41話 恋人
♠♤♠♤
カルロイをぶちのめしたあと。
アリエステが目を醒ましたとき、側にいてやりたくて。
結局俺は王都の屋敷にも王宮にも残らず、アリエステを連れてモーリス伯爵邸にいた。
外はもう暗く、何度か心配そうに足を運んでいたメアの足もぴたりと止まった。
軽やかな声で飼い主の帰宅を喜んでいたセレーブスのエリルも異変に気付いたのか。当初こそ鳥かごの中ではばたき、「ここを出して、ご主人」とアピールしていたが、今はもう止まり木でじっと翼を閉じている。時折「ご主人?」とばかりに小さくさえずって反応を待っている気配があった。
限りなく深夜に近いのかもしれない。
屋敷からはなんの音もなく、俺と入れ違いに王宮に呼ばれて行ったモーリス伯爵が戻ってきた様子もなかった。
ベッドに横たわるのは、着替えて清拭をされたアリエステ。
まだ顔には腫れがあり、あの場ではわからなかった大小さまざまな傷がある。
湯につけ、濡れたタオルで拭かれたら痛い傷もあったろうに、メアが言うには一度も目を醒まさなかったらしい。
あの後。
泣きわめくカルロイから鍵を分捕り、そのままセイモンを連れて地下牢に向かった。
再度覗いてみると、アリエステは完全に気絶しており、牢から出しても目を開ける気配はなかった。
一瞬ひやりとしたが、俺の腕の中にいるアリエステは温かく、胸も静かに上下している。
そのままなにもかも放り出して馬に乗り、モーリス伯爵邸に駆け込んだ。
王宮がその後、どうなったのかはわからない。
カルロイと王妃の処置とか。三公爵の話合いとか。
モーリス伯爵が呼ばれたということは、アリエステのことについても話し合いが重ねられるのだろう。
俺は深く息を吐き、組んでいた足を組み替える。
そのとき、りり、と。
佩刀の鈴がかすかに鳴った。
「……レイシェル卿?」
静かにアリエステが名を呼ぶ。
気づけば立ち上がり、ベッドに手をついてアリエステの顔を覗き込んでいた。鼓膜を撫でるのは、エリルのさえずり。
「よかった……。もう大丈夫だ」
口から言葉が安堵の息とともにこぼれ出る。
燭台の薄明りではあったが、アリエステの瞳には力がある。あの牢の中で見たような脆さはなかった。
手当をした医師が『痛み止めを飲ませている』と言っていたが……。まだ効いているのだろう。柳眉が歪むようなこともない。
「エリル……? ここ、わたくしの部屋ですか?」
上半身を起こそうとするから、肩をそっと押さえて留める。
「いまは痛み止めが効いているから動ける気がするだけだ。まだ寝てろ」
「お父様は?」
身体から力を抜き、視線だけ動かしてアリエステは不安そうに尋ねる。
「王宮に行っている。心配ない。事情を聞かれるだけだろう。王妃もカルロイも……すべて暴露した。三公爵と陛下もカルロイの廃嫡について審議しているところだ」
「そう……ですか」
言いながらも、アリエステの瞳は揺らぐ。
そりゃそうだよな、と思う。
いままで閉じ込められて拷問さながらに尋問されて……。それをもみ消されてきたのだ。
陛下や三公爵に言葉が届いたからと言って、すぐに信じてもらえないかもしれない。
そう考えるのが普通だろう。
「アリエステ」
俺は彼女の顔を覗き込む。
まだ、右の瞼は腫れぼったく、皮下出血のせいか青く黒ずんでいた。
唇のひび割れはだいぶんよくなったようでほっとする。顎の下にちいさな傷を見つけて、しまった、カルロイの顎、もう少し強めに蹴っておけばよかったと舌打ちしたくなる。
「なんですか?」
サファイアに似た瞳が俺をとらえる。
そこには、眼帯をしていない俺が映っていた。
