第3章 呼吸の街で君を見た
目を開けると、
天井の白が、ゆっくりと色を取り戻していた。
雨は止んでいた。
けれど、世界のどこかでまだ雨の匂いがした。
まるで記憶が空気の中に染みついて、
ゆっくりと呼吸しているようだった。
僕は机の上の鍵を見た。
もう冷たくない。
ただの金属のはずなのに、
掌の熱を覚えている気がした。
あの夜の夢――いや、記憶。
少女の声。
「罪は罰じゃない。抱いて生きなさい」
その言葉が、右目の奥で小さく鳴っていた。
鏡を見る。
右目にはまだ薄い痕が残っていた。
だけど、そこに確かに光があった。
痛みではなく、
微かなぬくもりのような光。
◇
外へ出ると、街が新しくなっていた。
いや、何も変わっていない。
ただ、僕の見る世界が少し違って見えただけだ。
道端の水たまりに、
青い空が映っている。
その中を、一匹の黒猫が通り過ぎた。
心臓が一度だけ強く鳴った。
でも、あの猫ではない。
あの夜の彼女のような気配はなかった。
それでも、
僕は思わずその後ろ姿を目で追ってしまう。
◇
昼過ぎ、
古い喫茶店の扉を開けた。
コーヒーと煙草の匂い。
窓際の席に座ると、
カップに注がれた音が妙に心地よかった。
そのとき、
向かいの席に声がした。
「……その目、きれいね。」
顔を上げると、
黒髪の女性が座っていた。
年は僕より少し若く
顔立ちは整っていた。
どこか懐かしい表情をしている。
彼女の指先には、
細い銀のリングが光っていた。
「あなた、雨の中でよく見かけてたの。
あの廃ビルの前で。」
「……見てたのか。」
「うん。怖い場所なのに、いつも誰かを待ってるみたいだったから。」
言葉が喉の奥で止まった。
彼女の声が、どこかで重なる。
雨の夜の少女の声と。
右目の奥で、光がわずかに揺れた。
彼女が微笑んだ。
「あなた、前より優しい顔してる。」
「そう見える?」
「ええ。
でも、少しだけ悲しい目もしてる。」
カップの中のコーヒーが、
ゆっくりと揺れていた。
その波紋に映る彼女の姿が、
ほんの一瞬、猫の影と重なった。
胸の奥が熱くなる。
過去が疼くのではない。
それは、
“生きている”という痛みだった。
◇
外に出ると、風が吹いた。
街の色が淡く滲む。
遠くで、子どもが笑っている。
ビルの隙間に、
小さな黒い影が消えた。
僕は思った。
たぶんもう、
彼女は夢の中の存在ではない。
右目に残る光は、
もう罪の残滓ではなく、
“世界をもう一度信じるための灯”なのだ。
そして、
あの喫茶店の女性の声が
まだ胸の奥に残っていた。
――あなた、前より優しい顔してる。
その言葉に、
僕はようやく自分の呼吸を感じた。
空を仰ぐ。
雨のない空が、どこまでも深く透きとおっていた。
その青の向こうで、
確かに誰かが微笑んでいる気がした。
罪を赦すことは、
誰かを忘れることじゃない。
もう一度、同じ世界を愛せるようになることだ。
右目の奥で、
彼女の声が、静かに鳴っていた。




