第1章 雨の街で君を見た
その夜の雨は、まるで記憶の形をしていた。
ひと粒、またひと粒、
世界を静かに溶かしていく。
僕の右目から、光が流れ落ちたのは一瞬のことだった。
痛みはなかった。
ただ、世界の半分が、息をひそめたように静まった。
目の前に、少女がいた。
白い傘もささず、
濡れた墨のような黒髪の先から雨が滴り落ちている。
夜の灯りがその瞳をすくい、
金色の奥に淡い炎の影を灯していた。
その指先――
小さな掌のなかに、僕の“片目”があった。
まるで透明な雫を掬うように、
彼女はそれをそっと抱いていた。
「……返してくれ。」
声を出そうとした瞬間、
喉の奥に言葉が凍りついた。
少女はゆっくりと微笑んだ。
その笑みは悲しみとも、赦しともつかぬ光を帯びていた。
「これは、あなたの“見えないほうの目”。
ずっと閉じていたから、
少しだけ、借りるね。」
雨の音が遠のく。
その瞬間、彼女の輪郭がほどけた。
白い腕が煙のように薄れ、
肌が黒い絹に変わっていく。
指が爪に、髪が尾に、
声が小さな息へと変わった。
そこに残ったのは、一匹の黒猫。
濡れた路地に足音も立てず、
僕を見上げていた。
その瞳は、確かに彼女のものだった。
光を宿し、何かを言おうとしているようで――
けれど、言葉は風に飲まれて消えた。
僕はただ立ち尽くした。
片目だけの世界は、
思ったよりも、やわらかく、そして寂しかった。
猫は一度だけ、振り返った。
その細い背に、雨の粒が幾筋も流れていく。
まるで夜の中を、記憶が歩いているようだった。
気づけば、僕は傘を手放していた。
黒猫の影を追って、
濡れた路地へと足を踏み入れる。
見えない方の目が疼いた。
そこに――
まだ名を知らぬ光が、微かに瞬いていた。




