第4話 神を信じない男
その男は、祈らなかった。
神殿に入ってきた瞬間から、それが分かった。歩き方が違う。視線の向け方が違う。ここに来る多くの人間が、無意識のうちにこちらを意識するのに対し、彼はまず床を見た。
ひび割れの位置。
壁の染み。
天井の欠け。
まるで、建物そのものを点検するかのように。
「……思ったより、崩れてないな」
独り言のようにそう言い、彼は手帳を取り出した。年の頃は三十代半ば。派手さのない服装だが、身のこなしに無駄がない。役人――そういう匂いがした。
ミレイが慌てて近づく。
「あ、あの……今日は何のご用件でしょうか」
男は一度だけこちらを見上げ、それからミレイに視線を戻した。
「定期の確認だよ。神殿の維持費、今年分の申請が出てるだろ」
その言い方には、畏れも敬意も含まれていなかった。あるのは、事務的な確認だけだ。
男は神殿の中央に立ち、俺を見上げた。
視線が合う。
――気がした。
祈らないくせに、観察はする。
その視線は、どこか落ち着いていた。感情を乗せず、期待もせず、ただ「そこにあるもの」として俺を見ている。
「……」
男は、しばらく黙っていた。ミレイが不安そうに様子をうかがう。
「えっと……こちらが、この神殿の御神体で……」
「知ってる」
遮るように言って、男は手帳に何かを書き込んだ。
「石像の損耗、軽微。台座も問題なし。清掃は……まあ、最低限はされてる」
その「最低限」という言い方に、ミレイが少し肩をすくめる。
男は名乗った。
「ロウ・ディナ。地方監査担当だ」
監査。
その言葉が、俺の中で静かに反響した。
ロウは、もう一度俺を見た。
「……で。最近、ここで何かあったか?」
ミレイは少し迷ってから、答える。
「いえ……大きなことは……ただ、その……」
言葉を探す間、彼女はちらりと俺を見上げた。
「……なんとなく、守られている感じがして」
ロウは、眉をわずかに動かした。
「感じ、ね」
否定もしない。肯定もしない。ただ、手帳に一行、何かを書き足す。
その態度が、不思議と印象に残った。
信じていない。
だが、切り捨てもしていない。
「俺はな」
ロウは言った。
「神は信じてない」
ミレイが、息を呑む。
だが、ロウは淡々と続けた。
「信じてないが……結果は見る。ここ、事故が減ってるだろ」
その言葉に、俺は一瞬、意識を集中させた。
事故。
確かに、最近は危うい祈りが少なかった。棚が倒れなかった件も、誰も怪我をしていない。
ロウは神殿の外を指さした。
「風向きが変わった。人の通りも、微妙にずれてる。偶然と言えば偶然だが……」
彼は、こちらを見上げる。
「偶然が、続きすぎてる」
その瞬間、胸の奥が、ひやりとした。
――この男は、分かっている。
神の力だと断定しているわけではない。だが、「何かが働いている」ことを、感情抜きで把握している。
ロウは、ため息をついた。
「信仰ってのは、だいたいノイズだ。余計な意味を足す」
ミレイを一瞥する。
「君が悪いって話じゃない。ただ、信じすぎると、見えなくなる」
ミレイは、何も言い返せなかった。
ロウは手帳を閉じ、立ち去る前に一言だけ残した。
「……ここは、今のところ“問題なし”だ」
その言葉は、俺にとって、奇妙な安心を伴っていた。
問題なし。
だが、それは「何も起きていない」という意味ではない。
正確に見られている。
それだけで、世界は少し違って見えた。
ロウが去り、神殿に静けさが戻る。
ミレイは、小さく呟いた。
「……信じてない人の方が、ちゃんと見てますね」
俺は答えられない。
だが、はっきりと理解した。
この男は、味方でも信者でもない。
だが――危険な誤解をしない人間だ。
そして、それこそが。
今の俺にとって、最も信頼できる存在なのかもしれなかった。
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