吸血鬼に血を吸われたら肩こりが治った件
目が覚めると、端正なおじさんが私の顔を覗きこんでいた。一見相反する単語のよう思われるが、そう表現するしかない。
色素の薄い灰色の目、高い鼻梁、日本人離れした容姿である。髪も灰色がかっているが、歳のせいなのか元々の色なのかよくわからない。
そして薄い唇のあいだから牙が覗いていた。およそ人間のものとは思えない、鋭くて長い牙が。
びっくりして飛び起きると、おじさんは、
「あ、起きた」
と、言った。
「あ、あ、あの、どちら様ですか!? というか、ここはどこ!?」
「あー、気絶する前のこと、覚えてない感じかな? ここは僕のうち。あなたは僕の家の前で倒れてました」
「えっ?」
あたりを見回す。薄暗い部屋だ。私はソファに寝かされていたらしい。やたら高そうな革張りのソファである。よく見れば、部屋に置いてある調度品も高そうなものばかりだ。
しかしこの部屋は、なぜこんなに暗いんだろう? 答えはすぐにわかった。燭台に蝋燭が灯っていたのだ。え? まさか光源これだけ? この家、変だ。
私の表情から考えを読んだのか、おじさんは困ったように笑った。
「ごめんね。事情があって、顔をはっきり見られるのはまずいんだ」
こいつ、犯罪者か?
「ご迷惑おかけしてすみませんでした。帰りますっ」
怖くなって逃げだそうとしたけど、上手く立ちあがれなかった。酷い目眩がして、私は再びソファに尻をついた。
「も、もしかして……薬を盛られた……?」
くらくらする頭を押さえながら呟くと、
「ええー!? 違うよ! 冤罪冤罪! おじさんはなにもしてないよ!?」
おじさんは顔の前で片手を振りながら後退りする。
「よく思い出して? あなた、相当具合いが悪そうでしたよ。僕が家を出たとき、ちょうどあなたがうちの門に寄りかかって座りこんでたんです。
慌てて駆け寄って「どうしました?」って訊いたら、「肩痛ぇ……っ」と呟くや否や気絶してしまったんですよ」
「そういえば……?」
うっすらと記憶がある。
私、12日間連続の残業&休日出勤で、へとへとだったんだっけ。今日も今日とて終電だった。駅から家までは長い上り坂を上らなければいけない。タクシーも捕まらない。
それでもなんとか、家の前まで着いたはずなのに。
「もしかして、通りを一本間違えたんじゃないかな?」
「え、そんなはず……」
「ここは坂の上町◯丁目1ー2番地ですけど」
「あ、あれ? じゃあ、本当に?」
それは確かに、家のある通りのひとつ向こうの番地だった。
私が間違えたのだ。いくら疲れていたとはえ、あたりが暗くてよく見えなかったとはいえ、まさかこんな間抜けな間違いを犯すとは。
「すみませんすみません! 介抱してくださった上に失礼なことを!」
しかし平謝りしながら、もうひとつ記憶が蘇える。
うちの一本向こうの、坂の上の家。それって、この街で有名な幽霊屋敷のことじゃないか?
やたら豪勢な邸宅だが、誰が住んでいるのか誰も知らない。
たまにお手伝いらしき老婆が買い物に出てくるが、ずいぶんと不気味な雰囲気で、彼女を目撃した日は悪いことが起こるとかいう噂まである。
じゃあ、このおじさんが幽霊屋敷の主なのか?
「もう大丈夫そうだね。元気になったなら、帰っていただいていいんですけど。ただひとつだけ問題がありまして……」
「な、なんですか?」
「申し訳ないんだけど、ちょっと血を吸わせてもらえないかな……?」
今時まさかの吸血鬼!
※
「いや、僕も近所の人にこんなことお願いしたくないんだけどね……」
クッションを盾にして戦闘態勢に入った私を、おじさんは困り顔で見つめる。両手の指を胸の前でいじいじモチョモチョと動かしながら。
なんだ? 可愛いアピールか? 可愛い吸血鬼ごっこの変態クソ野郎か?
「君を無傷で帰してあげたいのは山々なんだけど。僕としても、若い女性を襲うなんてあまりにもテンプレだし、最近はコンプラ的にも問題ありすぎだから。
できれば同性の御老人とかの方がいいんだけどさ。あ、僕に老人なんて言われたくないと思うんだけど、今の御老人も。ふふ……」
一人でくっちゃべって一人でウケている。
しかも声がぼそぼそして小さい。しっかり耳をすませていないと聞き逃してしまいそうだ。一人上手な妄想オタクか?
