終章 ふたたび、雨の街で
それから、いくつもの季節が過ぎた。
僕はこの街の片隅で、
小さな古本屋を営んでいる。
客は少ないが、
静かな時間が流れていくのが好きだった。
棚の上には、あの銀の鍵。
そして、扉の下には、
ときどき一匹の黒猫が眠っている。
彼女と出会った教会は、もう跡形もない。
けれど、右目の奥には今でも、
あの光が静かに脈を打っている。
◇
ある雨の昼下がり。
ガラス越しに、水滴が音を立てて滑り落ちる。
ページをめくる手を止めると、
店の扉が、カランと鳴った。
入ってきたのは、
黒い傘をさした若い女性だった。
「すみません、本を探してて……」
声を聞いた瞬間、
胸の奥がわずかに震えた。
黒髪の先から、雨の雫が落ちる。
彼女は傘をたたみながら、
少しだけ微笑んだ。
「雨の匂い、好きなんです。」
その言葉に、
僕は息を呑んだ。
――同じ言葉を、昔、誰かが言った。
「……僕も。」
思わず口に出していた。
彼女は嬉しそうに目を細める。
その瞳の奥に、淡い金の光が揺れた気がした。
◇
会話のあいだ、
黒猫が足もとをすり抜けた。
「この子、ここによく来るんですか?」
「ええ。いつの間にか住みついてね。」
「不思議。さっき外でも見たのに。」
彼女が膝をついて猫に手を伸ばす。
黒猫は、まるで懐かしい人に触れられるのを待っていたかのように、
彼女の掌に頬をすり寄せた。
「……この子、名前は?」
「まだないんです。」
「じゃあ、わたしがつけていい?」
「どうぞ。」
彼女は少し考え、微笑んで言った。
「“ミア”ってどう?」
世界が一瞬、静止した。
その名前が、雨の音の中で響いたとき――
右目の奥が、やわらかく光った。
彼女は何も知らないように笑っていた。
けれどその笑みの端に、どこか見覚えのある影があった。
◇
その日、彼女は小さな詩集を一冊買っていった。
レジでお釣りを渡すとき、
指先が触れた。
冷たく、そして少しあたたかい。
「また来てもいい?」
「もちろん。」
扉の外に出た彼女が振り返り、
言った。
「今度は晴れの日に。」
そして、雨の中へと消えていった。
黒猫が小さく鳴き、
彼女のあとを追うように走っていく。
◇
静かな店内。
窓を伝う雨粒が、虹のように光る。
僕は棚の上の鍵を見上げた。
――あの光は、まだここにある。
右目を閉じると、
遠くで微かな声がした。
「罪は罰じゃないよ。
抱いて、生きてね。」
そして、
今はもう知らない声が重なった。
「また、晴れの日に。」
右目を開けると、
外の雨が、少しだけやんでいた。
空の向こうに、
新しい青が透けて見えた。
僕は小さく笑い、
黒猫の頭を撫でた。
「……やっと、帰ってきたね。」
黒猫は静かに目を細め、
その瞳に僕の姿を映した。
それは、
赦された者の目だった。
そして世界は、
もう一度、光を取り戻していた。




