1話
1話
顔にぷにぷにとした柔らかい何かが勢いよくぶつかって来た事で目が覚めた。
重たい瞼を開け確認すると俺の顔を押さえているのは一ノ瀬さんの腕だった。
そうだ、昨日はあのまま酒を飲み寝落ちしてしまったんだった。
別に何かあったわけでは無い。酒を飲み騒ぎ寝た。本当にそれだけだった。
しかし、逆にいうとそれ以外何もしていない歯も磨いていないし身体も洗っていない。
これが二日酔いか。少しの吐き気と頭痛を我慢しながら、なんとか気持ちを強く持ち。腕を退け、風呂場に向かう。
時刻は7時30分。1限には間に合いそうだ。
何かいつもの朝とは少し違うような気がした。いつもは気にもとめないシャワーの音や鳥の鳴き声が大きく感じ、何か自然の中にいるような不思議な気持ちだった。
一人暮らしなので、普段は湯槽は張らないのだが、珍しく風呂でゆっくりとしたいと思い湯船を貼り少しだけ長風呂をした。
風呂を出ると未だに美しい寝顔ながら、暴れ回る一ノ瀬さんがいた。どうやら寝相は相当悪いようだ。
一ノ瀬さんが何限から授業があるかは知らないが、一応起こしておくか。
大声を叫ぶ元気もないため、アラームを1分にして耳元に置く。
その間に朝を食べる。と言っても焼きもしない食パンと牛乳だけだ。
そのうちジリリリリッと大きな音が鳴る。
「んんぅぅぅ……くぅぅうっ!!」
大きく欠伸をするとこっちを向いて来た。
「おはよう。」
「あ、あぁ。」
おはようと言われたそれだけなのに少し動揺した。
「あ、風呂入ったんだ。私も借りて良い?あと、適当な服借りて良い?」
「大丈夫だ。クローゼットはそこにある。」
「分かった。」
ジーンズとセーターと俺のパンツを持って風呂場に向かっていった。
パンツまで借りる気なのか。
まあいいか。
今週中に提出するべき課題があったので、やる事にした。簡単な微分積分の問題のため苦労はないが、問題数の多さから多少面倒だ。
「いい風呂。私の家の2倍は広い。ここの家賃高くないの?」
「6万円、父が昔の恩人だから格安で提供してくれているらしい。」
「最上階でベランダ広くて部屋もこれだけあってその値段は流石に安すぎね。」
バスタオルを首にかけながら市瀬さんは出てきていた。よかった流石に床は濡れていないようだ。
「朝ごはん食べるか?食パンしかないけど。」
「オーブンとかある?」
「ない。」
少し迷っているようだったが、くぅーと腹の虫が鳴った事で食べますと言ってきた。
昨日ずっと食わずに飲み夜更かしをしたせいでお腹はかなり空いているようだ。
「そんな急いでるってことは今日授業1限から?」
「そうだ。一ノ瀬さんは?」
「私、2限から。」
羨ましい限りだ。そう思いながら鍵を取り出す。
「鍵、出る時に表の花瓶の下にでも置いておいてくれ。」
「いいの?」
「何が?」
「いや、何も。でも、わかった。」
俺はよく分からない。
「じゃあ、戸締りと暖房の電源だけよろしく。」
もう1限まで15分ほどしかない。
「なんか、新婚みたい。いってらっしゃいのキスでもした方がいい?」
そう言って投げキスをしてきた。
昨夜、俺が照れてからというものすぐに揶揄ってくる。なので、無言で扉を閉めて大学に向かった。
それから俺の平穏すぎてつまらない日常は再開した。と思った。
次の日の昼休み。
いつも通り、3限のある部屋で一人でコンビニおにぎりを食べていた。
すると誰かが前の席に座り後ろを向いてきた。
「久しぶり。」
その正体は一ノ瀬さんだった。
「ほら、これ。この前の着替えありがとね。」
俺の服達はしっかりと畳まれた状態で何やら可愛らしい紙袋に入れられていた。
「大丈夫だ。」
「やっぱりお酒飲まないと鉄仮面みたいね。」
「そうか。」
自分では普通なつもりだが、人から見るとそう見えるらしい。
「仕方ない。今日も私が酔わせてあげよう。てわけで、行っていい?」
そう言ってバックには高級そうなワインが入ってた。
「それ買ったのか?」
「いや、昨日の活動でお金と一緒に貰った。」
活動ね。
「今日は19時までバイトだからその後なら大丈夫だ。」
「また、返さないつもり?」
「帰り2時間なら3時間くらい飲んでも簡単に帰れるだろ。」
ここは都会だ。きっと終電は0時を回っても少しはあるだろう。
