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未定  作者: 北西みなみ
3/7

第2章 鍵の眠る部屋


朝になっても、雨は止まなかった。

夜よりも静かな雨。

世界の音を包み込み、

まるで、まだ誰かを眠らせているようだった。


僕はあの廃ビルを出て、

無意識のうちに自分の部屋へ戻っていた。

右の掌に、銀の鍵がある。

細く、冷たい。

触れているだけで、胸の奥が疼く。


机の上には、使われなくなった箱があった。

古びた木の箱。

誰が置いたのか、いつからあるのか、思い出せない。

ただ――

その形が、鍵の形に似ていた。


鍵を差し込むと、

音もなく箱が開いた。

中には、一枚の古い写真が入っていた。


雨の街角。

そこに立つのは、僕と――あの少女だった。


少女の顔は、ぼやけている。

だが、片手に黒い猫を抱いていた。

猫の瞳が、写真の中でだけ光っていた。


次の瞬間、

部屋の空気が一変した。


世界が、反転する。


壁が溶け、床が波打ち、

僕の身体がゆっくりと沈んでいく。

どこまでも、雨の音がついてきた。



目を開けると、

そこは雨の降らない街だった。


灰色の空。

人の姿はなく、風も止まっている。

音のない世界。


けれど、足もとだけが濡れていた。

見下ろすと、水たまりの中に――僕がいた。

もうひとりの“僕”が。


その“僕”は右目を失っていなかった。

完全な顔。

穏やかな笑み。

けれど、その瞳の奥に、

あの夜の血の色が宿っていた。


「やっと来たんだね。」


声がした。

振り向くと、少女がいた。

白い服に、濡れた髪。

あの夜と同じ姿。


「君は……」

言いかけると、彼女は微笑んだ。


「まだ名前は呼ばなくていい。

 あなたがそれを思い出すまで、私は“影”でいる。」


彼女の足元に、黒猫がいた。

その尾が、僕の靴に触れた。

冷たくもなく、熱くもなく――

ただ、生きていた。


「これは、あなたの心の底にある街。

 罪が降り、記憶が濡れる場所。」

「……なぜ、僕をここに?」

「もう一度、見るためよ。

 あなたが“見なかった”夜を。」

彼女が指を鳴らす。

世界が波紋のように揺れる。

そして、景色が変わった。



暗い部屋。

床に血。

壁に、壊れた鏡。


そこに、僕がいた。

若い僕。

そして、その傍らに――少女が倒れていた。


「やめろ……」

僕は思わず口にした。

「これは違う、俺は……」

「違わない。」

彼女の声が、真横から聞こえた。

「あなたはあの夜、確かに“見てしまった”の。

 自分の中の獣を。

 そして、恐れて目を閉じた。」


右目の奥が熱い。

もう一度、あの感覚が戻ってくる。


――息を呑む。

あの夜、彼女が僕を見上げたときの光。

その瞳には、恐怖ではなく、

悲しみでもなく、ただひとつ――

“赦し”があった。


彼女は血の中で、僕の手を掴んだ。

そして、言った。


「この目を閉じて。

 代わりに、私が見てあげる。」


その瞬間、世界が暗転した。

光が右目を覆い、

彼女の姿が消えた。



今、彼女は僕の前に立っていた。

あのときのまま。

黒猫が彼女の足元で丸くなっている。


「覚えてしまったね。」

「……僕は君を……」

「殺してはいない。」

少女は首を振る。

「私は“あなたの罪”の形を借りて、

 ここに残っていただけ。」


「罪は、死ななかったのね。」

「ええ。」

「じゃあ、君も?」

少女は微笑んだ。

「罪が消えない限り、私はここにいる。

 でも――それは罰じゃない。」


彼女が歩み寄り、

僕の右目に触れた。


「あなたが誰かを赦せるようになるまで、

 私はこの目の奥に、光として生きる。」

指先が温かかった。

光が、右目に滲む。

失ったはずの視界が、ゆっくりと開いていく。


灰色の世界が、色を取り戻していく。

青、金、朱――

雨上がりのような淡い光。


黒猫が鳴いた。

その声は、懐かしい名前のように聞こえた。


少女は微笑んで、

その姿を霧に変えた。


残ったのは、

ひとつの小さな光の粒。


それは、僕の右目の奥で

静かに、灯り続けた。


――罪は終わらない。

 けれど、それを抱いたまま歩けるなら、

 それはもう、罰ではない。


雨のない街に、

風が吹いた。


そして、彼女の声が遠くで囁いた。


「見えたでしょう? あなたの世界が、ようやく。」

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