番外2 吉良さんの話
「この本なら参考になるだろう」
「ありがとうございます」
大学でのゼミの後、私は担当の教授に本を借りる為に彼の研究室を訪れていた。研究室内には様々なジャンルの本が所狭しと積み上げられており、教授はそのうちの一つの山を漁っている所だ。この後は予定があるのであまりゆっくりして居られないのだが、意外にも教授が目的の本を見つけて来るのは早かった。
鞄に借りた本をしまい込んで顔を上げると、不意にこちらをじっと見つめていた教授と目を合わせてしまい、それと同時に少し嫌な予感がした。彼が人を静かに見つめている時はいつも決まって――。
「……ところで二見君、君はこれから予定があるね?」
「え? はい、就活のセミナーに行きますけど」
確定的に問われた質問に戸惑いながらも頷く。私はこれから大学内で行われる就職活動の為のセミナーを受講する予定である。既に内定の決まった四年の先輩からの話や、これからの就活の流れなどの説明があるらしい。
しかし私がそう口にすると、教授は眉間の皺を深く刻み込んで「止めておきなさい」と口を開いた。
「はい?」
「そんなものに参加しても無駄だから止めておけと言ったんだ」
「無駄って……そんなの分からないじゃないですか!」
「分かるさ、何しろ私は――予知能力者だからな」
――決まって教授は、こう言うのである。
結局セミナーは受講した。教授が何と言おうと後々就職活動はするし、話を聞いておくことは決して無駄になるとは思わなかったからだ。……もしかして私がどれだけ頑張っても最終的に全く内定が取れないから無駄になると言われたのかもしれないが、それは考えないことにした。予知能力者を名乗るだけあって、あの人の言うことはかなりの確率で当たるけれども。
「こんにちはー」
「こんにちは、詩織さん」
喫茶店“吉良”の扉を開けると、いつも通りマスターさんが微笑みながら迎えてくれる。
「詩織ちゃん、待ってたよ」
「ああ、危うく帰る所じゃった」
以前と違うのは、常連のおじいさんおばあさんも私に親しげに声を掛けてくれる所である。私は彼らに笑って会釈をして、すぐに店の奥でエプロンを付けて準備を始めた。
私は今、この喫茶店でバイトをしているのだ。大学や家事もある為(両親は再び宇宙に戻ってしまった)そこまで多くシフトを入れている訳ではないのだが、マスターさんから提案されて何となくはじめてしまった。
……一応、彼には告白された身であるのだが、まだ返事はしていない。「いくらでも待ちます」と言ってもらえたのもあるが、私自身の気持ちがまだ固まっていないのだ。
勿論マスターさんはとても優しい人だし、他の人が言うように優良物件なのだろうとは思う。だけどそんな理由だけで簡単に頷くのは失礼な気がしたのだ。
「詩織さんが僕のことをもっとよく知って、好きになってくれたらその時に返事を頂けると嬉しいです」
私の気持ちを汲んでマスターさんはそう言ってくれた。そして、まずここで働いてみないかと提案して来たのだ。一緒にいる時間を増やして、自分を見て欲しいと真剣な表情で言われた時顔が熱くなったのは気付かれてしまっているだろうか。
……ちなみに彼の言葉を思い返して「あれ、これ断るパターン用意されていないんじゃないか」と気付いたのは結構後になってからの話である。
「詩織、来たわよー」
「いらっしゃいませ、真矢」
そして私がバイトを始めてから、時々知り合いがこの喫茶店へ足を運ぶようになった。相変わらずの巫女服でごく普通に他の常連さんに馴染んでいる真矢はカウンター席に腰を下ろして、期待を込めた目でこちらを見つめて来る。
「ねえ詩織、今日はあの人来てないの?」
「私もさっき仕事始めたばかりだから……あ、来たよ」
真矢の言葉に答えているとちょうど店の扉が開き、新しいお客様がやって来た。幼馴染とその護衛である。
「詩織、吉良さんこんにちはー」
「いらっしゃいませ。竜海さん、ヴィンセントさん」
マスターさんに案内されて空いていたカウンター席に腰を下ろす二人。そんな二人を……正確に言うのならばそのうちの一人だけを、真矢はきらきらした目で見つめている。
「今日も素敵ねえ」
少し前に同じようにここで鉢合わせた時に、真矢はヴィンセントさんに一目惚れしてしまったのだ。彼女曰く「すっごく強そう!」とのことで、まあ確かに護衛なのだから腕っ節は強そうだ。
しかしヴィンセントさんは相変わらずレイチェル様こと紗希のことが忘れられないらしく、今日も竜海に励まされている。彼女の恋はなかなか前途多難だ。
