夜の女
使用お題ひとつ
リーリーと闇の中、翅をこすりあわせ歌う虫。
サワザワと梢を揺する風はしっとりと水気を帯びている。
木々の枝間から覗く空は枝が黒紙を切り取ったかのように見せる深い青。
「私の妻になってくれ」
その言葉はひょろりと伸びた影から発せられた。
「おゆるしくださいませ」
木陰に紛れた影が揺れながら応える。
「私が、嫌いか?」
苛立ちを含む男の声に返る声はない。
「私はおまえを妻にしたいのだ。たとえ、おまえが何者であっても」
ざわざわと静寂を際だたせる風の中、男は女の返事を待つ。
「おゆるしくださいませ」
震える女の声に男は一歩足を出す。
草を、土を踏む音に息を飲む音が混じる。
「私が厭わしいか」
「いいえ。いいえ。お慕い申し上げております」
震える声は絞り出したかのように掠れひび割れて聞こえてくる。
「ならば!」
苛立つ男の声が暗い森に、逢引の場に吸われてゆく。
「いいえ。いくらお慕い申し上げていましてもわたくしはわたくしは、ふさわしい女ではありません。どうか、ふさわしい奥様をお選びくださいませ」
「私はおまえでなければ娶らん」
唸るような男の声に女は身を震わせ大樹に縋る。
男は苛だたしげに手を伸ばす。女の腕を逃すまいと。
「ああ。ならば、ならば。わたくしのすまいに訪ねてくださいますか?」
するりと女は逃げ惑いながら男に告げる。
「ああ。私の花嫁よ。訪ねよう」
男の声に応えたのは言葉にならない嗚咽。
「なぜ、泣く?」
「いいえ。いいえ。泣いてなどおりませぬ。わたくしはあなたさまをお慕い申し上げております」
「ああ。これは約束だ。どうか、この櫛を持っていておくれ」
「……櫛」
「日頃、使うものならば邪魔にもなるまい?」
闇夜にも輝くしろがねの櫛。
「いつ、訪ねればよいか。早く陽の下で会いたい。ああ、もちろん、陽射しが肌にきついと言うなら無理はいかんがな」
「近くお知らせいたします。櫛を、ありがとうございます」
男は女からの知らせを待つ。
幸せそうに浮き足だったり急に不安そうに苛立つ男の姿に周囲の人々は華やかに気配を感じ喜んだり迎えにいけと囃し立てたり。
そんな中、雨が降りはじめた。
男は森を走った。
すでに雨は十日降り続いていた。
「どこだ!」
男の声は雨具も用をなさぬほどの雨音にかき消される。
男の眼前には雨にけぶる堰。
「どうして、来られたのです」
きらりと輝くしろがねの櫛。
「無事か……」
安堵の声音に女が笑ったのを男は嬉しく手を伸ばす。
「ここは危ない」
「そうですわね。ですがわたくしはこの堰を破壊しなくてはいけないのです」
女の言葉に男は驚き絶句する。
「このままでは、あなたさまの花嫁になれませんもの」
稲光が堰を穿つ。
「わたくしを妻にしてくださるのでしょう?」
水の音が変わる。
それは堰が壊れ、大量の水がいちどきに地を攻め立てる音。
「わたくしのすまいはあそこですよ」
男が気がつけば、部下の安堵したような顔があった。
陽射しさす中、男は立ち上がる。
「すごいですね。旦那」
広がる光景は水に半分浸かった古い村の跡。
『わたくしのすまいはあそこですよ』
女の言葉を覚えていた男は部下の制止も振り切って走り出した。
「わたくし、あなたさまをお慕い申し上げております。お気持ち嬉しゅうございました。どうか、あなたさまの幸せを祈らせてくださいませ」
ゆるゆるとひいていく水の中、櫛を煌めかせ女は微笑む。
「旦那、危ないっすよ!」
部下の男が見たものは主人が祭壇の上に落ちている櫛を見下ろし涙をこぼす姿。
男らの町は豪雨の中、頻発した土砂崩れ水害の難から逃れた。
堰は再建される。水が満たされてゆく。
男は月のない夜にひとりの子供に出会う。
「ねぇ。おとうさん。おかあさんの櫛をかえして」
にこにこと子供は白い手を伸ばす。
とにあさんへのお題は、「水底の花嫁」です。
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