表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未定  作者: 北西みなみ
4/7

第3章 呼吸の街で君を見た

目を開けると、

天井の白が、ゆっくりと色を取り戻していた。


雨は止んでいた。

けれど、世界のどこかでまだ雨の匂いがした。

まるで記憶が空気の中に染みついて、

ゆっくりと呼吸しているようだった。


僕は机の上の鍵を見た。

もう冷たくない。

ただの金属のはずなのに、

掌の熱を覚えている気がした。


あの夜の夢――いや、記憶。

少女の声。

「罪は罰じゃない。抱いて生きなさい」

その言葉が、右目の奥で小さく鳴っていた。


鏡を見る。

右目にはまだ薄い痕が残っていた。

だけど、そこに確かに光があった。

痛みではなく、

微かなぬくもりのような光。



外へ出ると、街が新しくなっていた。

いや、何も変わっていない。

ただ、僕の見る世界が少し違って見えただけだ。


道端の水たまりに、

青い空が映っている。

その中を、一匹の黒猫が通り過ぎた。


心臓が一度だけ強く鳴った。


でも、あの猫ではない。

あの夜の彼女のような気配はなかった。

それでも、

僕は思わずその後ろ姿を目で追ってしまう。



昼過ぎ、

古い喫茶店の扉を開けた。

コーヒーと煙草の匂い。

窓際の席に座ると、

カップに注がれた音が妙に心地よかった。


そのとき、

向かいの席に声がした。


「……その目、きれいね。」


顔を上げると、

黒髪の女性が座っていた。

年は僕より少し若く

顔立ちは整っていた。

どこか懐かしい表情をしている。

彼女の指先には、

細い銀のリングが光っていた。


「あなた、雨の中でよく見かけてたの。

 あの廃ビルの前で。」


「……見てたのか。」

「うん。怖い場所なのに、いつも誰かを待ってるみたいだったから。」


言葉が喉の奥で止まった。

彼女の声が、どこかで重なる。

雨の夜の少女の声と。


右目の奥で、光がわずかに揺れた。


彼女が微笑んだ。

「あなた、前より優しい顔してる。」

「そう見える?」

「ええ。

 でも、少しだけ悲しい目もしてる。」


カップの中のコーヒーが、

ゆっくりと揺れていた。

その波紋に映る彼女の姿が、

ほんの一瞬、猫の影と重なった。


胸の奥が熱くなる。

過去が疼くのではない。

それは、

“生きている”という痛みだった。



外に出ると、風が吹いた。

街の色が淡く滲む。

遠くで、子どもが笑っている。

ビルの隙間に、

小さな黒い影が消えた。


僕は思った。

たぶんもう、

彼女は夢の中の存在ではない。


右目に残る光は、

もう罪の残滓ではなく、

“世界をもう一度信じるための灯”なのだ。


そして、

あの喫茶店の女性の声が

まだ胸の奥に残っていた。


――あなた、前より優しい顔してる。


その言葉に、

僕はようやく自分の呼吸を感じた。


空を仰ぐ。

雨のない空が、どこまでも深く透きとおっていた。

その青の向こうで、

確かに誰かが微笑んでいる気がした。


罪を赦すことは、

誰かを忘れることじゃない。

もう一度、同じ世界を愛せるようになることだ。


右目の奥で、

彼女の声が、静かに鳴っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