凍った心
妾は、城下で働く者でございます。
容姿は、地味で 美人でもなければ 愛らしいわけでもありません。
けれど お客には、愛嬌が良い――と 常々 言われます。
あまり 自覚は、ございませんが 評判は、良い方でございます。
よく 様々な方に声をかけられます。
けれど 妾は、それに 良い返事をすることができません。
なぜなら 妾には、かつて 全てを奉げても良いという 方がいたからです。
その方を 妾は、心から愛しておりました―― いいえ 今でも、その方を愛しております。
あの方以外 考えることができないのです。
どんなに穢されたとしても 心だけは、あの方を、心から想っているのですから。
もう 顔向けできなくとも 妾には、あの方だけなのです。
妾の心は、ある時を境に 凍りつき 感情が、なくなってしまっているのですから。
もう その心が戻ることは、ありえません。
これが、妾に与えられた 報いなのです。
大切な命を、守ることのできなかった。
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妾は、かつて この国の要である 王宮で 働いておりました。
勿論 貴族のお姫様が、優雅にこなす 行儀見習いではなく 奉公に上がったのです。
実家は、一般家庭で 唯一の特技といえば 精霊持ちだということでしょうか。
妾は、平民の中で珍しく 『氷の精霊』の加護を得ているのです。
この国では、精霊持ちは、神に近い者として 扱われております。
その所以もあって 妾は、平民でありながら 王宮での仕事を与えられたのです。
この話を頂いた時は、困り果てました。
妾の実家は、お金に困っているわけではありませんでしたが 兄妹弟が、多く 食費がギリギリだったのですから。
家族に楽をさせてあげられるという 思いで 妾は、王宮での仕事を引き受けました。
勿論 両親や過保護な兄には、反対されましたが それを振り切って。
最初は、使用人の中でも一番 下の位にある 下女。
朝早くから仕事を始め 夜遅くまで 仕事を行います。
どんな汚れも丁寧に磨き上げ 身分の高い貴族の方々や王族の方々の前には、決して その姿を見せてはならない。
それが、下女達の間での決まり事でございます。
身分の低い 妾達が、顔を晒して良いような相手ではないからです。
もしも 不可抗力で 遭遇してしまっても 地べたに顔を押し付け 決して 顔をあげてはならない と 命じられております。
数代前の王が、力の弱い精霊に加護されていた 下女に手を出し その下女が、ひ弱な世継ぎを生んだことで 次に新たな王が誕生するまでの数年間 国は、荒れに荒れたそうなのです。
故に それ以来 次期王になるのは、より 国を反映させる力を持った 精霊である事とより多くの精霊に加護されることが条件になったそうです。
それを裏付けるように 当時の王太子殿下は、先代の王の子ではないと 噂されていたにも関わらず 王になることが、決定しておりました。
殿下は、歴代のどの王よりも、多くの精霊に愛された存在だったのです。
まるで 幼い頃 母君と離れ離れになってしまった 殿下を見守り続けるように 精霊達が、加護をしているのです。
その後 妾の運命は、少しずつ 変わってゆきました。
どういう 運命か 妾は、王太子妃であられるお方に 突然 お声をかけられたのです。
なぜ 興味を持たれたのかは、未だにわかりません。
複雑な理由から 祖国では、不自由な生活を強いられていたそうですが 誰かに迷惑をかけ 困らせるわけでもない。
ただ 陛下が、彼女以外を妃に向かえないと宣言したことで 王国内の貴族の令嬢方には、疎まれた お妃様。
勿論 最初は、規則を守って 顔をあげませんでした。
相手は、他国の高貴な姫君であり 殿下の唯一の奥方なのですから。
けれど 王妃様は、粘り抜いて 妾に毎日のように 話しかけるのです。
妾は、どう対処すればよいのかわからず 上司である 下女長様にも、ご相談しました。
すると 日の立たないうちに 妾は、突然の職場異動を言い渡されたのです。
その異動先は、なんと 王太子妃様付の侍女。
妾は、何かの間違いだと思いました。
けれど 下女長様は、無表情なままで 荷物をまとめるように 言い渡し 直後 妾の後任の下女を連れてきたのです。
妾は、何も考えられず 荷物をまとめるしかありませんでした。
あの瞬間ほど 周りの視線が怖いと思った時は、ありません。
つい昨日まで 雑談しながら おしゃべりしていた 同僚達が、妾を殺気を込めた目で 睨んできたのですから。
侍女とは、王宮に勤める者にとって エリート中のエリート。
ほとんどが、貴族や裕福な商人の令嬢方が、行儀見習いの為に務めるものであり 結婚相手を見つける 一歩であり 運が良ければ 王の目に留まる可能性も高くなる。
妾としては、なぜ 自分が王太子妃様の侍女に抜擢されたのかわかりません。
精霊持ちだという以外 何の特技も持っていないというのに。
王太子妃様の周りには、もっと 素晴らしい方々がおられるというのに。
その疑問を持ったまま 妾は、王太子妃様の侍女として 仕え始めました。
最初は、失敗ばかりが続き 同じ侍女である 侯爵令嬢様に ご迷惑をかけてばかり。
けれど どんなに妾が間違いを犯しても 怒らず 丁寧に教えてくださいました。
そんな時でございます――あの方と出逢ったのは。
