引っ越ししたら、女上司と最寄駅が一緒だった
「……ハァ。今日も一日疲れたな」
終電間際の電車に揺られながら、俺・池英章は溜息を吐く。
営業職として都内のお菓子メーカーに就職し、早三年。営業の宿命とはいえ、流石に気温35度越えの日々が続けば、「理不尽だ」と嘆きたくもなる。
ここ近年、七月でもこの暑さだ。果たして俺は、今年の夏を無事乗り越えることが出来るのだろうか?
そんなことを考えながら車窓に映る自分の姿を見ると、その表情は疲労困憊と言うに相応しいものだった。
朝は上司から叱咤激励(内80パーセントが叱咤である)を受け、日中は炎天下に放り出される。
ようやく帰社したかと思いきや、待っているのは書類の山。
我が社に「定時帰り」という言葉は存在しない。
当然ながら、今日も今日とて残業だ。
明日が土曜で休みなのが、せめてもの救いだろう。
毎日これだけ頑張っているのだから、ちょっとくらいご褒美をくれよ。神様に願ってみるも、現実はそんなに甘くない。
終電直前の上り電車ということもあり、同じ車両に乗っているのは数人の酔っ払ったおっさんだけ。ラブに発展するわけがない。
特に出会いもイベントもなく、自宅の最寄駅に着いた。
改札を出た俺は、その足で深夜24時までやっているスーパーマーケットに向かう。
ガッツリは要らないけど、軽いおつまみなら欲しいかな。
俺は冷凍の枝豆や絹豆腐を買い物かごに入れていく。
あとは、気が向いた時食べる用のスナック菓子も買っておくとしよう。
俺はレジの近くに陳列されていたポテトチップスに手を伸ばす。すると、
『あっ』
偶然にも、隣に立った女の人もポテトチップスを手に取ろうとしたようで。俺は彼女と、手を重ねてしまった。
「すみません!」
咄嗟に謝るも、心のどこかでは「おっ? ラブコメが始まるんじゃないか?」と期待している自分がいる。
ゆっくりと顔を上げた俺は……心底驚いた。なぜなら――
「えっ!? 諫早主任!?」
そこにいたのは、俺の上司の諫早棗だったのだ。
諫早主任もまた、俺との邂逅に驚きを隠せずにいる。
「どうして池くんがここに? あなたの家って、こっち方面じゃないわよね?」
「最近引っ越したんですよ。主任の家も、この近くなんですか?」
「まぁね。……こうして会えたのも、何かの縁よ。池くん、私を送っていってくれないかしら?」
「夜も遅いことだし、ね?」と、諫早主任は妖艶に酷似を傾げる。
部下に容赦なく鞭を打ち、問答無用で結果を出させるその手腕から、陰では「営業部の女帝」と呼ばれている諫早主任。そんな彼女が「送っていって欲しい」なんて……可愛いところもあるじゃないか。
上司の女の子らしい一面を目撃して、俺は何だか嬉しい気持ちになった。
「良いですよ」
「ありがとう! 丁度牛乳を切らしていたのよね」
……この人、俺に荷物持ちをさせるつもりだな。
前言撤回。可愛くもなければ、女の子らしくもない。主任は退勤しても、変わらず女帝のままだった。
一度引き受けてしまった以上今更なかったことにすることも出来ず(というか逃げ出したりしようものなら月曜日のミーティングで何を言われるかわかったもんじゃない)、俺は牛乳パックが3本入ったエコバッグを持って諫早主任について行く。
主任の家は、本当にスーパーのすぐ近くだった。
「運んでくれてありがとうね、池くん」
「……残業代発生しませんかね、これ?」
「残念ながら、残業手当適用外よ」
ですよねー。
「それじゃあ、お疲れ様でした」。挨拶してから、俺はその場をあとにしようとする。
今日は最後の最後まで疲れた。一刻も早く帰宅して、ベッドにダイブしたい。
俺が歩き出すと、背後から「あっ」という不穏な声が聞こえた。
「主任、どうかしました?」
「……家の鍵、どこかに落としたみたい」
おいおい、嘘だろ……。
この周辺は住宅街になっており、戸建てやアパートこそあれど宿泊施設は存在しない。
そして電車ももう走っていない。状況は、絶望的だった。
「……この季節なら、夜の公園で過ごしてもなんとかなるかしら?」
「風邪は引かないかもしれないですけど、危ないでしょ? 主任は美人なんだし、襲われちゃいますよ」
「えっ!?」
諫早主任は、本気で驚いたような声を上げる。
俺、変なこと言ったかなぁ?
