それは少し前の事
「河野は凪のことどう思ってるの?」
高校生の時。そう問いかける友人の声を私はドア越しに聞いていた。
河野、というのは青葉のことだ。
どくどくと心臓が逸っていたことを良く覚えている。耳を塞ぎたいような、でも答えを聞いてみたいような、支離滅裂な感情に支配されてその場から一歩も動けなかった。
どうして二人がそんな話を、という疑問がぐるぐると頭を巡る。
それを払うように聞き馴染みのある声が言った。
「なんだ、いきなり」
どこか鬱陶しげな青葉の声。
「だって、年頃の男女がずっと一緒にいるのに付き合ってないって不思議じゃない」
友人――新藤桃花はそれに臆した様子も無くそう言ってみせる。
「それは人それぞれだろう。誰しもに当てはまる物ではないと思うが?」
対する青葉はまるで台本をなぞるような淡々とした口調で答えた。
「えー、そうかなあ。じゃあ、河野は恋愛的な意味で凪のことが好きなわけではないの?」
桃花の少しからかうような声色がさらに追求する。
「それに答える義理は無いな」
「あ、はぐらかした。やっぱり好きなんでしょ?」
「…………」
そうして青葉が押し黙ると鈴の転がるような笑い声が響いた。
「良いじゃん、誰にも言わないから教えてよ」
青葉にここまで物怖じせずにあれこれ言える人間というのはそう多くない。
青葉があまり人を寄せ付けようとしないのが理由の一つだ。
桃花はそういった面倒なことは全く気にしない希有な存在だった。
「凪は河野のこと好きだよ」
たまに、こうしてとんでもないことを言い出しはするが。
思わずひゅっと喉が鳴る。声が出ないように慌てて口を押さえた。
全く動いていないのに体温が急上昇したように全身が熱い。
戸惑いとか怒りとかそんなものは全くなく、ただ恥ずかしかった。
私はいつ彼女の前でそんな素振りを見せたのだろうか。
「凪がそう言ったのか?」
「そうじゃないけど、見てればわかるよ」
そんな私に気付いた様子もなく二人は話を続けている。
「……それが本当だとして、あいつが言わないのなら大きなお世話だろう」
「だって、誰かが言わないと二人とも絶対に隠し続けるじゃない」
まるで拗ねた子どものようにそう零す桃花。それに青葉は静かに息を吐く。
「新藤は、思ったよりも周りをよく見てるんだな」
「思ったよりって何?」
「すまん、つい口が滑った」
一呼吸を置いて青葉はまるで言い聞かせるように言った。
「そこまでよく見てるなら、わかるだろう?
俺が嫌いな人間とわざわざ一緒にいるような酔狂な人間じゃないということは」
口を押さえる手に力を込める。気付かれてはいけないという強迫観念のようなものが私の中に芽生えていた。
「婉曲な言い回しで嫌な感じ」
音の高い口笛を吹いてから桃花が答える。口調から唇を尖らせている姿が目に浮かんだ。
「好かれたいとは思っていないからな」
はは、と心の籠もらない青葉の笑い声が響く。
それから少しの静寂の後、ぽつりと桃花がこぼした。
「……付き合わないの?」
「ああ」
「何で?」
答えるのに少し間が空いて、青葉が言う。
「新藤、ここから先は俺と凪の問題だ」
それにもう既に早鐘を打っていたはずの鼓動が一際大きく震えた。
私は物音一つ立てないようにしていたのに。
その言葉は桃花と『私』に向けられた言葉だと直感的にわかった。
確証はない。けれど「でも」と食い下がる桃花が何を言っても、その後に青葉が答える事は無かった。
そこで私がすぐに教室に入ったかと言えば、そんなことはなく。
極力足音を立てないように気をつけながらトイレに逃げた。
そして、鏡でしばらく自分の顔とにらめっこをしてから戻ったのだった。
教室に入った時には二人はいつも通りで、以後、そういった話題が上ることも無かった。
あの時どうしてすぐに教室に入らなかったのか。当時はよくわからなかったが、今ならわかる。
あのまま中に入ったら私と青葉の関係が変わってしまう。それがたまらなく恐ろしかったのだ。
私はこの関係を変えたくなかった。
青葉もそれを望んでいたのかもしれない。
少なくとも、今のままでいること。それは紛れもなく私の望みだった。