「俺が間違っていた」
瞳を見つめたままゆっくりと思いを口に出す。
語尾をエリルの鳴き声がそれをなぞった。
「君を幸せにしたくて……。誰かに幸せにしてほしくて……。だけど違うんだ。俺が」
ぎゅ、と拳を握りしめた。拍子にちりん、と鈴が鳴った。
「俺が、君を幸せにすればよかったんだ。それなのに、ずっと……。自分にはその資格がない、と」
レイシェル・ナイトとアリエステが結ばれれば破滅しかない。
ずっとそう考えていた。
いや。
そう思い込んで逃げてきたのだ。
結ばれたとしても。
当初からこれだけ物語が変わっていたのだ。
幸せな結末へと進むことだってできるはずだ。
それなのに。
俺は怖かったんだ。
もし、できなかったら。
また、彼女を破滅させてしまったら。
それなら。
自分以外の誰かに幸せにしてもらおう。
そんな風に言いわけしていたに過ぎない。
「なぁ、アリエステ」
「なんですか?」
彼女は羽根枕に頭を預けたまま、少しだけ首を右に傾ける。
エリルが高音で、やわらかな声音で鳴いている。
「君を幸せにしたい。誰より俺自身の手で。……ずっとそばにいてくれるか?」
心臓が破裂しそうなほど血流を身体に流しまくっている。
情けないことに少しだけ声が震えた。
本当はもっと堂々と。
もっと早くに。
モーリス伯爵家から申し出があったときに言うべき言葉を口にする。
「俺と、結婚してくれないか?」
「ナイト公爵はお認めになりますの?」
静かにアリエステが尋ねる。
「反対されて引き下がるぐらいなら、こんなこと口にしない」
断言すると、愉快そうにアリエステが笑う。
「なんだか自信なさげに見えたので」
「それは……」
つい口ごもってから、改めて背筋を伸ばす。起立の姿勢がいいのかと思ったけど。
結局床に両膝ついた。
そっちのほうが、横たわっているアリエステと視線が同じになる。
「俺で大丈夫なのか、とか。……その……なにより、アリエステに『いやです』って言われたらアウトなわけだし。そんなことを考えたら……」
ふふふふ、とアリエステが軽やかに笑い、それにエリルの声が重なる。
「見込みもなく求婚するなんて。浅慮ではなくて?」
「……そこは……まぁ」
「おまけに、わたくしが『いやです』と答えるとお思いになるなんて」
ふう、とアリエステがため息をつく。なにげなく言われた『浅慮』がぐっさりと心に刺さった。
だが。
彼女が口にした言葉を反芻し、まじまじと顔を見つめた。
「いやです、と答えないってこと?」
「なぜ、いやですと答えるのか意味が分かりませんわ」
アリエステはやわらかな笑みを口に浮かべた。
「こんなに青鳥が鳴いているのですよ? 貴卿が不安になる意味が分かりません」
鳴き声を聴くと幸せになるというセレーブス。
それは。
部屋中に響き渡るように豊かな声音で鳴き続けている。
「それに、貴卿に自信がなくても大丈夫です」
アリエステは勝気に笑った。
「わたくしが貴卿を幸せにしてご覧にいれますから」
その言葉を聞いて、笑いがこみあげる。
さすが、俺のアリエステだ。
自信満々で、気高くて。
傲岸不遜なのに、優しくて。
全身全霊で勝負をするから、その結果に打ちひしがれて大泣きすることもあるけど。
だけどすぐに次を目指して歩き始める。
「じゃあ、俺は絶対にアリエステを幸せにするから。アリエステは俺のことをよろしく頼む」
「承りましたわ」
微笑む彼女に顔を近づける。
少しだけ。
照れたように目を伏せたが。
更に俺が顔を寄せると。
そっと瞼を閉じる。
だから。
俺は彼女にキスをした。
恋人として。