しかしこのままだと、主任は本気で野宿しかねないな。……仕方ない。
「主任、もし良かったら、俺の家に来ませんか? そんなに遠くないんで。……って、どうしてモジモジしてるんですか?」
「なっ! モジモジなんてしてないわよ! ……状況が状況だし、池くんの家でお世話になるのも悪くないわね。だけどその提案は、下心によるものなのかしら?」
「ふざけんな。100パーセント親切心だろうが」
おっと、いけない。
思わず上司に暴言を吐いてしまった。
だけど幸運なことに、諫早主任は俺の不敬を微塵も気にしていなかった。
「そうよね。あなたは他人を思いやれる人だものね。……わかりました。折角の提案ですし、ここはあなたの親切心に甘えるとしましょう」
「一晩お世話になります」。深々と頭を下げる諫早主任に、俺も反射で「こちらこそ」と返してしまう。
こうして俺と主任の予期せぬお泊まり会は始まったのだった。
◇
「何もない部屋ですけど、テキトーにくつろいで下さい」
引越した直後ということもあり、部屋の中には最低限生活に必要な家具や家電しか置いていない。
殺風景なつまらない部屋と思われるかもしれないが、物が散乱している汚部屋に比べたらずっとマシだろう。
「取り敢えず、シャワーを浴びてきたらどうですか?」
「えっ!?」
諫早主任は顔を真っ赤にしながら、両腕で自身の胸部を隠す。
「変な意味じゃありませんよ。暑かったから、汗を流してきて下さいって言ってるんです」
「……あぁ、そういうこと」
諫早主任がシャワーを浴びている間に、俺はスーパーで購入した食品を冷蔵庫の中にしまっておいた。
……意外と場所とるよな、牛乳3本。
10分後。
「シャワーいただいたわ。ありがとう」
シャンプーの良い香りを漂わせた諫早主任が、脱衣所から出てきた。
着替えを持っていなかったので、寝間着として俺のTシャツを貸してあげた。
自分がいつも着ているTシャツを、今は主任が着ているのだと思うと……なんだか少しイケない気分になった。
雑念を振り払うように、俺は主任から視線を外す。
「主任も、ビールで良いですか?」
「えぇ」
俺は缶ビールを諫早主任に手渡し、テーブルの上に多少のおつまみを並べる。
時刻は既に深夜1時を回っていて、飲食に対する背徳感が否めないけど、週末だし、今日くらいは目を瞑るとしよう。
「今週もお疲れ様」
「はい、お疲れ様でした」
乾杯をしてから、俺たちはビールを飲み始める。
時間も時間だし、缶一本で終わらせるつもりだったのだが、主任との晩酌が楽しくて、気付くとテーブルの上には10本近い空き缶が置かれていた。
酔いもだいぶ回ったことだし、晩酌もこれで終了。俺たちは、寝ることにする。
「ベッドは主任が使って下さい。俺は床で寝るんで」
「んー」
一応返事はしたものの、多分これわかっていないな。
現に諫早主任は、ベッドに行く素振りすら見せないし。それどころか、立ちあがろうともしない。
……ったく。
部下とはいえ、初めて来た男の部屋でベロンベロンになるまで飲むなよ。
「ほら、主任! 立って下さい!」
諫早主任の肩を担ぎ、体を支えながら、俺は彼女をベッドに寝かせる。
「おやすみなさい、主任」
ベッドから離れようとすると、諫早主任は俺の手をガシッと掴んできた。
「……ねぇ、寒いんだけど」
「だったら、エアコンの温度上げましょうか?」
「ううん、その必要はないわ。その代わり……私を抱き締めて、温めて欲しいの」
やめろ。やめてくれ。こっちだって、ある程度酒が入っているんだ。
蠱惑的な表情で、そんなセリフを吐かれてしまったら、俺は――
――翌朝。
「……やっちまった」
一糸纏わぬ姿で、隣でスースー寝息を立てる諫早主任を見ながら、俺は呟くのだった。
◇
「ん……」
結局寝たのは2時頃だったから、諫早主任はだいぶ遅めの起床となった。
ムクっと上半身を起こした諫早主任は、辺りを見回す。
俺の姿を見つけたかと思うと、「おはよう」と挨拶してきた。
「おっ、おはようございます」
詰まりながらも、俺は挨拶を返す。
さあ、問題はここからだ。
ほとんど泥酔状態だった主任は、昨晩のことを一体どこまで覚えているのだろうか?
無論俺は全て覚えている。
間近で嗅いだ主任の匂いも、柔らかな主任の感触も、「女帝」と呼ばれる日中とは違う主任の声も。
……って。思い出したら、また恥ずかしくなってきてしまった。
諫早主任に記憶があるかどうかで、この先俺の取るべき言動は変わってくる。
俺は覚悟を決めて、主任に尋ねてみることにした。
「主任は夜のこと、どこまで覚えていますか?」
「夜のこと? そうねぇ……」
タオルケットで自身の身体を包みながら、諫早主任は考える。
「シャワーを浴びて、ビールを飲んだところまでは記憶があるわ。……でも、いつの間に服を脱いだのかしら? しかも下着まで」
……ということは、主任は一夜の情事を覚えていない?
