1章の3
「っ……何だ?」
「キミになら名乗ってもいいと思ってね。これから事が運ばれる上で、僕の所属や名前を知らないのは都合が悪い」
「は?」
置いていかれている晴道をよそに、彼は爽やかな笑みを浮かべながら片手を差し出した。
「僕は、戦闘用生命体生産組織【セル】の偽ヒト生命体開発及び新規形質開発部門室長、久澄調だ。よろしく、沖田晴道くん」
にこやかな自己紹介だった。
よろしく、と言われても、それ以前の長々としたセリフが理解できない。
「偽ヒト……セル……?」
ぽかんと医師――久澄の手を見つめながら、彼の言った単語を反復する。
すると久澄は苦笑じみた笑みを浮かべ、軽く肩をすくめた。
「そうだね。キミはまだ一般人だから、いきなり言われても分からないか」
彼は自分を諌めるように言うと、手を引っ込めて、今度は白衣のポケットから何かを探り出した。
「これが何だか分かるかな」
掲げられた紙片を見る。そこには意味のわからないアルファベットの羅列と、ぐねぐねした帯のイラストが印刷してあった。
首を振る晴道。
「だろうね。おまけにこれはまだ解析段階のものだ」
久澄は予測していたように頷き、そして紙面の正体について、至って平静な口調で説明した。
「上のアルファベットは、キミの持っているある遺伝子のDNA配列だ。その下が、遺伝子をRNAに転写した際の配列。そして一番下のイラストがRNAの構造を立体で示したものだ。所々抜けているのは、配列解析の精度が低くて断定できなかった箇所だよ」
イラストの部分をぐるぐる指差す。
「しかしね、RNAの取りうる立体構造は、ほぼこれで間違いない。この構造はとても重要なんだ。キミが〝特殊形質を持つ変異種〟であると示す何よりの証拠になっている」
久澄の顔は至って真面目だ。
一方の晴道はと言うと、
「……それって高校二年までの生物で習うことなのか?」
学術的な面で全くついていけていなかった。DNAやRNAといった言葉は知っているが、立体構造がどうのと言われても、一カ月休学した高校二年生の頭がついていけるはずがない。
案の定、久澄は苦笑して首を振る。
そして続いた言葉は、更に晴道の理解を越えていた。
「習うも何も、僕らセルの持つ知識や技術は、一部の機関を除いて全く知られていないんだよ。僕らが秘密裏に創り上げた科学、RNA立体構造に基づく特殊形質発現工学とでも言えるかな」
「……」
ジトっとした目で久澄を見渡す晴道。
この医師は、どこかがぶっとんでるんじゃないか?
きっとSFマニアが高じて理解不能な理論を立ててしまったんだ。中二の頃の夢は〝狂科学者〟だったに違いない。
「あんた……いや、久澄さん」
「久澄でいいよ。高名な科学者でもないし、キミとは親しくしたいと願っているからね」
「俺はタガの外れたSFマニアと親しくする気なんか、一グラムも無いからな」
「生物工学の世界で一グラムはかなりの重さだよ。ナノ、せめてマイクロかな」
どうでもいい豆知識が返ってきた。
晴道は辟易し、息をつく。
「怪我の件では親身になって診てくれて感謝してるよ。でもな、くだらないSFごっこに付き合う気はさらさらない。そもそも俺はRPG派だ」
趣味の食い違いを断り、さっさと話を切り上げようと、見せつけがましく久澄から目を逸らした。
彼の握った紙片が目に入った。
別に見ようと思って見たわけではないが、奇怪なイラストにほんの少し興味を引かれる。
久澄は晴道に言葉に気分を害した風も無く、その場に佇んだままだ。
「……なぁ、久澄」
「うん? 質問かい?」
「別に本気にしてるわけじゃないけど……その立体構造ってやつ、どういう意味があるんだ?」
尋ね、上目づかいに彼を見た。
その瞬間、質の変わった瞳に、晴道はびくりと身をすくませた。
「っ――?」
微笑む口元はそのままだ。しかし彼の纏う雰囲気は明らかに今までと異なっている。医師の印象を与えていた微笑みは跡形なく消え去り、酷く冷たい鋭さを抱いた光が瞳の中に灯っていた。
そう、まさに科学者――
「通常、RNAは直線的な構造を取っている。次なる段階――タンパク質合成への情報媒介が一般的なRNAの役割だからだ。しかし変異種のRNAは違う。突然変異をコードしたDNAから転写されるRNAは、普通に無い立体構造を取るんだ。重要なのは、この特殊な構造体がある種の生体エネルギーを生産するという点だ」
一度言葉を切り、久澄は語勢を強めた。
「このエネルギー――僕たちはルナと呼んでいる。ルナは莫大なエネルギーだ。これによって、変異種の個体は常識外れの生体現象を導くことができる」
「……」
「突然変異は全く偶然の産物。おまけに個体ごとに違うから、ルナの起こす現象も個体によって様々だ。でも僕の開発した解析技術を使えば、どんな特殊形質が発現するのか予測することができる」
ふっ、と久澄は息をついた。
いつの間にか、晴道は真剣に聞き入っていた。「そんなバカな」という反論が次々浮かんでは、知らずのうちにどこかへ消え去っていった。
久澄はすぐに顔を上げると、
「その形質を、先端技術を駆使して有効利用しようという組織が、僕たち【セル】だよ。有用な突然変異は資源だ。キミみたいに、自分の突然変異を知らないまま生きている変異種は本当にもったいない。是非、最大限に利用すべきだ」
「……」
科学者の言葉とは、こんなにも説得力のあるものなのか。
晴道は半ば驚いていた。
そしてついにこの問いが口を突いた。
「俺の……突然変異ってのは……何なんだ」
立場の違う人間に答えを乞うように、知らず切れ切れの言葉になる。
久澄は笑みの形の唇を開きかけた。
「キミは――」
その瞬間、晴道の視界に異様な影が落ちた。
そして同時、空気を破る爆音が、この小さな空間に鋭く響き渡った。