「でも、いま血をもらわないと、僕は飢えて死んでしまう。背に腹はかえられぬのです、お嬢さん」
「嫌です!」
言うなり、私はクッションをおじさんに投げつけた。おじさんは「あ……っ」と小さく叫んでよろめく。弱い。
その隙に、私は部屋の扉へと走った。ノブを掴もうと手を伸ばす。
と、少しだけ開いていた隙間から、目が覗いていた。
「ヒィ……ッ!」
思わず、悲鳴をあげて飛び退く。
途端、目眩が再発して、私はその場にへなへなとしゃがみこんでしまった。
「帰ることは許しませんぞ。坊ちゃんに血を分け与えるまでは」
扉を開けて入ってきたのは、ホラー映画に出てきそうな恐ろしげな老婆だった。
白髪を振り乱し、半分潰れた目で私を薮睨みしている。
もしやこれが噂の、見ると悪いことが起きる老婆か……!
「ばあや。ダメダメ、怖がらせちゃ」
後ろで、のほほんとおじさんが言った。
「でも坊ちゃん。この方の血を吸わないと、本当に坊ちゃんの体が灰になってしまいます。だいたい坊ちゃんが日頃から真面目に獲物を探さないから!」
「まあまあ。お説教はまたの機会に。それより、お嬢さん大丈夫ですか? また具合が悪くなっちゃった? って、当然か。血を吸わせてくれなんて言われたら、ね」
ふふふ……と、また一人でウケてるおじさんをよそに、私の目眩はどんどん酷くなっていく。なんなら頭も痛い。割れるようだ。
そういえばこの一週間、ずっとこんな体調だったのだ。
そこに恐怖と混乱と生命の危機が一気に押し寄せてきて、私の精神は限界を迎えた。
「う……うぇ……」
「え?」
「……が、痛い……」
「どこが痛いんです!?」
「肩が……肩が凝ってめちゃくちゃ痛いぃぃっ! うわあーんっ!!」
泣き崩れる私を、おじさんと老婆はぽかんと見下ろしていた。
※
「つまり、肩が凝って頭痛も併発していると」
「はい……」
「その頭痛が極まって常時めまい、酷くなると吐き気まで催すと」
「はい……」
「重症ですね」
なぜ私は、吸血鬼の問診を受けているのだろう?
「なんでそこまで肩こり放置しちゃったの? え? 決算? 残業で帰れない? そんなブラック企業辞めちゃいなさい! 肩こりを舐めちゃいけないよ? あなた、全身の血流が無茶苦茶悪くなってるんですよ。万病のもとだよ、それ」
そんなこと言ったって、働かなきゃ食べていけない。
たまの休みにマッサージに行こうと思っても、疲れすぎて動けない。
平日はボロ雑巾のようにこき使われて、休日はぶっ倒れたまま終わる。
もうなんのために生きてるのかわかんない……というようなことを、涙ながらに語ったと思う。
錯乱していて、よく覚えていないが。
気がつけば、おじさんの目もちょっとうるうるしていた。いつの間にか老婆が紅茶を淹れて、私の前に置いてくれた。
「現代人は、可哀想だよね。500年生きてる僕が言うんだから、間違いない。そりゃあ昔も、戦争だの飢饉だの悪政だの色々あったけど、今は今でねえ……。
みんな疲れすぎてて、革命を起こす元気も湧かないっていうのがマジ不憫」
「500年……?」
「あ、自分のこと「おじさん」とか言って若作りしてたのがバレてしまった」
てへっと笑ってみせるおじさん。いや、問題はそこじゃないが?
「僕は医者でもなんでもないけど、500年生きてきた「おばあちゃんの知恵袋」的なこと言わせてもらっていいですか? まあ、正確にはおじいちゃんだけど、ふふ」
「あ、どうぞ」
「その症状、血を抜くことで良くなるかもしれません」
再びクッションを盾にする私。おじさんは宥めるように、両手を上げる。
「ええと、東洋医学にあるでしょう? 悪血って。悪い血は出した方が体調が良くなるんですよ。おじさん、長い放浪生活で、中国の方も周ったんで、ちょっと知ってるんです」
東洋医学に詳しい吸血鬼? もうなんでもありな設定になってきたな。
「そこで提案なんですが、あなたの悪血を吸わせてもらえませんか? あ、ちゃんとした治療道具を使わせてもらいます。おじさんに直接咬まれるのは嫌でしょ?
