犯人のような特殊な生命体を相手にすることが多くてな」
「はあ……」
「姉ちゃん、本当にこんなやつ現実に居たのか……?」
「私も嘘だと思いたいよ」
犯人の写真を見せられた弟がぽつりと呟く。CGじゃないのかと言いたくなるそれは、しかし現実に存在するものであるから困る。
日本の警察でも全て知られている訳ではないが、上層部はしっかり宇宙とコネクションを持っており、両親は腕を見込まれて宇宙勤務の捜査官に抜擢されたとのこと。
「まあ、宇宙人や父さんや母さんのことはともかく、姉ちゃんが無事で本当に良かったよ」
「……ねえ、お父さん。私が捕まった時に、一緒にいて巻き込んでしまった人がいるんだけど」
「ああ、聞いている。彼なら少々怪我はしているが無事だ。今は病院にいると思うが」
「そっか……」
良かった。いや怪我をさせたのだから良くはないが、それでも最悪の事態にならずに済んだ。
「後で謝りにいかないと」
「そうねえ、吉良さんには本当に助けられたから」
「助けられた?」
「実は……あ、来たみたいね」
お母さんが何かを言いかけた所で部屋の扉がノックされる。お父さんが入室を許可すると扉が開き、そしてそこに居た人物に私は少し驚いた。
「竜海!」
「よかった……詩織、本当に無事だったんだな」
扉の前に立っていたのは三人だ。竜海とヴィンセントさん、そして見たことのない赤毛の可愛らしい女の子である。
つい女の子に視線が向くと、竜海は軽く笑って彼女の背を押して前に出す。女の子は心得たように私の前に来ると、にっこりと笑って「初めまして」と右手を差し出して来た。
「私はエステル。よろしくね」
「エステルさん……? って確か」
竜海が前に言っていた、と思い出して彼を見ると、竜海は軽く笑って頷いた。
「俺の恋人だ」
「彼らが詩織の居場所を特定してくれたのよ……魔術で」
「ええっ!?」
「……にわかには信じがたいが、実際にこの目で見たからな」
お父さんが頭痛を押さえるように米神に手をやる。いや、私からしたら竜海のこともお父さん達のこともどっちも信じがたいことなんですが。
探査魔術、というものがあるらしい。文字通り物や人を探したりすることが出来る高度な魔術とのことだが、今回私を見つける為にそれを使用したのだという。しかしこちらの世界の人間である竜海は魔術が使えない、そしてヴィンセントさんも使えるがあまり得意とも言い難いということで、何と竜海は魔術が得意なエステルさんを異世界から呼んで来てしまったのである。
「ご迷惑を掛けて本当にすみませんでした! まさか私のことで、その……異世界から来て下さったなんて」
「いいのよ。竜海からあなたの話はよく聞いていたし、彼にとって大事な人なら私も他人事じゃないもの。それに私よりもヴィンセントが頑張ってくれたのよ」
「ヴィンセントさんが?」
「探査魔術を使うには対象を知らなければ駄目なの。だからヴィンセントが主に魔術を使って、私はそのサポートをしただけなのよ」
「……魔力の大部分はお嬢様にお借りしましたが」
ヴィンセントさんを見上げると、彼は謙遜するようにそう言って顔を逸らした。
「ヴィンセントさん、ありがとうございました」
「いや、君には以前世話になったし……みっともない姿を見せてしまったからな。これくらい何ともない」
そう言いながら彼はちらりと宗司を見て何とも言えない表情を浮かべた。色々と思う所があるのだろうが、当の弟は感心するように「成程……」と頷いていて視線には気付いていないようだった。
「俺の時代ではそんな魔術などなかったが……随分進歩したものだ」
「宗司、何か言った?」
「え? い、いや何でも」
お母さんに尋ねられた宗司ははっと我に返って首を振っている。ちょっとアルバート様が出かかっていた。
「それにしても……お母さん、どうして竜海達に頼んだの? その、魔術とか、知らなかったはずだよね」
そもそも両親は竜海が行方不明になってから戻って来たということすら知らないはずなのだ。私も言いそびれていたし。
ふと湧いた疑問に首を傾げると、お母さんは竜海に目配せしてみせる。その視線を追うように彼を見ると、竜海は「それなんだがな」と片手で頭を掻いた。
「俺に魔術を使って探して欲しいって言ったのはおばさん達じゃないんだ」
「え、じゃあ誰が」
「……吉良さんっていう、お前の知り合い」
「え」
吉良さん、つまりマスターさんが竜海に頼んだ?
