(だいたい3話あたり)遭遇戦
短編「偏屈航空艦」の続き。途中をスキップして自分で読みたいシーンだけ作成。
主人公は、整備と艤装を終えた愛艦に、古代の戦女神が駆る戦車から名を取ってヴァルディラと名づけた。
だがヴァルディラは、なぜかアリスひとりだけが乗艦している時にしか、操艦命令も出航命令も受け付けなくなった。
初の哨戒航海へと出航したアリス。だが、辺境空域の洋上で、15年ぶりに出現した「幽霊艦隊」の先遣隊と遭遇してしまう。
『直ちに…の空域…ら離脱…てください! アリス様!!』
激しいノイズに混じって僚艦からの必死の無線が艦橋に響き渡る。
だが、私はそれに応えることすら忘れ、目の前で変容を始めたヴァルディラの艦橋をただ呆然と見つめていた。
無数の計器、張り巡らされた配管、パネルの継ぎ目。
それら見慣れたはずの壁面、窓、天井、そして床の各面の裏から、突如として黒い面がせり上がってきた。
まるで黒い水が室内のあらゆる方向から満ちてくるかのように、艦橋内の各面から溢れ出した闇が、静かに、しかし圧倒的な速度で空間を覆い尽くしていく。まるで内側に新たな部屋を構築するかのように。
計器や配管は瞬く間にその黒い面の下に没し、継ぎ目一つない平滑な一枚の面へと塗り替えられていく。
部屋が一回り小さく縮んでいくような閉塞感。
私の目の前の操艦コンソールすらも例外ではなかった。
黒い面がせり出し、手元のスイッチやレバーは瞬く間にその下へと呑み込まれ、鏡のように滑らかな黒い平面へと塗り替えられていく。
「なに、が……起こっているの……?」
声が震える。
艦橋内の照明すらその黒い面の下に没し、瞬く間に完全な暗黒の密室と化した艦橋。
次の瞬間、四方を覆う黒い壁が一斉に蒼白く輝いた。
そこに浮かび上がったのは、見渡す限りの空の景色。そして、その上に重なる、絶えず動き続ける光の図表だった。
平面的な映像ではなく、まるでそこに壁など存在しないかのように、歪みのない外の景色が広がっている。
艦の上部に身を晒し、全周を見渡しているかのような圧倒的な視界。
さらに、座席の周囲の床までもが透け、艦底から眼下の雲海を見下ろしているかのような光景が現れた。
どこにも足場がないような感覚。
恐ろしいほどの浮遊感が私を襲い、私は悲鳴を噛み殺しながら、座っている席へ思わずしがみついた。
投影されている前方の光景を見ると、絶望的な戦力差の中で哨戒艦隊の僚艦たちの必死の戦闘が続いていた。
幽霊艦隊の巨大旗艦と随伴艦に対して、高機動での一撃離脱を繰り返している僚艦たち。
無数の砲撃が放たれ、光芒が明滅している。
一部の艦に被弾が見られるものの、幸いなことに轟沈した味方艦はないが、このままでは――。
この哨戒艦隊では、この規模の幽霊艦隊に対抗できない。
だが、すでにここまで侵入を許してしまった。
人類が過去に幽霊艦隊との意思疎通に成功した例は一度もない。交渉の余地などない敵。
もし私たちが応援の迎撃艦隊が到着する前にここを撤退したら、この幽霊艦隊の進路上にいる沿岸の人々が、容赦なく犠牲になってしまう……。
「……どうすれば…いったいどうしたら…」
焦燥に胸を締めつけられ、視界が涙で滲みそうになる。
と――。
ヴァルディラの艦首が上を向き、急速上昇を始めた。あっというまに仰角が四十度を超え、私は悲鳴を上げた。
「ヴァルディラ! やめて! 墜落しちゃう!」
航空艦の飛行機構は、これほど急激な仰角や俯角をとることを想定していない。限界を超えた無理な空間機動を行えば、最悪の場合、姿勢制御を失うおそれがある。
