夏のホラー2020「かりかり」
毎朝訪れる、駅のホーム
俺は電車を待つ人々の中、イヤホンを取り出し、付ける。
音楽が聴きたいわけじゃない。
……アレが聞こえ始めたからだ。
かりかり。
かりかり。
白線の向こう側、線路側から、血の気のない白い腕が2本伸びている。
その腕は爪で地面をひたすら、一心不乱に引っ掻いているのだ。
かりかりかりかりかり。
かりかりかりかりかりかりかりかりかりかり。
もちろん……アレは人じゃない。
みんな分かっている。ホームにいる人達は全員アレの事を知っている。
だから誰も見ない。何も聞かない。
全員イヤホンであの音を聞かないようにし、目線はスマホや新聞で逸らし、決して関わらないようにしているのだ。
かりかりかりかりかりかりかりかりかりかり。
かりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかり。
……毎日毎日。いい加減にしてくれ……
スマホの画面を凝視しながら、次の電車が来るまで耐える。
アレは電車が来ると消えてしまう。
……この駅は人身事故が多い。多分、アレも電車に跳ねられた奴なんだろう。
電車を怖がってるのか? 自分で電車へ飛び込んで命を絶ったんだろうに……
そんな事を考えていると、次に乗る電車のアナウンス。
スマホから顔を上げると、丁度いいタイミングで電車が現れる。
ゆっくりと速度を落とし、停車。
アレは……もういない。
小さく安堵の息を吐き、目の前に開かれた電車の扉をくぐった。
その時。
「えっ?」
突然の重力感。
電車へ乗り込もうとした右足が空を切り――俺はそのままホームの下に落下した。
頭をかばった両腕と左膝の激痛に耐えながら、愕然と周囲を見回す。
確かに電車に乗った。
乗ったはず……なのに。
電車は影も形もない……?
混乱し何度も線路とホームの間を見比べる。
だが……俺は思い出した。
線路の下には――アレがいるということに。
「……!!」
アレがいた。
線路から生えるように伸びた水死体のような白い腕が、俺の両足をしっかりと掴んでいる。
足に伝わる常温よりも低い腕の温度。しっかりと足首を掴んでいるが振りほどけそうなほど弱い握力。
なにもかもが気味が悪く、背筋がゾッと冷えた。
痛む両手で後ろへ下がると、白い腕は俺の足をつかんだまま、抵抗なく、するりするりとどんどん伸びる。
しかも――俺は恐怖に息を飲んだ。
二本の白い腕が、三本、四本、五本と、どんどん数を増やし次々と俺の足を掴んできたのだ。
白身魚の切り身を彷彿とさせる、青黒い血管を走らせた白い腕。それが際限なく俺の下半身を覆い始め、俺は体をひねりながら、白い腕から逃れようと何度ももがく。
立ち上がろうとするたびに腕に足先や足首を掴まれ、何度も倒れる。
激痛。非現実感と恐怖心に後頭部のあたりが痺れるようにジンジンする。
痛みに耐え、肩を震わせつつ顔を上げ――俺はさらに恐ろしいものを目にした。
電車だ。
悲鳴のようなブレーキ音を立て、恐ろしい勢いでこちらへ迫る。
やばい、やばい! 誰か!! 助けてくれ誰か!!
けれど――声が出ない。
恐怖で声帯が固まり癒着してしまったかのように。ひゅうひゅうと荒い息が漏れるだけ。
俺は白い腕をなんとかふりほどき、ようやくホームの端にたどり着いた。
すぐ近くに、数人のサラリーマンが立っている。
助けてくれ!!
ひゅうひゅうとした息でそう訴える。
けれど。
誰も俺に気づかない。
おい――誰か、誰か!!
誰も俺を見ようとしない。
みんな、耳にイヤホンを付け、スマホや新聞に視線を落とし、決して俺を見ようとしない。
ぐい、と。
両足が引っ張られる。
40本近い白い腕が、恐ろしい力で俺を線路へと引っ張っている。
嫌だ……! やめろ! 誰か助けて!!
必死にホームにしがみつく。爪を立てて抵抗する。
がりがりがり。
爪が割れ、指先に血が滲む
がりがりがりがりがりがり。
それでも抵抗する。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
がりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがり。
誰も俺を見ない。
誰も俺に気づかない。
誰も。誰も。誰も。誰も。誰も。
電車は止まらず。
恐ろしい勢いのままホームへ入り、
そして