番外編2 有川朔実(上)
雨上がりの静かな深夜だ。
隣の部屋から聞こえてきたすすり泣くような声にボクは耳を澄ませていたんだ。
なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで?
なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで?
なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで?
──なんで?
床に何か投げ捨てる音と、それが転がる音が微かに聞こえた。
なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで?
なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで?
なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで?
深夜に聞いた彼女の声が、今もボクの頭の中に流れている。
・
ボクはアパートの隣の部屋のドアをノックする。
ドンドン! ドンドン! と強く叩く。
「たっ、大変です! 助けてください! 助けてください!」
必死に言う。
演技する必要なんかない。だって、ボクは本当に助けを求めているのだから、どうしたってそういう声になる。
「大変なんですッ! 開けてくだ……」
「どっ、どうしたんですか? あ、お隣さん?」
バンッとドアが開いた瞬間、ボクは倒れ込みながら部屋に入って、ドアを指差して叫ぶ。
「閉めて! 閉めてください! 急いで! すぐにドアを閉めてください!」
「はっ、はい!」
女の子は慌ててドアを閉めた。
「かっ、鍵も! 急いで!」
「はっ、はい」
急いで、かちゃり、と鍵をかけた彼女の名前は有川朔実。
僕と同じ高校一年生だ。
絶妙に野暮ったい長い三つ編みに重そうな黒縁の眼鏡をしている。ロボットアニメとかで序盤に惨殺されそうなキャラクターの雰囲気があると思う。
明るく薄幸そう、って言えばいいのかな?
「どうしたんですか? 強盗ですか? 泥棒ですか?」
有川朔実は不安そうに言いながら、倒れ込んでいるボクに近づき気づいたように、
「あっ、お隣さん……です、よね?」
「そうです」
何度か挨拶をしたことがあるので、互いに顔は知っている。
だけど違う学校に通っているから、有川朔実さんは僕の名前を知らないだろう。
僕が彼女の名前を知っているのは、一階にある郵便受けを勝手に開けて名前を確認したからだ。
「話を聞いてください」
「はい」
有川朔実がうなずいたのを見て、僕はズボンのポケットに隠していたナイフを出した。刃渡りは10センチくらいだ。
「どっ、どっ、どうしました? 誰か襲ってくるんですか?」
有川朔実はすぐにナイフから視線を外し、慌ててドアの方を見た。
──ああぁ、と思う。
ナイフを見ても、ボクが襲い掛かるとは思っていないのだ。
ボクが護身のためにナイフを出したと思っているのだ。
「有川朔実さん。あなたはムーンライト・グリーンなんですよね?」
「えっ?」
目を丸くしてボクを見る。なんて素直な反応だろうか。
ボクはもう一度、ゆっくりと言う。
「有川朔実さん。あなたはムーンライト・グリーンなんですよね?」
「ちっ、違いますよ」
長い三つ編みを揺らし、露骨に目を泳がせて言った。
「ボクは知ってます。有川朔実さん、あなたは魔法少女、ムーンライト・グリーンだ」
「わ、私は……。どっ、どうして知っているんですか?」
そんな簡単に認めてしまうなんて、あまりにもあまりにも人が良すぎるんじゃないかな、って思う。
「あ、まさか……ンッ!」
彼女はステップを踏んで俺から離れるとドアを背にして立った。
入り込んできたボクを逃がさない、という立ち位置なんだと思う。自分が危険な目に合うのはいとわない、という姿勢だ。
腰を落とし、両手を前に出すファイティングポーズをとった。
思った通りだ。普通の女の子は……いや、女の子に限らず、男の子だって、男だって、女だって、ナイフを持った相手と戦おうだなんて、即座には判断できない。
決定的な瞬間を想定して生きていないと、決定的な瞬間に対応できないと思うんだ。
彼女は、ごくり、と生唾を飲んで、
「あなたは、ネクロノミコン騎士団の仲間なんですか?」
「そう見えますか?」
「そう見えないから確認しているんです。……あなたからは、その、えっと……あの……えっと。見えないから」
「見えないって何がですか?」
「えっと、その。ネクロノミコン騎士団に関係する人達の体からは、その、普通の人には見えないあれが、見えますから。ほら、あの、えっと……なっ、なんて言えばいいんでしょうか?」
「……?」
「わ、わかりませんか? ほらアニメとかで強い人が体から変な光とかを発するじゃないですか? えっと……闘気? それで伝わりますかね? 全身からこう、ぼわ~~~、ってなってるのです」
「はっ、はい? ぼわ~~~」
「通常の知覚ではなかなかわからないもので、その、アレでして、その……」
ファイティングポーズをとるために前に出していた両腕を上下にわたわたとふり始めた。
「なんて言えばわかりやすいのか……」
そんなことで悩まれてもな。