だが、私の叫びを気にかける様子も無く、ついにヴァルディラの艦首は垂直に上を向き、天頂に向けて上昇を始めた。
航空艦が垂直上昇するなど、ありえない。こんな馬鹿げたことが、あるはずが……。
ギイイイィィン――。
通常の航空艦では聞いたこともない異様な轟音を響かせ、ヴァルディラは高空へと駆け昇っていく。
高度七千ミル、八千ミル、九千ミル……。
常識を遥かに超える加速度で、航空艦の限界さえも置き去りにし、さらなる高みへと突き進んでゆくヴァルディラ。
垂直になった艦橋の中は、なぜか水平と同じ重力が働いており、私は転げ落ちることも無かったが、それでも恐怖に耐えかねて必死に座席にしがみついた。
この艦は…いや、「これ」はいったいなんなのか。
高度一万ミルに到達したヴァルディラは、水平飛行へと移行した。だが、それも束の間、今度はゆっくりと艦首を真下へ向け始めた。
遥か眼下に鎮座する、幽霊艦隊の巨大旗艦。その艦影へと、ヴァルディラの艦首がまっすぐに向いていく。
航空艦がこんな姿勢で浮かんでいられるはずがないのに。
やがて艦首を真下へと向けたヴァルディラは、その姿勢で空中に静止した。
航空艦の飛行機構の常識をことごとく無視したその異様な姿は、まるで天から地上へ突き立とうとする、巨大な槍そのものだった。
艦橋内の不思議な力場のおかげで、私は転がり落ちることこそなかったものの、今にも身体が宙へ放り出されそうな感覚に襲われ、必死に座席にしがみついていた。
そして、視界の先、ヴァルディラの艦首が、その形状を変えていくのが見えた。
艦首の装甲が幾重にもひび割れ、内側から未知の構造体が、不気味なほど滑らかに展開されていく。
いや、艦首だけではなかった。
見れば艦の側面も艦尾も変形し、内部から何かが現れようとしていた。
艦全体が姿を変じて、新たな形へ再構成されようとしている。
私がこの艦に抱き続けてきた「すべてが見せかけの嘘」という違和感。
いま、ヴァルディラはその偽装をかなぐり捨てようとしていた。
狂気のような真の姿が、いままさに産声を上げようとしている。
ひとつだけ私にわかったのは、ヴァルディラは……この艦は……あの幽霊艦隊を狩ろうとしているのだ……。
正面の投影画像に、赤く輝く複雑な光の線が浮かび上がった。
これは……照準だ……。
その先には幽霊艦隊の巨大旗艦。
見ると、ヴァルディラの艦体には今や雷のようなスパークが無数に走り、艦首付近は目も眩むほどの青白く禍々しい光を放ち始めていた。
艦全体から轟音が鳴り響き、その音は次第に高まっていく。
大気が超高温で焼き焦がされるような匂いが、密閉された艦橋の中にまで漂ってくるかのようだ。
ヴァルディラは……あれを……艦首の砲を撃とうとしているのか……?
いや、違う。艦首に砲があるのではない。この艦体そのものが砲なのだ。
『アリス様!』
僚艦からの悲痛な呼びかけで、私は弾かれたように我に返った。無線はまだ、繋がっている。
「ヴァルディラ! 待って! まだ撃たないで! あそこには味方のみんながいるの!」
艦橋内で私は叫んだ。
「全艦へ! ヴァルディラがこれより敵旗艦を直上から砲撃する! 戦域から全速で離れて! みんな、早く逃げてえええ!」
喉がちぎれんばかりに、私は絶叫した。
視界の中で、幽霊艦隊の巨大旗艦を捉えた照準が真っ赤に輝いていた。
そして、手元の黒い操艦コンソールでは、光の線が脈打つように明滅を繰り返し、それに呼応するかのように警告音らしき音が鳴り響く。明滅は徐々に速まり、警告音もまた、次第に間隔を狭めていく。
まるで、私が砲撃の号令を下す瞬間を待ちわびる、狂暴な獣のように。