確かに彼らのことを話したのは私だ。だけどここで彼の名前が出るなんてこれっぽっちも予想出来なかった。こちらを見る竜海の目が少し責めるようなものに見えてしまうのは、多分私がそれを疾しいことだと思っているからだろう。
「あの人は自分が詩織に無理に聞き出したって言ってたけど、違うんだろ? 元々知らなきゃそんな話聞き出そうとしないはずだ」
「マスターさん、そんなこと言って……竜海、ごめん。私が話したの。本当に、ごめんなさい」
「……いいよ。言われた時は驚いたけど、そのおかげで詩織を助けられた。むしろお礼を言いたいぐらいだ」
気にするな、と笑う竜海は本当に怒っていないらしく、私も申し訳なく思いながらも少し安堵した。勝手に話していた手前責められても仕方がないのに、ヴィンセントさんもエステルさんも何事もないように「話しておいて良かったな」と笑っている。
「それにさ、普通は異世界なんて話、言っても誰も信じないだろ? 俺が話した時だって詩織、ずっとぽかんとしてたし」
「……まあ」
「そんな話をするほど、詩織は吉良さんって人のことを信頼してたってことだ。実際にあの人は詩織を信じて俺に連絡して来た訳だし」
「そう、だね」
竜海の言葉に、少し前にマスターさんに似たようなことを言われたのを思い出した。その人を信頼しているからこそ、荒唐無稽だとも言える話を覚悟して話すのだと。
「なあ、姉ちゃん」
「宗司?」
「吉良さんって、あの喫茶店のマスターの人なんだろ? 結局姉ちゃんってあの人のこと好きなのか?」
「……え?」
なんとなくいい雰囲気でまとまりつつあった所に水を差した宗司の発言に、一瞬間を置いて急に部屋の中が騒がしくなった。
「あ、やっぱり吉良さんって人は詩織の恋人だったのか?」
「喫茶店で見たときから親しげだとは思ったが……そうだったのか」
「魔術を使う時に一度会ったけど、優しそうな人ね」
「吉良さん、詩織のことすごく心配してたわよ。お母さんとしては大歓迎」
「……彼なら許す」
お父さん、一体何を許すつもりなの。
それから勝手に納得し始めている面々に何度も否定を繰り返し、表面上は納得してもらうまで時間が掛かって疲れた。今日は本当に、疲れた。
……マスターさんのコーヒー、飲みたいなあ。
「マスターさん!」
「こんにちは、詩織さん」
その日は事情聴取で遅くなってしまった為、翌日私はマスターさんに会いに病院を訪れた。しかし彼は一日入院しただけですでに退院したらしく、私は慌てて踵を返して喫茶店へと向かうことになったのだ。
しかし流石に怪我をした次の日だからか喫茶店は臨時休業になっていた。私は彼の連絡先を何一つ知らない。両親ならば昨日の事件の際に聞いているかもしれないが、昨日の今日で事後処理に追われているであろう仕事中の両親に電話するのは少し気が引ける。
諦めて帰ろうかと思ったその時、突然店の扉が開かれて、そこから彼が顔を出したのだ。
「あの!」
「少し寄って行かれませんか? 一応休業日ですけど、コーヒーくらい出せますよ」
勢い余った私を制するように、彼はいつも通りの朗らかさでそう言った。何となく出鼻を挫かれて流されるままに店内に入ると、彼は私を見つめて酷く安堵したように息を吐いた。
「……助かったとは聞いていましたが、本当に無事でよかったです」
「マスターさん、巻き込んでしまって本当にすみませんでした」
「謝らないで下さい。詩織さんが無事ならそれで十分ですから」
カウンターのいつもの席に案内され、彼も定位置のカウンターの内側に戻る。今日は昨日する予定だったテイクアウト用の焼き菓子を作っているらしく、既に店内に甘い香りが漂っていた。
「もうすぐ焼き上がりますから、是非詩織さんも味見してみてください」
「あの、そういえば名前……」
「ああ、すみません。ご両親のことも二見さんと呼んでいたものですから……不快に思われましたか?」
「そんな、全然構いません! 好きに呼んで下さい!」