「もしかして、オーラとかそういうのですか?」
「そ、そうです! それです! あの、私達の業界? あの隠語? その、そういうのではイリアステルっていうんですけど……。その、そういうのがあなたからは見えないですから」
そんなにちゃんと説明してくれるなんて、いい人過ぎて不安になる。
「あの、そういうことを言うってことは、あなたがムーンライト・グリーンで間違いないってことですよね? だって、今の会話、あなたが魔法少女だって、告白したようなものじゃないですか」
「あっ! えっと……えっと!」
困ったように顔をくしゃくしゃにしてから、
「ちっ、違います!」
「違うって言うの、無理ありませんか?」
「わ、忘れてください。あなただって、私が魔法少女だって知ったら面倒なことになるんですよ! えっと、最近は、その、魔法庁の法整備? よくわかんないですけど、魔法少女のプライバシーを守るための法律だってできてるんですから」
「ボクが今日のこと忘れたら、それで終わりになることなんですか?」
彼女はにっこりと笑ってうなずく。
「はい。もちろんそうです。何もなかったことになるに決まってるじゃないですか」
「ねぇ、有川朔実さん」
名前を呼んだ瞬間、緊張が走った。
「オレ、知ってるんですよ。あなたから警備が外れる時間がありますよね?」
「えっ? 警備?」
「あ、もしかして知らなかったですか? 有川朔実さんに警備がついてるんですよ」
「えっ? えええっ? わ、私、警備されてるんですか?」
「大切な魔法少女なんだからついてるでしょ。でも、魔法庁って人員が全然、足りてないんですね。警備がついてない時間の方が長いんですよ。今、ついてない時間ですよ」
「どうしてそんなこと知っているんですか?」
「ダークウェブって知ってます?」
「しっ、知りません。なんですか、それ?」
「特定のソフトを使わないと見えないネットですよ。違法取引をしている人らがよく使ってるものです。そこで、魔法庁の資料を流してる人を発見したんです」
「ええっ?」
「魔法庁ってそういうのうといんですかね? 警備の、時間割、を入手しました」
何を考えているのか、有川朔実が両手を不気味にわきわきさせる。
「そこまで調べたナイフを持った男が、何もなかったことにすると思いますか?」
有川朔実は再び、ごくり、と生唾を飲んで両手を、だらり、と下げた。
なんて感情が分かりやすい人なんだろう。
「あ、あなたは……。ネクロノミコン騎士団の関係者じゃないんですよね?」
「違います。その、なんでしたっけ? 椅子がある、みたいなの」
「イリアステルです」
そう、ネクロノミコン騎士団に関係する奴からは見えるオーラみたいなもの──。
「ボクからはそれが見えないんですよね?」
「見えません。だから、あなたは、その……。魔法を使える人じゃないんだってわかります。いったいどういう目的で私の部屋に来たんですか?」
ボクは顎を引いて、彼女の目をじっと見つめる。
「……変身してください」
「えっ? どっ、どうしてですか?」
「話はそれからです。変身してください」
「理由を教えてください」
「変身してくれたら理由を教えますよ」
「先に理由をお願いします。無意味に変身したくないんです。まさか、好奇心を満たしたいだけじゃないですよね?」
「違います。もっと、ひどい理由です」
「ひどい?」
「そうです。ひどい理由なんです。それでも、変身して欲しいんです」
「だっ、ダメです! 人前で簡単に変身しちゃダメなんです」
「どうしても?」
「どっ、どうしてもです。はい」
オレは腕を振り上げて、
「ふんっ!」
自分の肩にナイフを突き刺した。
ぶっちんっ、と皮膚に穴が開く音が体の中で響いた。
するっ、と入っていくのかと思った。
結構、手ごたえがあるし、皮膚と肉とでは刃物が入っていく時の感触が違う。
有川朔実は自分の口を両手で隠して悲鳴を呑み込んだ。
「なっ、何をしているんですか! どうしてそんなこと……」
「あなたが変身してくれないからですよ。変身してくれないと他の場所も刺します」
「……ッ!」
「有川朔実さん。変身してくれないなら、俺はあなたの前で穴だらけになって死んでやるつもりなんです。そういう姿を見たくないんだったら、変身してください」
「そっ、そんな、滅茶苦茶な……」
オレは力を込めて有川朔実を見つめる。
彼女は魔法少女なのだ。
他人の痛みを自分の痛みのように感じるタイプの人間なはずだ。
「変身してください。しないなら俺はここで死にます」
オレは肩にささったナイフの柄を強く握って、彼女をにらみつける。
「わっ、わかりました。変身しますから、絶対にナイフを抜かないでください! 抜いたら、血がたくさん出て大変なことになりますから」
刺さった時は切断された血管が塞がってる状態だからまだ安全なのだ。出血は抜いた時に始まる、らしい。本当か嘘かは知らない。だってボクは刃物で刺された人を見たことない。
「いいですか? そのまま、そのままですよ」
こんな時でも、隣の部屋の住人でしかないオレの心配をしてくれるんだな。
有川朔実さんはポケットに手を入れると、ゆっくりと緑色のステッキを取り出した。
「ムーンライト・ライトチェンジ! グリーン!」
瞬間、室内の空気が彼女を中心に渦巻き始めた。
ッ!
