願わくば人類に幸あれ
月、というものは古来より最も身近な神秘の対象だった。
人であれば本能的に恐れる夜の中でどんな星よりも明るく輝く月は太陽と対の存在として崇められてきたのだ。
しかし、現代ではどうか、月は今や人類が足を踏み入れた場所である。月を奉る文化が消えた訳ではなかったがかつての神秘性は随分と失われ、月という存在が空に煌めく星々の中で最も矮小なものへと貶められてしまったのだ。
その結果、月にまつわる神々の類はことごとく弱体化してしまっていた。
太陽や他の星々も今となっては昔ほどの不思議を内包しているわけではないが、それでも人間が辿り着けない未踏の地であり、そのことから他の星にまつわる神々にとってはそこまで大きな問題ではなかったのである。
なぜこんな話を長々としたのか疑問に思う者もいるだろう。理由は至極単純であり、この話の主人公が月にまつわる神霊だからである。
「ひ、ひもじい…」
今日も社の一画で童に見えるものが寝転がっていた。
彼の名は夜見、かの有名な月神ツクヨミノミコト、の分霊に位置する存在である。
分霊とは神の魂を分けたもので、本体ほどではないが同質の魂と神通力を持ち神に類される存在である。
魂を分けた、とは言っても夜見が分霊となってから早千年は経っており、最早別人といっても過言ではなかった。
「近ごろは参りに来るものも供えものも減る一方だし、我の力を望むものもすっかり減ってしまったな。」
夜見はひとりごちていた。
「そうは仰っても人々の信仰が増えるわけではござりません。」
どこからともなく現れた二頭の犬がやれやれといった様子でそれを嗜める。
狛犬の阿形吽形である。神社であれば必ずといると言ってもよい神使だ。この社ができた当時から夜見に仕えており、今も夜見のいる本殿の掃除をしている。二頭いるように見えるがその人格は一つだけである。
「まあ、気持ちは分かりますが、今やどこの神様たちも似たようなものですよ。私たちばかりが苦しいわけではありません。必要なのは今を嘆くことではなくどうやってやりくりするかです。」
「かつては崇められていた我らが明日の飯のことを気にしなければならんとは。」
神の存在を支えるものは人々の信仰心である。人に忘れ去られた神は最早存在することはできない。人々の信仰というものは目に見えるわけではないが、のこもったお供え物を食べれば増えるし、何もしなければ徐々に減る。
「神無月の集会も年々参加者が減っていますし、当面の間消えないことを喜ぶべきですよ。」
「しかし、アマテラスのところは結構うまくやっているそうじゃないか…」
「あちらの方が有名なのだからしかたないでしょう。よそはよそ、うちはうちでございます。」
「世知辛いなあ。」
神の時代はもはや終わり、跳梁が跋扈することもなくなった。
人は天気を占わなくても良くなったし、夜の闇を恐れることも減った。夜見はかつて夜の間、人々を見守るようにと付けられた名だったはずだが今や月の明かりよりも人間の作り出す電灯の方がはるかに明るいと言った有様だ。
「今すぐではなくとも神はいつか消えゆく定めでございます。人々の思いによって生まれたならば思いによって消えるのもまた必定でございましょう。」
「人々の心と秋の空、だね。」
「全然うまくありませんよ。」
「やかましい。」
それから数百年ほどたったある日、世界は大きく揺れ動き、統一国家なるものが出来上がっていた。
ばらばらだった国は歪な形ではあっても一つにまとまり、様々な壁は存在しているものの、一応人々は一つの国の中で暮らせるようになった。化学はさらに発展し、あの頃よりもさらに様々な不思議が失われていた。
そんな中で夜見たちはというと…
「ひもじいなぁ…」
「全く、何度目ですかそれ。」
「これで3億とんで287回目。」
「うわっ、全部数えていたんですか。暇ですねぇ。」
「しょうがないじゃん。かれこれ数十年くらいは我を頼る人などおらんしぃ。」
「拗ねないでくださいよ。」
これまでとあまり変わらぬ様子で社の一画にいた。
数百年の時である。当然あのころとは本殿も異なり、木造ではなく丈夫な合金によって建てられていた。
「なぁ、我にはひとつ疑問があるんだが。」
「なんです?」
「この社、まだ取り壊されてないの。」
「まぁそれは確かに不思議ですね。」
「我に頼るわけでもなく、願うわけでもないのに、なんでまだ残しているんだ?我は百年前にはもう消える覚悟でいたんだが。」
科学は前にもまして発展し、最早夜と昼の区別などはあってないようなものだった。科学の力をふるえばいつでも天候を変えることが出来るし、昼のような明るい光を手にすることもできる。
