第3話 奇跡は、意図せず起こる
変化は、劇的な形では訪れなかった。
雷が落ちたわけでも、光が溢れたわけでもない。神殿の空気はいつも通りで、風は静かに吹き抜け、石畳には新しいひび一つ増えていない。
それでも、確かに「何か」が起きた。
ミレイが掃除を始めてから、しばらく経った頃のことだ。彼女は箒を動かしながら、何度もこちらをちらりと見上げていた。何かを期待しているわけではない。ただ、確かめるように。
俺は、相変わらず動けない。
だが、思考だけは止まらなかった。
――できることがあるとすれば、何だ?
声は出ない。
夢は歪む。
拒否も訂正もできない。
だとすれば、残っているのは――状況そのものに影響を与えることだけだ。
意識を集中させる、という感覚も曖昧だった。ただ、「こうなってほしい」と思う。強くではなく、慎重に。まるで水面に触れるように。
神殿の隅に、古い棚がある。長い間使われていなかったらしく、少し傾いている。俺は、ただ思った。
――倒れないでくれ。
次の瞬間、突風が吹いた。
神殿の外を抜けてきた風が、棚の横を通り過ぎる。その拍子に、床に落ちていた木片が転がり、棚の下に滑り込んだ。
棚は、倒れなかった。
……それだけだ。
誰かが見れば、偶然だと言うだろう。実際、そうとしか説明できない。だが、俺の内側では、確かな感触が残っていた。
今のは、俺の意思だ。
直接動かしたわけではない。
世界の流れを、ほんの少しだけ傾けただけだ。
それに気づいたとき、不思議と高揚はなかった。代わりに、慎重さが芽生えた。
――これは、使い方を間違えると危険だ。
俺が考えている間にも、ミレイは掃除を終え、棚の前に立っていた。
「あ……」
彼女は、棚の下に挟まった木片に気づき、しゃがみ込んだ。
「これがなかったら、倒れてましたね……」
そう言って、こちらを見上げる。
「ありがとうございます」
礼を言われるとは思っていなかった。
いや、正確には、礼を言われるほどのことはしていない。世界の流れを、ほんの一瞬、指でなぞっただけだ。
それでも、ミレイは深く頭を下げた。
その瞬間、胸の奥に、かすかな温度が生まれた。
――これが、神としての手応えなのだろうか。
だが、その感覚はすぐに別の思考に押し流される。
もし、もっと大きなことを願ったら?
もし、誰かが強く祈ったら?
俺は、それを制御できるのか。
答えは、分からない。
ただ一つ分かるのは、奇跡は意図した通りには起きないということだ。結果は似ていても、過程は必ず歪む。
ミレイは神殿を出ていく前、もう一度こちらを振り返った。
「……今日は、なんだか安心しました」
理由を聞きたかったが、できない。
彼女が去り、静寂が戻る。
俺は考える。
奇跡とは何か。
神の力とは何か。
少なくとも、この世界では。
奇跡は、証明できない形でしか存在できない。
そして、それこそが――
この力が、管理され、測定され、危険視される理由なのだろう。
石の身体のまま、俺は初めて、自分が「神である」ことを、少しだけ実感していた。
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