「それもそっか。でも暇ね。私今日3限までなの。」
「友達いないのか?」
「沢山いる。けど、ショッピングはともかくお金のかかる遊びはしない主義だから。」
そういうものか。俺は納得し鍵を取り出した。
「もし、場所がないなら家に先行っててくれ。」
「この前の朝も思ったけど、警戒心とかないの?」
「一ノ瀬さんはそういう事する人じゃない気がするから。」
「なんで?」
「直感。」
「なにそれ」
そういうと一ノ瀬さんは少し笑った。
「ヒメーっ!!」
変わったピンク色の髪色でロングヘアーがふわふわしてる感じの女が一ノ瀬さんを読んでいた。
男3人と女3人のグループでまあ、なんというか元気そうな人たちだ。
「あっごめんね。ぼっち飯を解消させてあげたいけど今日は先約があるから。」
「わかった。」
「じゃあ、後で。」
一ノ瀬さんは友達の元にゆっくりと歩いて行った。
なんというか、少しだけ、早く時間が過ぎればいいのにと思った。
授業が終わりバイトに向かう。
俺のバイトは高校生向けの塾講師だ。時給は講師の担当する生徒数によって決まるらしく、現在の俺の額は5000円それなりに満足している。
教える教科は数学と物理と化学と英語。基本は与えられた教材に沿って話し解説する。そしてわからないと言われたらより詳しく説明するそれだけだ。
1授業1時間半なので、1時間授業、そして残りの30分をわからないところを聞きそこの解説という風にしている。
生徒によっては質問の時間にふざけて講師に個人的な質問をしたりする人もいるそうだが、俺の担当は問題ない。なぜかしっかりと勉強したいという人のみが集まっている。
「いやぁー今日もよかったよ。」
授業が終わり、講師室に戻ると塾長がやってきた。塾長は少しハゲになりかけている50手前のおじさんだ。
「ありがとうございます。」
「君が教えている子みんな偏差値が上がっているからね。親御さんから感謝の電話まで来て本当に嬉しい限りだよ。」
「生徒がみんな真面目なので助かってます。」
「それは、ほら、不真面目な男の生徒はみんなあっち行くから。」
そう言って一人の女性を指差した。
茶髪セミロングの女性だ。確か同じく塾講師だったはずだ。
「ほら、彼女あの外見で男の子に人気だから。」
「確かに男に人気そうですね。」
下世話な目で見ると胸もかなり大きい。男子高校生にとってはたまらない大人の女性だろう。
「質問時間なんて全部先生の個人情報を聞いてるらしい。親の金で何を学んでるんだか。」
珍しく塾長がちゃんと怒っている気がする。
「彼女自身は普通に授業も解りやすいからいいんだけどなぁ。」
「そうですか……すみません、今日予定があるのでもう失礼します。」
「あっ呼び止めてごめんね!また来週もよろしく!!」
時計を確認すると19時10分だった。これ以上待たせるのは少しだけ申し訳ない。
「お先失礼します。」
「あっうん、お疲れっ!」
形式だけの挨拶をして急いで、家に帰った。
ガチャっと扉を開け家に入ると、既にワインは半分になっており、出来上がった一ノ瀬さんの姿があった。
「ごめんね。先飲んじゃってた。」
「大丈夫だ。」
「じゃあ、飲も。」
無理やり隣に座らされて飲む初めての赤ワインは俺の口には合わなかった。
「不味い?」
「そうだな。」
「私もそう思う。」
何が面白いのかそれだけで一ノ瀬さんは笑う。
ピンポーンとチャイムの音が鳴った。
「おっキタキタ!」
そう言って玄関に取りに行き持ってきたものはフライドチキンだった。
「赤ワインには肉らしいよ。うん、やっぱりこの時間に自由に摘んで飲む。なんか最高ね。」
少しだけその気持ちは分かる。
「ほら、食べな。美味しいよ?」
そう言って食べかけのフライドチキンを差し出してくる。
「あっ照れた。やっぱり酔うと感情出るね。」
またまた、笑った。それに釣られて俺も少しだけ笑顔が出た。
「そういえば、今更だけど名前なんて言うの?」
「言ってなかったか。秋野零士だ。」
「分かった。じゃあ、零士くんって呼んでいい?」
「好きにどうぞ。」
「そうするね。零士くん。」
また、照れたと揶揄われないためにグラスを持ちワインを口に入れた。
少しだけ美味しかった。