地震や台風などといった自然現象すらも御することが出来るようになった人がかつてのように神頼みをすることは最早ないと思われた。
「ほら、この間の祭りも。普段は見向きもしない人々がその日だけはなんだかんだと大騒ぎだったじゃないか。」
「理由をつけて騒ぎたいだけなんじゃないですか?」
「まあ動機はともかく、だ。あれのおかげで我らも食いつないでいけるのだからな。感謝しなければ。」
「立場逆転してるじゃないですか。少し前はいつ消えるか戦々恐々としていたくせに、現金なものですね。」
「人々が現金になったのだ、神が人に影響されるのは道理だろう。」
「まったく、口だけは達者なんですから。少しはそのお力を人のためにふるってはどうです。」
「望まれもしん力を振るうわけにはいかんよ。我はかつてのような存在ではなくなったが、それでも消えてよいものではないらしい。今のところはその願いをかなえ続けるしかないだろう。」
科学が発展し、神はかつてのような自然を司る者ではなくなった。しかし、祀られる者としての神は残っていた。神に具体的に願い事をすることはない。ただ都合よく人が騒ぐための存在として辛うじて存在するのだった。
それからさらに数千年後、人類は滅亡の危機にあった。
統一国家なんてものが崩壊してからとうに千年、再び対立した人々はその発展しすぎた科学を利用して筆舌に尽くしがたい戦争を繰り広げていた。
「いやぁ、なんというか、物騒な世になっちゃったねぇ。」
「その物騒な世が既に千年は続いていますよ。」
そんな中、夜見達は依然としてそこにいた。争いの中で社は荒れ果てていたが、幸いにもまだ形は保っていた。
周囲に人が住んでいる様子はない。
周囲は戦場となり、今日も程近くでお互いを滅ぼすための争いの真っただ中だった。
「しかし、人間も飽きないものだ。皆もういい加減疲れてるだろうに、我はもうとっくに飽きちゃったよ。」
「ほらこないだのあれは凄かったじゃないですか、なんか球体をいじくったらとんでもない光線がでるやつ。」
「反物質、だのなんだのいうやつか。でもあれはなぁなんというか風情がないよね。」
「戦争で風情を語りますか。」
「大事だよ?風情。なんたって人の理性を担保してくれるものの一つだからね。風景を見てそこに美しさを見出すからこそ人は人であるのさ。」
「ならば人を殺すための最適化をしすぎた彼らは人間とは呼べないと?」
「言葉の綾だよ。我が存在するという事はあれらはやはり人間なのだろう。少しばかり私の知る者とは違うが。」
そういって夜見は戦場の方をちらりとみた。
体のほとんどが機械で覆われた兵士たちがお互いを殺し合っている。最早人間が生身で出るには汚染されすぎた大地の中で人一人が持つには明らかに強大すぎる力を持ち、ゾンビのように蠢きながら戦場を駆けずり回っていた。
「気づいているか?」
「何にです?」
「我の力が増してきている。」
「えぇ。極限状態の中で最後に頼るのはやはり私たちのような存在なのでしょうね。」
「はぁ~。本当に都合のいい時だけ頼ってくれるなぁ。そんなに万能のものじゃあないっていうのに。」
ため息をつきながら外へと出る。できることは限られているが、存在が望まれてこその神である。願いを聞くために夜見は今日も戦場を歩くのだった。
どのくらい経った頃だろうか。遂に戦争は終わった。人類は滅びこそしなかったが、その文明の大半を失い、汚染された大地の中で僅かに生き残っているにすぎなかった。
「いやぁ、しかし終わってみればここも様変わりしちゃったねえ。」
見渡せばそこは瓦礫の山、本殿は崩れ僅かに建物としての形を残すのみとなっている。
「栄えるものは久しからず。諸行無常ですね。」
「また随分古い言葉を持ってきたね。」
「なぁに、私たちにとってはそれほど変わりません。」
「まぁね。望まれればそこにいるのが我らだ。昔も今も変わることはない。」
夜見の力はさらに強大になっていた。人々は文明を失い、科学を失い、再び夜を恐れ、世の不思議を恐れるようになった。皮肉なことに、神の力が増すときはいつも人間が弱者である時なのである。
「今日は満月だ。我に願いを捧げるものも多い。」
「ようやく私たちの仕事ですか。久々ですね。」
「あぁ、本当に長かった。だがそれでこそいたずらにただ時を過ごしてきた甲斐があるというもの。人間に望まれる限り、我はその力を振るおう。」
一柱の神が満月の夜を駆けていく。彼がこれから何を為し、どうなるか、それこそは神のみぞしることだろう。