だったら、それで良い。敢えて俺の方から、「昨夜は盛り上がりましたね」と蒸し返す必要もないだろう。
あれは雰囲気に流されたというか、謂わゆる一夜の過ちというやつだ。
忘れたままの方が良いことだってある。
「……服、洗濯しておきましたんで」
昨日主任が来ていたブラウス等は、夜のうちに乾燥まで終えている。
「何から何まで、ありがとう。お礼と言ったらなんだけど、朝食くらいは私が作るわ」
服を着てから、諫早主任は朝食作りを始める。……裸エプロンとか、これっぽっちも期待していませんから。
朝食のメニューは、フレンチトーストとコーヒーだった。
俺の運んだ牛乳が早速役に立って良かったと思う。
「そういえば、主任。今夜はどうするんですか?」
「さっき大家さんに電話したら、今日中に鍵を変えてくれるみたいなのよ。だから昼間は喫茶店か何かで時間を潰して、鍵の変更が終わったら帰宅するつもり」
「そうですか」
二日連続帰宅出来ない事態を免れたんだ。主任にとって、それは良いことである。筈なのに……そのことをどこか残念に思っている自分もいて。
だけど諫早主任は昨夜の出来事を忘れているのだ。彼女の中では、何も起こっていないのだ。
だから残念がっていることを、僅かでも態度に出してはいけない。
朝食を終え、二人で洗い物も済まし。
恋人でもないただの部下の家に長居する必要もないということで、主任は部屋を出ようとする。
出て行く直前、俺は主任に念の為一声かけておいた。
「主任。大丈夫だと思いますけど、体調が悪くなったりしたら教えて下さいね」
「そんなに心配しなくて平気よ。きちんとゴムつけていたし、昨日は安全日だったから」
そりゃあ避妊はしっかりしていたけどさ、それでも万が一ってこともあるわけじゃん?
…………って、ん?
俺は会話が成立していることに違和感を覚え、首を傾げる。
疑問符を浮かべている俺を見て、諫早主任もようやく自身の失態に気が付いたようだ。
主任は「ヤベッ」という顔になっている。
「もしかして……全部覚えています?」
俺の質問に、主任もまた質問で返してきた。
「……この近くに、朝から開いてるバーはあるかしら?」
どんなに強い酒を飲んだって、今のミスは忘れられないと思いますよ。
◇
月曜日がやってきてしまった。
会社に行きたくない。ずっと安息日が良い。そんなことは毎週のように思っているけど、今朝に限ってはいつもとは違う行きづらさがある。
「……どんな顔して主任と会えば良いんだよ」
一夜を共にしてから、俺は主任と初めて顔を合わせることになる。
気まずい空気が流れることは、避けようがなかった。
せめてもの抵抗で、いつもより遅い時間に家を出る。それがいけなかった。
『……あっ』
駅のホームで、諫早主任と出会してしまったのだ。
最寄駅が同じなのだから、こうして鉢合うことだってあるだろう。
しかし今朝俺は、少し遅く家を出たんだぞ? どうして主任と一緒になる?
「池くん……あなた、いつもはもっと早い時間に出社してなかったかしら?」
どうやら主任も俺と同じことを考えていたようだ。
そして俺と同様、顔を合わせるのが気まずいと感じていたようだ。
目的地が同じなのに、別々に向かうというのはおかしな話だ。俺と主任は、一緒に出社する。
『……』
道中、俺と主任は終始無言のままだった。
何か話さなければと思って主任の方を見れば、タイミング良く彼女もこちらに顔を向けていて。
目が合うなり、互いに思わず視線を逸らす。……俺たちは初恋をしたばかりの中学生か。
電車に揺られて肩が少しでも触れ合おうものなら、途端に鼓動が速くなって。
元々主任を良いなと思っていた。
美人だし、仕事が出来るし。たまに怖いところがあるけれど、俺みたいな優柔不断な男には牽引してくれるお姉さんの方が合っている。
そしてあの夜を経験して……本気で好きになってしまったんだと思う。
決して身体目当てなわけじゃない。
多分あの行為は引き金で。もしあの夜ウチに泊まったのが主任じゃなかったら、ベッドで寝ていたのが別の女の子だったら、俺は行為に及ばなかったと思う。
俺はもう一度主任を見る。
ねぇ、主任。あなたは俺のこと、どう思ってくれているんですか?
あの夜の出来事は、忘れたい黒歴史なんですか?
そんなことを考えていると、主任が「ねぇ」と話しかけてくる。
「この週末で、牛乳を飲み過ぎちゃったのよね」
「……はぁ」
「だからその……また荷物持ち、お願い出来ないかしら?」
「……!」
それがお誘いであることは、鈍い俺にだってわかった。
「良いですよ。だけど今夜は、俺が鍵を落としちゃうかもしれません」
牛乳を買うのは、1本だけにしよう。
そうすれば、近いうちにまた彼女の家に行くことが出来るから。