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未定  作者: 北西みなみ
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終章 ふたたび、雨の街で

それから、いくつもの季節が過ぎた。


僕はこの街の片隅で、

小さな古本屋を営んでいる。

客は少ないが、

静かな時間が流れていくのが好きだった。


棚の上には、あの銀の鍵。

そして、扉の下には、

ときどき一匹の黒猫が眠っている。


彼女と出会った教会は、もう跡形もない。

けれど、右目の奥には今でも、

あの光が静かに脈を打っている。



ある雨の昼下がり。

ガラス越しに、水滴が音を立てて滑り落ちる。

ページをめくる手を止めると、

店の扉が、カランと鳴った。


入ってきたのは、

黒い傘をさした若い女性だった。


「すみません、本を探してて……」


声を聞いた瞬間、

胸の奥がわずかに震えた。


黒髪の先から、雨の雫が落ちる。

彼女は傘をたたみながら、

少しだけ微笑んだ。


「雨の匂い、好きなんです。」


その言葉に、

僕は息を呑んだ。

――同じ言葉を、昔、誰かが言った。


「……僕も。」

思わず口に出していた。


彼女は嬉しそうに目を細める。

その瞳の奥に、淡い金の光が揺れた気がした。



会話のあいだ、

黒猫が足もとをすり抜けた。


「この子、ここによく来るんですか?」

「ええ。いつの間にか住みついてね。」

「不思議。さっき外でも見たのに。」


彼女が膝をついて猫に手を伸ばす。

黒猫は、まるで懐かしい人に触れられるのを待っていたかのように、

彼女の掌に頬をすり寄せた。


「……この子、名前は?」

「まだないんです。」

「じゃあ、わたしがつけていい?」

「どうぞ。」


彼女は少し考え、微笑んで言った。


「“ミア”ってどう?」


世界が一瞬、静止した。


その名前が、雨の音の中で響いたとき――

右目の奥が、やわらかく光った。


彼女は何も知らないように笑っていた。

けれどその笑みの端に、どこか見覚えのある影があった。



その日、彼女は小さな詩集を一冊買っていった。

レジでお釣りを渡すとき、

指先が触れた。

冷たく、そして少しあたたかい。


「また来てもいい?」

「もちろん。」


扉の外に出た彼女が振り返り、

言った。


「今度は晴れの日に。」


そして、雨の中へと消えていった。

黒猫が小さく鳴き、

彼女のあとを追うように走っていく。



静かな店内。

窓を伝う雨粒が、虹のように光る。

僕は棚の上の鍵を見上げた。


――あの光は、まだここにある。


右目を閉じると、

遠くで微かな声がした。


「罪は罰じゃないよ。

抱いて、生きてね。」


そして、

今はもう知らない声が重なった。


「また、晴れの日に。」


右目を開けると、

外の雨が、少しだけやんでいた。

空の向こうに、

新しい青が透けて見えた。


僕は小さく笑い、

黒猫の頭を撫でた。


「……やっと、帰ってきたね。」


黒猫は静かに目を細め、

その瞳に僕の姿を映した。


それは、

赦された者の目だった。


そして世界は、

もう一度、光を取り戻していた。

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