第2章 鍵の眠る部屋
朝になっても、雨は止まなかった。
夜よりも静かな雨。
世界の音を包み込み、
まるで、まだ誰かを眠らせているようだった。
僕はあの廃ビルを出て、
無意識のうちに自分の部屋へ戻っていた。
右の掌に、銀の鍵がある。
細く、冷たい。
触れているだけで、胸の奥が疼く。
机の上には、使われなくなった箱があった。
古びた木の箱。
誰が置いたのか、いつからあるのか、思い出せない。
ただ――
その形が、鍵の形に似ていた。
鍵を差し込むと、
音もなく箱が開いた。
中には、一枚の古い写真が入っていた。
雨の街角。
そこに立つのは、僕と――あの少女だった。
少女の顔は、ぼやけている。
だが、片手に黒い猫を抱いていた。
猫の瞳が、写真の中でだけ光っていた。
次の瞬間、
部屋の空気が一変した。
世界が、反転する。
壁が溶け、床が波打ち、
僕の身体がゆっくりと沈んでいく。
どこまでも、雨の音がついてきた。
◇
目を開けると、
そこは雨の降らない街だった。
灰色の空。
人の姿はなく、風も止まっている。
音のない世界。
けれど、足もとだけが濡れていた。
見下ろすと、水たまりの中に――僕がいた。
もうひとりの“僕”が。
その“僕”は右目を失っていなかった。
完全な顔。
穏やかな笑み。
けれど、その瞳の奥に、
あの夜の血の色が宿っていた。
「やっと来たんだね。」
声がした。
振り向くと、少女がいた。
白い服に、濡れた髪。
あの夜と同じ姿。
「君は……」
言いかけると、彼女は微笑んだ。
「まだ名前は呼ばなくていい。
あなたがそれを思い出すまで、私は“影”でいる。」
彼女の足元に、黒猫がいた。
その尾が、僕の靴に触れた。
冷たくもなく、熱くもなく――
ただ、生きていた。
「これは、あなたの心の底にある街。
罪が降り、記憶が濡れる場所。」
「……なぜ、僕をここに?」
「もう一度、見るためよ。
あなたが“見なかった”夜を。」
彼女が指を鳴らす。
世界が波紋のように揺れる。
そして、景色が変わった。
◇
暗い部屋。
床に血。
壁に、壊れた鏡。
そこに、僕がいた。
若い僕。
そして、その傍らに――少女が倒れていた。
「やめろ……」
僕は思わず口にした。
「これは違う、俺は……」
「違わない。」
彼女の声が、真横から聞こえた。
「あなたはあの夜、確かに“見てしまった”の。
自分の中の獣を。
そして、恐れて目を閉じた。」
右目の奥が熱い。
もう一度、あの感覚が戻ってくる。
――息を呑む。
あの夜、彼女が僕を見上げたときの光。
その瞳には、恐怖ではなく、
悲しみでもなく、ただひとつ――
“赦し”があった。
彼女は血の中で、僕の手を掴んだ。
そして、言った。
「この目を閉じて。
代わりに、私が見てあげる。」
その瞬間、世界が暗転した。
光が右目を覆い、
彼女の姿が消えた。
◇
今、彼女は僕の前に立っていた。
あのときのまま。
黒猫が彼女の足元で丸くなっている。
「覚えてしまったね。」
「……僕は君を……」
「殺してはいない。」
少女は首を振る。
「私は“あなたの罪”の形を借りて、
ここに残っていただけ。」
「罪は、死ななかったのね。」
「ええ。」
「じゃあ、君も?」
少女は微笑んだ。
「罪が消えない限り、私はここにいる。
でも――それは罰じゃない。」
彼女が歩み寄り、
僕の右目に触れた。
「あなたが誰かを赦せるようになるまで、
私はこの目の奥に、光として生きる。」
指先が温かかった。
光が、右目に滲む。
失ったはずの視界が、ゆっくりと開いていく。
灰色の世界が、色を取り戻していく。
青、金、朱――
雨上がりのような淡い光。
黒猫が鳴いた。
その声は、懐かしい名前のように聞こえた。
少女は微笑んで、
その姿を霧に変えた。
残ったのは、
ひとつの小さな光の粒。
それは、僕の右目の奥で
静かに、灯り続けた。
――罪は終わらない。
けれど、それを抱いたまま歩けるなら、
それはもう、罰ではない。
雨のない街に、
風が吹いた。
そして、彼女の声が遠くで囁いた。
「見えたでしょう? あなたの世界が、ようやく。」