あの方は、王宮に勤める 身分のある方です。
とても優秀な方で 周囲からも、期待された方。
反対に 妾は、下女上がりの身分の低い侍女。
王太子妃様付の先輩方には、親しくさせていただいておりましたが 他の侍女の方々には、日々 嫌がらせを受けておりました。
当時 王妃様のお立場は、殿下の目の届く場所にしかあらず それ以外の場では、陰湿な行為あ日常的に行われていたのです。
故に 最も 攻撃を受けやすかったのは、一番 身分の低い 妾でした。
服を汚され 王太子妃様付の仕事を邪魔され 様々な仕事を押し付けられる。
そんな中で 妾は、とうとう 後宮の隅で 泣き明かしてしまいました。
といっても 『氷の精霊』の加護を受けている妾の涙は、液体で流れ落ちるのではなく 氷の結晶として 地面に転がってゆきます。
氷が、妾の足元を覆い尽くした頃 あの方が、来られたのです。
男子禁制の後宮に足を踏み入れることを許されていた あの方は、当時の王の寵姫であられた ご側室の騎士でございました。
最年少で騎士になられた方で 令嬢方の視線も自然と集められるお方です。
あの方は、目を真っ赤にさせた 妾を見て 驚いておられました。
妾も、どうする事もできず 言葉を失いました。
けれど あの方は、何も言わず シルクのハンカチを妾に差し出し その場を立ち去られたのです。
そして 次に出逢ったのは、王太子妃様のお居室でした。
ご側室様とのお茶会の席で 妾も呼ばれたのです。
そこで あの方を紹介されました。
妾は、あの場でのことを恥じ 真っ赤になってしまったのです。
けれど あの方は、それを咎めることなく 微笑まれました。
その日から 妾とあの方の距離は、少しずつ 縮まってゆきます。
妾が、あの方を一目見て 想いを得たように あの方も、妾を想ってくれていたのです。
それを分かった時 妾は、幸せの絶頂にいました。
時が経つにつれて お互いの気持ちを確かめ 逢瀬を重ねるようになったのです。
けれど それと同時に 周囲の視線も厳しくなってゆきました。
平民の出の妾が、貴族のご子息である あの方と話をするだけでも許し難いという考えを持つ方々が多かったのです。
その筆頭が、あの方のお父君であられる 伯爵様でした。
伯爵様は、ご子息であられる あの方の妻には、身分のある 貴族の姫君をと考えられていたのです。
前の妾では、その話を聞いて 身を引いていたかもしれません。
けれど 王太子妃様付となって 様々なことを学び 更には、あの方との幸せを得たことで 勇気を頂きました。
そして 何より 宝を得たのです。
ですから どうしても あの方の元を離れることは、できませんでした。
けれど 運命は、妾の幸せを奪い去ってしまったのです。
ある日 妾は、王宮内で 何者かに連れ去られました。
そして 気が付けば 見知らぬ 薄暗い部屋に横たえていたのです。
体を動かそうにも、力が入らず 動かすことができませんでした。
もしかしたら 何かの薬を使われたのかもしれません。
しばらくすると 部屋の中に 誰かが、入ってきます。
妾は、何もできず 見ているだけしかできませんでした。
誰かは、しばらく 妾の体を弄ぶと 吐息を漏らし 退出します。
その後 違う人が、入れ違いに出入りして 妾は、穢れてゆきました。
涙を流そうにも 見開いた目からは、冷たい氷の結晶だけが、床に転がります。
入ってくる 人々は、ソレが終わると 結晶を戦利品のように 持ち帰ってゆきます。
そして 最後に入ってきた 人物の話から 妾は、知りました。
あの方のお側にいることを疎んだ 誰かが、妾をここに売り渡したことを。
穢れてしまった 妾は、もう あの場所に戻ることが叶わないことを。
その日から 妾に自由はありませんでした。
来る日も来る日も、客を取らされ 体も心も、壊れそうになったのです。
けれど 誰も 妾を助けてはくれません。
自分が、これまで どれだけ恵まれていたのかを悟りました。
実家にいた頃は、家族が――王宮にいた頃は、王太子妃様や同僚の方々やあの方が、守ってくださっていたのです。
妾の知らないところで いつも 助けられていたのでしょう。
でも 今は、一人ぼっち。
この籠の中で 声を上げることもできずに ただ それが終わるのを待ち望んでいるだけ。
そして 売られてから半年後 妾は、あの方から与えられた 『宝』を失いました。
命を賭けて 守りたかったのに 目を覚ました時には、もう どこにもいなかったのです。
この時から 妾の心は、砕け散り 夜になれば 感情のない 人形となり果てました。
年季が明け 籠から出ることが許されるまで 妾の心は、戻ることがなかったのです。
そして 王宮から浚われてから 5年が経ち 妾は、晴れて 自由を手に入れました。
時代は、既に新しく変わり 殿下が、王位を継いでおります。
おそらく あの方も、お父君の言葉に従って 身分に相応な奥方を迎えていることでしょう。
妾との逢瀬は、ただの若気の至りだったでしょうから。
こうして 妾は、あの部屋で溜め込んだ 賃金を元手に 城下で 店を開けたのです。
実家に戻るつもりは、ありませんでした。
望まぬことだったとはいえ こんな穢れてしまった身で 家族に会える勇気がなかったのです。
願わくば 皆の幸せを―――大切な宝を守ることのできなかった 妾にできることは、祈り続けることだけでした。