何故か妙に力を込めて言ってしまったそれにマスターさんは小さく笑う。その表情に少しどきりとしてしまったのは、多分昨日の皆が好き勝手言っていたのを思い出してしまったからだ。
手際よくコーヒーの準備を始め、手が空くと今度はクッキーの生地を伸ばす彼の姿を眺めているのが楽しくてぼうっと見ていたのだが、髪の毛に隠れて僅かに見えた白い包帯を見つけて我に返った。
「頭の怪我……痛いですか」
「大した傷ではないですから。詩織さんこそ殴られて……傍にいたのに守れず、すみませんでした」
「そんな、マスターさんが謝ることなんて一つもないです! 私の方が……」
「……キリが無いのでこの辺にしておきましょうか。お互い無事だったんですから、よかったということで」
「マスターさんが助けてくれたから、私はこうして無事だったんですよね。竜海に連絡してくれたって聞きました」
「僕に出来ることなんて、それくらいしかありませんでしたから」
マスターさんはそう言って音が鳴ったオーブンを開けて鉄板を取り出す。一気に甘い匂いが強くなり、私は思わず立ち上がって何が焼けたのか覗き込んでしまった。
「マフィンですか?」
「ええ。コーヒーもちょうどいいので出来立てをどうぞ」
一口サイズの小さなマフィンはいつもここで売られているものだ。それを二つ小皿に乗せた彼は、続いてコーヒーをカップに注ぎ「どうぞ、召し上がってください」と私の前に並べた。
「いただきますね」
「はい」
いつもとは違う出来立てのマフィンを火傷しないように気を付けながら口に運ぶ。出来立てだからか生地が普段よりも柔らかく、ふんわりとしてとても美味しい。一つをゆっくり噛み締めるように味わってから、今度はコーヒーを手に取る。口の中に残る甘い味とコーヒーは相性が抜群で、今私は最高に至福の時を味わっていると確信した。
「美味しい……それに、すごくほっとしました」
「ありがとうございます」
表情が緩んでいくのが鏡を見なくても実感できる。二つ目のマフィンとコーヒーを楽しみながら、つい頭を過ぎったのは昨日のことだった。いつもコーヒー片手にマスターさんに愚痴を溢してしまっているからだろう。私を誘拐した青緑色のエイリアンや、それに慣れたように応戦する両親の姿を思い出して頭を抱えたくなった。
今まで色んな人の不思議な側面を見て来たが、まさか両親までそうだったなんて。むしろそんな人々に囲まれている私は何故ただの一般人なのか逆に不思議に思えてくる。普通なのが普通じゃないという何とも可笑しな事態である。
「……マスターさん」
「何ですか?」
「マスターさんは普通の人ですよね? そうだと言ってください!」
ここまで来ると彼も何かしら特殊な人なのではないかと疑いたくなってしまったのだ。そんな私の失礼な質問に、彼は目を瞬かせた後「大丈夫ですよ」と苦笑した。
「僕は特に何のとりえもないごく普通の人間ですから、ご安心を」
「とりえはありますよ! こんなに美味しいコーヒーとお菓子作れますし、それに優しいし誠実だし癒されるし!」
「……はは、ありがとうございます。ですが――詩織さんの期待に沿えるような人間ではないかもしれませんね」
「え?」
小さく付け足された言葉に首を傾げるが、彼は意味深に笑みを浮かべただけだった。その表情に、もしかしてと懲りずに疑惑が頭を過ぎる。
「どういう意味ですか? やっぱり異世界人だったり超能力者だったりどっかの組織のボスだったりするんですか!?」
「ですから僕は普通の人間ですって。ただ、あなたの言うような優しくて誠実な人間かと言われると……」
「いえ、それこそ何度もいいますけどマスターさんはすっごくいい人です! 本当に、断言しますって!」
「僕はそんな大層な人間ではないですよ」
マスターさんは強く言い募る私を宥めるようにそう言って……そして、何でもないように微笑んで言葉を付け足した。
「――あなたに想いを寄せているだけの、本当にただの普通の男です」