マグネシウムを燃やしたかのような強い光に部屋が包まれ、反射的に目を閉じる。
まぶたを開いた時、そこにいたのは有川朔実ではなく、ムーンライト・グリーンだった。
緑を基調とした、クラシック・チュチュ。
床に届きそうなほど長く太い三つ編みは緑色。
片方はハイソックスで、もう片方はオーバーニーソックス。
大きなリボンのついた厚底のクロスストラップシューズはもちろん緑色。
誰がどう見ても、魔法少女の姿だった。
「…………」
ムーンライト・グリーンは胸の前で腕を組んで、なぜか恥ずかしそうに斜め下を向いた。
「へっ、変身しました」
「うん。申し訳ないけど、靴を脱いでくれないか? 落ち着かないんだ」
「靴ですか?」
「部屋で靴は変でしょう。脱いで」
「はっ、はい」
ムーンライト・グリーンはもそもそと靴を脱いだ。
「それで、私に変身させた理由は……」
「靴下を脱いで。なんだかその靴下、暑苦しいから」
「……変身したんです。理由を言ってください」
「靴下を……」
「理由を言ってください」
このまま勢いでどんどん脱がせるかと思ったけどさすがにそれは無理か。
「半年前の静かな夜のこと覚えてます? 雨がやんだ直後の時間ですよ」
恐いくらい静かな夜だった。
さっきまで雨が降っていたから誰も道を歩いていない。
よく吠える近所の犬も黙り込んでいる。
近くの国道を走る自動車の排気音も聞こえない。
無数の偶然が重なった、奇跡のような静寂だった。
こんな状況でなければ、きっと聞こえなかった音。
「この部屋から、なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? って繰り返しつぶやく声が聞こえたんだ」
「……あっ。そっ、それは」
「普段なら無視していた声だと思うんだ。音楽を聞くでもいい、漫画を読むでもいいし、ネットするでもいいし、ほんのちょっと何かに集中すれば、いや、集中ってほどのことでもないか。意識をどこかに向ければ、聞こえなくなる声だと思う。だけど、その時はなぜか気になって、耳を澄ませてしまったんだ」
「…………」
「有川朔実さんの、どうして私が魔法少女に、って声も聞こえてしまったんだ。そのステッキを投げる音もね」
「だから、私が魔法少女だって気づいたんですね。その時は……ご迷惑をおかけしました」
「いや、そんなの気にしてないよ。ボクは、その……。申し訳ない気持ちでいっぱいだったんだ」
「……どういうことですか?」
「だって有川朔実さんは魔法少女になりたくなかったんだろう?」
「……今は違います。ちゃんと責任をもって、みんなのために戦うつもりです」
「今は違うとしても、昔はなりたくなかったんだろ?」
「……そうですね。あの夜は、その……。いきなりな話でしたから、プレッシャーに耐えかねて泣いてしまいました」
「ボクはキミが魔法少女になって辛い目に遭っているってわかっているのに、何もすることができない」
「そ、そんなことないです!」
ムーンライト・グリーンは三つ編みを左右に振り回すようにして首を振った。
「そう思ってもらえるだけでも、その……。わ、わたし! がんばれます! 私のことを想ってくれている人がいるだけで、その……えっと、ふっ、ふんばり!」
「ふんばり?」
「はい! ふんばりが違いますから! そう思っていただけているのを知っているだけで足に力が入ります! 恐くても逃げないぞ、って勇気になりますから」
俺を元気づけるように言う。
この状況でそんなこと言うって、どこまでお人好しなんだ。
「あのさ。ボクがそういう気持ちだけだったら、この部屋に入って、自傷行為をしたりしないよね?」
「あっ……。はっ、はい。言われてみればそうですけど……」
「恐がってすすり泣いていたのにさ、キミはみんなのために戦うことを決意したんだろ」
「そっ、そんな大げさなことじゃないです。自分にできることがそれなら、した方がいいんだろうな、って思っただけで……」
「それが立派なんだよ!」
「えっ? はっ、はい。ありがとうございます」
ムーンライト・グリーンはペコリと頭を下げた。
「泣くほど嫌な事だったのに、がんばるって凄いよ。そういうキミが隣の部屋にいるのに、ボクは何もできないんだ。自分がみじめで、みじめでさ……」
「そっ、そんなこと……」
「あるよ!」
「ッ!」
「あの夜から、ボクの胸の中に炎があるんだ。キミが、ムーンライト・グリーンが灯した炎なんだ」
「……炎? あの、もっと具体的に喋ってくれませんか」
「具体的に?」
「はい。具体的にお願いします」
「強姦したい」
ムーンライト・グリーンが静止した。