「ご注文は?」
「コーヒー! あとこのバナナパフェね」
「少々お待ちくださいね」
真矢の注文を取って、厨房でサンドイッチを作っているマスターさんの元へ行く。盛り付けるだけのパフェやケーキは私でも出来るが、コーヒーだけは必ずマスターさんの仕事なのである。
「マスターさん、コーヒーお願いします」
「分かりました。……それはそうと詩織さん」
「何ですか?」
「その呼び方、そろそろ変えませんか?」
コーヒー豆を取り出したマスターさんは、いつも穏やかなその表情を少しだけ損ねるようにこちらを見てそう言った。
「呼び方、ですか?」
「確かに僕はここのマスターですが、出来れば詩織さんには名前で呼んで欲しいんです。……駄目ですか?」
マスターさんの目は真剣で、決して冗談で言っているのではないのだろう。勿論駄目ではないのだが、ずっとマスターさんと呼んでいたのにいきなり呼び方を変えるのは妙に気恥ずかしかったりする。
他の人ならともかく、私のことを好きだと言ってくれた人だからこそ余計に。
「……吉良、さん」
「はい。ありがとうございます」
嬉しいです、と年齢にしては少しあどけない表情を浮かべた彼に心臓が跳ね上がるのを感じた。少し緊張しながらも彼の隣で注文のパフェを作り始めるが、いつもと同じ距離なのに何だか妙に近い気がして落ち着かない。
サンドイッチを皿に盛り付けながら、マスター……吉良さんがこちらを窺うようにして少し口元を緩めたのが見えた。
「……少しは脈があると思っていいんですかね」
「あの、返事は待って下さるって言ってましたよね」
「勿論です、待つのは得意ですから。ですが……その間に詩織さんに好きになってもらえる為の努力は惜しまないつもりです」
「……なんか吉良さん、少し変わりました?」
以前に客として来ていた頃よりも、何と言うかこう……ぐいぐい来られている。彼がいつから私のことを想ってくれていたかは知らないが、前はいつも私が話すのをひたすらにこにこして聞いてくれていた印象が強かった。
「“女っていうのはね、ちょっと強引な男が好きなんだよ。うちのじーさんみたいにね!”」
「?」
「……と、梅子さんが仰っていたので少し参考にしました」
「梅子さんはまったく……!」
「まあ、それもあるんですが。あと僕の方でちょっと心境の変化がありまして」
バイトを始めてから余計に吉良さんを推して来るようになった梅子さんに頭を抱えたくなっていると、ぽつりと付け足されるようにそんな呟きを耳にした。
「どういうことですか?」
「他人と比較して諦めていたら何も得られない。むしろ失ってしまうものがあるって分かったんです。……あの時は、本当に肝が冷えましたから」
「――あ」
あの時、と言われてやや遅れて理解する。しかしその時には吉良さんはサンドイッチの皿を持って厨房から出て行ってしまっていた。取り残された私は誘拐されたあの時のことを思い出しながら止まっていた手を動かしてパフェを黙々と仕上げ始める。
あの時、吉良さんが竜海に連絡を入れてくれなかったらもしかしたら今頃私はここに居なかったかもしれない。犯人だって見つからないようにとても注意を払っていたのだ、他の方法では時間までに発見できなかった可能性も高かった。
完成したパフェを持って真矢の元へと向かうと、彼女は待ちきれなかったかのようにいそいそとスプーンを手に取ってすぐに食べ始めた。ちょうど良いタイミングで吉良さんがコーヒーを彼女に差し出す。
「お待たせいたしました」
「マスターさん、どうも!」
「詩織、俺達もコーヒー頼む」
「はーい」
少しヴィンセントさんが落ち着いた所で竜海が片手を上げる。注文を取って吉良さんに伝えていつもならそのまま離れていくのだが、今は先ほどの話が頭を過ぎった。
「吉良さん。あの時は助けて頂いて、本当にありがとうございました」
「……その、恩着せがましくなってしまいましたね。そういうつもりで話を出したつもりではないのですが」
「でもちゃんと言えてなかったと思うので。……こうやって楽しく過ごせるのは、吉良さんのおかげですよ」
私がそう伝えると、彼は返事に窮したのか少し困ったような表情を見せた。「実際に僕が探し当てた訳ではないので……」とぼそぼそ言っているのが聞こえる。こういう時に自分を卑下する所はあまり変わっていない。
「竜海とヴィンセントさんも! あの時は本当にありがとうございました!」
「詩織、どうしたんだ急に?」
