母と娘
「できた……!」
「見せて。おお、凄い。ちゃんと輝いてる」
僕を見上げて、宇多が微笑んだ。
今朝、僕の部屋に来た時から沈んだ様子だったけれど、今は少しだけ表情が明るい。
その心中は察するに余りありすぎて、僕はあたりさわりのない話を続けることしかできなかった。発注ミスをした話とか、ツイッターで見つけたささやかだけど幸せな話とか。
宇多の様子が心配で、緊急で大変申し訳ないけれど、今日は仕事を休ませてもらった。頼りになる従業員には、足を向けて寝られない。
宇多の作った銀のリングは、円を描くだけで特に装飾もないシンプルなものだった。どんな場面でも使えるように、というのが宇多の願いだ。
詩織さんの指のサイズはわからなかったから、宇多の人差し指と同じサイズ。指輪として使えなかったら、ペンダントとして使えばいい。
「とても、いいね」
「うん」
僕らは笑みを浮かべて頷き合う。
まだお昼までだいぶ時間がある。このまま家に帰ってもらうのもなんだし、あれを渡しておこうかな。
僕が立ち上がった時だった。
ものすごいスピードでヒールの高い靴が近づいてくる音が響いて来た。かと思うと、これ以上ないくらい激しく、玄関のドアが開いた。
「失礼しますっ! 宇多っ、どういうことなの!」
ドアの向こうから飛び込んできたのは、いつもはきちんとセットされた髪をふり乱した、
「お、お母さん……?」
反射的にこたつ机に手を置いて立ち上がった宇多は、目を丸くしている。
お母さん、詩織さんは、きつく眉間に皺を寄せ、一直線に宇多の前に走り寄った。
「木崎さんから、さっき電話がかかってきて荒唐無稽な話を聞いたんだけど、冗談よね、冗談だと言って」
両腕をつかまれ、がくがくと揺さぶられながら、宇多が非難の眼差しを僕に向ける。
店での緊急連絡用に聞いた電話番号を勝手に使った僕は、謝るしかない。
「ごめん。でも、君の大事な一日が、大切な人と過ごせないうちに過ぎていくのは良くないと思ったから」
どう足掻こうとも、目の前に詩織さんはいる。
宇多は観念したように目を閉じると、覚悟を決めた顔で母親を見上げた。
「仕事は? 抜け出してきちゃったの?」
「仕事より宇多が大事! ねえ、何があったの。話してよ、宇多」
そう言って詩織さんは宇多の頬を撫で……びくりと体を竦ませた。冷たかったから、だろう。
もう一度、その頬を両手で包む。詩織さんの顔がこれ以上ないくらいに強張った。指先に伝わるそれが、人間の体温じゃないって、わかってしまったのだ。
そして、僕が電話で話した通りに脈を測ると、みるみるうちに美しい顔が歪んいく。
「お母さん、泣かないでよ……」
詩織さんは号泣した。
震える腕で宇多を抱き締めて。
宇多の体を、いや、魂を離すまいとするかのように、その手は宇多の服を皺になるほど掴んでいた。
僕は見ていられなかった。
詩織さんの激情もだけど、唇を噛んでそれを受け止める宇多の、必死に泣くまいとする姿を。
そうしてしばらく経った後、詩織さんが僕を振り返る。
その目は赤く、怒りに満ちていた。
「どうして、もっと早く教えてくれなかったんですか。こんな重大なこと、私に真っ先に知らせるのが筋でしょう。私、何かしました? こんなに大切なことを秘密にされるくらいに、迷惑をかけたのかしら?」
鋭い棘を含む声。
今まで、明るい声を聞くことが多かったから、僕は怯んだ。
ただ、彼女の怒りはまっとうだと思う。僕は頭を下げることしかできない。
「お母さん、木崎さんは悪くないの。私が、言わないでって頼んだから」
「あなたは黙ってて。これは良識の問題よ。子供に言われたからって、伝えるべきことを親に伝えないのはおかしいわ。世界で一番大事な宇多のことを、母親である私がなぜ、後で知らされなきゃいけないの。理不尽よ。説明を」
「待って。それ以上は言わないで」
まくしたてる詩織さんを遮ったのは、宇多だった。
いつも通り、表情の動かない宇多は、激高している母親に静かに話しかける。
「お母さん。私だって、お母さんが世界で一番大事。一瞬でも、一人ぼっちにしたくないって思ってる。一緒に旅行に行ったり、おいしいもの食べたり、そういう普通のこと、もっともっと一緒にしたい。親孝行するチャンスはたくさんあるんだって勝手に思ってて、悔しい。ごめんね」
「宇多……」
「それから、お父さんがお母さんを殴ったり蹴ったりしてたとき、止められなくて、ごめん。もっとできること、あったんじゃないかって今も時々思う」
「宇多……そんなの、そんなの……」
娘を見下ろす詩織さんの目が、再び潤む。
宇多は詩織さんが再び泣き出す前に、机に置いてあった指輪をそっと手に取った。そして、母の手にそれを握らせる。
「これ、プレゼント。ラッピングして渡すつもりだったけど。私が木崎さんのお店で働いて稼いだお金で作ったのよ。内側、見て」
そこに彫られた文字は『大好き 宇多』。
「私が残したい言葉は、それだけだから」
微笑む宇多が、とても可愛くて。
見ているだけで胸が苦しくて。
僕も詩織さんも、机の上のティッシュを大量消費して鼻をかんだ。
宇多の目も潤む。でも彼女だけは、泣かなかった。
詩織さんの立ち直りは、早かった。
「冗談じゃない。まだ、一日は終わってないわ。今日はあんたとべったりくっついとく。猫の言い分が本当かどうか、はっきりとはわからないけど。死神が来ても、絶対にお母さんが宇多を守ってあげるからね!」
立ち上がった詩織さんは、こぶしを握って窓の向こうに叫んでいる。パワフルな女性だ。いや、宇多の手前、そうせざるを得ないのか。
僕はポケットのスマホを手に取り、データを呼び出した。それを詩織さんに見せる。
「これ、昨日の写真です。宇多さん、真面目に働いてくれて。商店街にも行きました」
詩織さんの顔が輝いた。「写真なんて普段撮らないから、変な顔」と言い訳をする宇多も、興味深げにスマホを覗き込む。
商店街での笑顔、真剣に仕事をしている横顔、指輪を作っている所、それから、鈴木さん達従業員と僕と一緒に『Paquete』の店内で撮った写真。
十枚ほどのそれを、説明と思い出を交えながら宇多と詩織さんは時間をかけて眺める。持て余す感情を互いに必死に押し隠して。
そして、宇多が唐突に僕を見た。
「ねえ、写真、取ろうよ。木崎さん、お願いします」
お、いいアイディアだ。
「いいよ。それじゃ二人とも、そこに並んで」
スマホを返してもらってかまえると、
「木崎さんも、こっち。タイマーにして」
「え? は、はい」
強引に腕を取られた。位置を調整してスタンバイ。
味もそっけもない僕の部屋で、三人が小さなカメラに向かって笑みを作る。
「5、4、3、2……」
カシャリ。
硬質な機械音が、こんなに胸を絞られるものだなんて、初めて知った。
写真の中で笑みを浮かべる少女は。
新しい年になっても目を覚まさなかった。