そうすれば、僕も当座の飢えがしのげる。あなたの肩こりも良くなる。ウィンウィン」
薄暗い洋館で若い女の血を器具を使って吸いだす。やはり、こいつは変態だ。
けれど私は、もうものが考えられなくなっていた。この肩凝りとおさらばできるなら、なんだっていい。
「それでお願いします……やっちゃってください……」
蚊の鳴くような声で言うと、おじさんは「ばあや!」と、一声、スタイリッシュに指ぱっちんした。
老婆はそそくさと部屋を出ていき、お盆にビードロみたいなガラス器具を載せて戻ってきた。
「じゃあ、このソファにうつ伏せになって。服をずらして肩を見せてくれますか? 変なことはしないって。ほんとほんと! あ、ここでしょ? 凝ってるところ」
おじさんが親指でグイーッと押したところは、まさに一番辛い箇所だった。
「なんでわかったんですか?」
「ここだけ皮膚の色が暗いもの。悪い部分は黒かったりへこんでたりするんですよね。じゃあ、ちょっと傷をつけますよ」
「いだだだだっ! 痛い痛い!」
いきなり背中からバチンバチンと音がして、肩に痛みが走る。
「ごめんごめん。すぐ済むから。このホチキスみたいな器具でちょっと皮膚に穴を開けて、血を出すんですよ」
「ホチキスで穴!? 人の肌になにしてくれてんです!?」
「あ、言い忘れてたけど、この器具使うとデカい蛸の吸盤に吸いつかれたみたいな痕ができるから、しばらく襟ぐりの広い服は着ない方がいいよ。他人に見られると変態プレイでもしたのかと思われちゃうからね?」
「お前が言うなあっ!?」
「はい、じゃあ吸っていきます」
お医者さんみたいなセリフを吐く吸血鬼。
肩にガラス器具が当たり、ぎゅっと内部の空気が圧縮された。なるほど、こうやって血を出すのか。
しばらくすると、生暖かいものが皮膚を流れ落ちていく。
「おお、すごい。めちゃくちゃ出てるよ、悪血。ばあや、見てごらん」
「ほう。噴水みたいに噴き出とる。ほっほ……ドス黒いドス黒い! こりゃ相当悪い血ですねえ」
え、どんな血が出てんの? 二人だけで盛りあがるのやめてよ!
「後で見せてあげますね。僕が飲む前に」
ご親切にどうも。いや、見たいような見たくないような……。
でも、肩がじわじわ温かくなってきた。血が出れば出るほど楽になっていく。
なんだか気持ちいい……温泉に入ってるときのような心地よさ…もっともっと、じゃーじゃー悪血を出して欲しい……。
「はい、終わりです。お疲れ様でした」
施術(?)は唐突に終わった。おじさんがガラス器具を外し、老婆がタオルで肩の血を拭ってくれる。ああ、もっと吸って欲しかったのに。
「どうですか?」
「すごく楽になりました……ありがとうございます……」
久しぶりに全身に血が巡っている気がする。肩は羽根がついたみたいに軽いし、頭もすっきりしてる。
悪血を取るだけで、こんなに体調が良くなるとは。恐るべし、東洋医学。恐るべし、吸血鬼おじさん。
「これが、あなたの肩から出た悪血です。真っ黒でしょう?」
「うわあ……ほんとですね」
コップに溜まった黒い血を見て、私はドン引きした。こんなものが自分の体の中で滞っていたとは。
「それ、本当に飲むんですか? めっちゃ不味そうですけど」
「うーん、正直綺麗な色の血の方が美味しいよね。でも、人様の血を食糧にしてる身だから、提供者にもメリットがある形で入手したいんですよ。それで中国に住んでたとき、このやり方を思いついたんだよね」
どうやら、この吸血鬼はだいぶ平和的なタイプらしい。
「悪血はどんな味なんですか?」
「ちょっと苦いかな。悪い血であればあるほど苦いです。だから、葡萄サイダーで割って飲みます」
そう言うとおじさんは、テーブルに置いてあった瓶を取り、中身をコップに注いだ。
そして、しゅわしゅわと泡立つ私の血を一気に飲み干した。
「うん。まあまあ美味しいよ。まだそこまで酷くない。君は若いから回復も早いだろう。たくさんご飯食べてゆっくり寝なさい。自分の体を一番大切にしてね」
「おじさん……」
こんな言葉をかけられたのは、いつ以来だろう。おじさんが純粋に私の体を気遣ってくれているのが伝わってきた。
肩が軽くなったら、なんだか気持ちも元気になってきた。
さっきまでは、夕飯を食べる気力すらなかったけど、帰ったらなにか温かいものを食べよう。そして、アロマでもたいてぐっすり寝よう。素直にそう思った。
「ありがとう、おじさん」
「こちらこそ、ありがとう」
「肩こりが酷くなったら、また来るね!」
「いや、普通にマッサージに行きなさいよ……」
肩が凝ったら吸血鬼。これは新しい健康法かもしれない。そんなことを思いながら、私は洋館をあとにした。