「ちょっとね」
不思議そうな顔をする二人にもお礼を言って仕事に戻る。バイトを始めてからまだそんなに経ってはいないが、吉良さんは丁寧に仕事を教えてくれるし常連さんとも話しやすいのでとても居心地がいい。
「詩織ちゃん、マスターとはいつ結婚するんだい」
「え」
「あれ、まだしとらんかったのか。てっきり儂は結婚したから働き始めたんじゃと」
「やだねえ弥太郎さん、この前子供が生まれたばかりでしょう?」
そんなご飯はさっき食べたばかりでしょ、的な感じで言われても。どれだけ話に尾鰭が着いているんだ。
「詩織、子供いたの?」
「そんな訳ないでしょうが」
至極真面目に尋ねて来た真矢を一蹴して仕事に戻る。他の常連さん達にまで全員弁解する気力はない。
確かに居心地は良いのだが、何故か完全に吉良さんと付き合っている(もしくは結婚している)と思っている人が多いのが問題である。そんな話になる度に吉良さんが申し訳なさそうな顔をするので別に彼が意図してこんな状況を作り出した訳ではないのだが、何だか若干私の気持ちを置き去りにして外堀を埋められている感じはしてしまう。
常連さんの冷やかしを躱しながら仕事を続け、徐々に店内に残っているお客さんは減っていく。おじいさんおばあさん達は日が傾き始めると同時に席を立ち、もう少ししてから真矢や竜海達も帰って行った。今の時間に居るのは、先ほど来たばかりのサラリーマンの男性一人だけだ。いつもの定位置でコーヒー片手に雑誌を読む彼はたまに見かける。
テーブルを拭いて食器も洗い、特に仕事がなくなるとそろそろバイト終了の時間である。この後はいつも、客だった頃と同じようにコーヒーを頼んで吉良さんと話をすることが多い。やっぱりこの時間が一番好きだ。
「仕事は慣れて来ましたか? 何か困ったことがあったら何でも言って下さいね」
「ありがとうございます。でもここのバイト、楽しいので大丈夫ですよ。マスターさん……吉良さんや常連さん達も皆優しいですし、覚えることはいっぱいありますけどやりがいがあります。あ、でも……」
「どうしました?」
「いえ……まだ少し先の話なんですけど、就活始めたらバイト出来なくなるかもしれません」
三年に入って多少講義が減ったので今はバイトをしていられるが、就活が始まったらそうもいかないだろう。今日話を聞いて来たので余計にそう思う。今もそんなに多くシフトを入れられないのに、土日は企業説明会も多いらしいのでバイトを続けるのは難しいかもしれないのだ。
私がそう説明すると、吉良さんは少し残念そうな顔をしたが「それは仕方がないですね」と眉を下げる。
「元々僕からお願いしたものですから、気にしないで下さい」
「でも、出来る限り来ますよ!」
「ありがたいですが無理はなさらないで下さいね」
「そういえば今日、就活のセミナーに行ったんですけど――」
私は今日のセミナーの話と、それからついでに教授のことまで彼に話した。吉良さんには以前自称予知能力者の教授のことは話したことがあったので、詳しく説明せずとも理解してくれる。
「それで、教授がセミナーなんか行かない方がいいって言うんです」
「実際どうだったんですか?」
「すごく参考になりましたよ。エントリーシートの書き方とか、面接の注意点とか色々聞きました」
「それはよかった。ところで詩織さんはどんな仕事をしたいとか考えているんですか?」
「実はまだあんまり……でも、此処で働いて接客業もいいなって少し思いました」
居心地のよいこの店を基準に考えてはいけないとは思うが、人と話すのは好きだし、黙々と一日中椅子に座ってデスクワークというのは想像するだけでつらい。ただでさえ頻繁に肩にお年寄りを乗せているのに肩が凝ってしょうがないだろう。
「此処みたいに楽しく出来る仕事を探すのは中々難しそうですけどね」
「……そうですか、では」
店のことを褒められたのが嬉しいのか上機嫌で微笑んだ吉良さんは、コーヒー豆や茶葉の在庫をチェックしながらごく普通に会話を繋いだ。
「このまま、うちに永久就職というのはどうですか?」
「ぶっ」
コーヒー吹き出した。私ではなく、端のテーブル席にいたサラリーマンの男性が、である。私も飲んでいたらきっと同じ状況になっていただろう。
それは、一体どっちの意味ですかね!
意味深な言葉を吐いた癖に、まるでいつも通りに布巾を持って男性の元へ向かった吉良さんに、思わず尋ねるタイミングを逃してしまった。……彼がこちらに戻ってくる前に、顔の熱をどうにかしなければ。