2D悪夢
ゲームで遊んでいる悪夢を見た。それもドット絵のアクションゲームだった。カボチャのお化けが襲いかかってくる。それだけで怖いというなら楽天家だ。何が怖いと言うのか? と。
たとえば、ゲームを思い浮かべるとき、あなたはどういうイメージが思い出されるだろうか。コントローラーを握った手? ゲームソフトのシール? ゲーム機? いやいやそんなイメージは排除されているのではないか。ゲーム画面が映っているテレビ? これも惜しい答えだ。答えは明確だ、テレビに映っているゲーム画面が、イメージに思い浮かぶ。そうだろう? だから、ゲームのイメージは、ゲーム画面の視界以外のイメージは一切排除されている。
そして夢の中でゲームをしているとき、たいていそうなのだ。そこにコントローラーもゲーム機もテレビも存在しない。夢の中でゲームの画面のみが視界を支配しているのだ。だからなんだ? と言いたげだろう。問題なのはここからだ。
ゲームの電源が切れないのだ。視界が画面で支配された状態で、夢が続くのだ。
そしていま俺は横スクロールアクションでカボチャのお化けと戦っている。ゲームは楽しいものだ。それはかろうじて心が現実にあるからで、現実の穴を虚構が埋める感覚が楽しいのだ。全てが虚構で支配されたとき、それは狂気に近い世界だ。恋愛ゲームとかならば羨ましい。だが不条理にも俺が相対しているのはアクションゲーだ。
何時間もやっていられるぜ、とか言う人なら考えて欲しい。もしこのカボチャだらけのホラーチックなゲームで負けたとき、どんな画面が映るだろうか。ゲームオーバーという文字ひとつなら空虚な気持ちでいられそうだが、怖い怖い展開やグロテスクな絵面が映ったらどうするのだ。目を瞑れって? 悪夢の中でそんなことができるものか、ずっと画面が視界を支配してるんだぞ?
たかがドット絵のゲームにとか思ってる人は、ドット絵で再現できる恐怖というものを教えてやる。そしてお前もこの悪夢を見せてやるぞ。
――このやろう おれか゛ と゛うして こんなめに あわなけれは゛ ならないんた゛
心の叫びもドット絵時代のゲームでは、ひらがなと分かち書きでしか表現できない。よくもこんな間抜けな台詞が出てくるものだ。だがこれが平然と出てくるのは不気味なものを感じる。
だが不意にドアが現れる。そう、四角形の茶色と四角形の水色で表現されたかろうじてのドアだった。
ドアに触れてプレイヤーキャラのドット絵がドアに重なると、画面が切り替わった。俺は当然身構えた、身構える身体がないけれど身構えた。意味不明なのも承知の上だ
画面が切り替わると、そこにはカボチャのお化けがいた。俺は持っていた銃を撃ちまくる。動体視力で捉えられる程度のだが結構な速度でカボチャに弾が撃ち込まれる。だが、カボチャは弾が当たるたびに一秒以下止まるだけで、近づきつつある。
俺はいまライフが少ししかない。後ろには移動できない。上はありえないくらい低い天井で、カボチャに進路を塞がれている。つまり、カボチャに詰め寄られた瞬間、俺は格闘ゲームで言うハメられたも同然で、そこで俺はゲームオーバーになるに違いない。
銃連射する、その行動はなぜか無意味のように思えて仕方が無かった。こんなことをして何の意味があるのだろうか。ああ、まるでゲームを全否定するような言い方だな。
銃連射して、カボチャが肉薄する。やられる、挟まれる、ハメられる。ハロウィンムードの雰囲気に飲まれて、怖いシーンに心を突っ込まれるのだ。俺は滲む嫌な汗を感じることもできないが、悪あがきを続けた。
その瞬間だった、カボチャが大爆発の効果音とエフェクトを立てて破裂した。爆発が晴れると、そこに漫画肉が残る。それが間抜けなだけに、怖いほどシュールで、機械的で、人間の心など微塵も感じられない。そして、視界に靄がかかって、テレビのなつかしい砂嵐が走る。砂嵐がこれほど人間味の溢れる温かみがあるとは。
よく晴れたいい日だった。それは黒一色の背景ではなかった。実写ゲームに限りなく近い風景だった。日差しが差し込むカーテンは風に揺らぐこともしなかった、たぶん窓を開けっぱなしにしていないからだろう。太陽の光に満ちてはいるが、俺の足下に俺の影は伸びていなかった。きっと太陽が強すぎるせいだろう。寝床に厚みはない、畳に張りついていた、布団も枕も全部おせんべいだ。ドアに近づく。ドアは開かなかった、ノブも握らなかった、目の前が暗転だけして、俺は部屋の外に瞬間移動した。
部屋を出た廊下の向こうから何かが近づいてきた。これは三次元だ、二次元じゃない、限りなく実写ゲームに近い風景だ。カボチャが、近づいてくる。