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私、死んじゃうんです。


 翌日の朝七時半。窓から見える空は快晴。部屋の中は氷点下かと思うほどに寒い。


 あくびをかみ殺し、エアコンのスイッチを入れて、僕は緑茶を宇多の前に置いた。昨日のホットミルクは手つかずだったから、好みじゃなかったのかもしれない。

 こたつ布団を握りしめて俯く宇多は、セミ採りに失敗して藪の中に突っ込んだ子供のような顔をしていた。つまり、昨日のアイディアは成功しなかったということだろう。

 昨夜は店の用事で僕は帰宅が遅く、帰ってすぐに余り物のポトフをつついて、風呂に入って寝た。正直、壁の向こうの住人のことなんて忘れていたのだ。今朝、目覚まし時計の代わりにチャイムが鳴るまでは。


「……お母さん、昨日は急に飲み会が入って。私の晩ご飯には、デパ地下の二千円もするお弁当を買って来てくれました。ポトフを見せたら喜んでくれたけど。夜も遅いし、お腹いっぱいだから明日の夜、味わって食べるねって。朝はいつもヨーグルトだけなので」

 木崎さんによろしくお伝えください、だそうです。

 小さな声。表情は変わらないけど、悲しいとか無念だとか、そんな空気が宇多の全身からにじみ出ている。僕もなんとなく肩透かしを食らった気分。

「喜ぶ顔を期待してたのに、結果がそれじゃ拍子抜けもするか」


 宇多の力の入れようは昨日、一緒に台所に立った時、いや、この部屋に侵入してきた時からわかってる。

 もっとも、相手を喜ばせたいという思いは尊いが、それに報いる対価を求めてしまうのはエゴかなあと思う。


「まあ、そんな日もあるよ。いいじゃないか。今夜、食べてもらえば」

 湯気の立つ緑茶に口をつけながら僕は言う。熱っ。舌をやけどした……。

 しかし、宇多は強く首を振った。

「今日は別の恩返しを考えたかったんです。もっと、もっとたくさん、私はお母さんに感謝してるって伝えたいから……」

 硬い口調に、僕は眉をひそめた。何をこの子はこんなに必死になっているのだろう。

 疑問の目を向けた僕に、宇多は唇を噛んで再び下を向いた。そのまま一分が経過しても、口を開こうとはしない。

 さて、どうしたものか。

 部屋が隣とはいえ、長く話をしたのは昨日がほとんど初めてだ。性格信条その他諸々、取り扱い方がわからない。……ひとまず顔を洗って飯を食うか。それから着替えて。


 考えながら、こたつから這い出そうとした時だった。

「私、明後日の夜に、死んじゃうんです」

 上ずった声。

 僕は思わず動きを止めた。振り返ると、宇多が僕をじっと見ていた。

 大きな黒い目は、濡れたように光っている。テーブルの上の小さなこぶしが、白くなるほど握られていた。


 宇多は戦慄く唇で、言葉を紡いだ。

「三日前、下校中に道路に飛び出した猫をかばって、車にぶつかったんです。気を失って、気づいたら病院のベッドの上で、お母さんが心配そうな顔をして椅子に座っていました」

「それは……大変だったね」

 昨日も今日も、健康そうだけど。

 労る言葉だけかけると、宇多は一つ頷いた。

「大きな怪我もなくて、一応一晩、検査入院をして帰りました、でも」

 言葉を選びながら、宇多は僕の表情を見逃すまいとするように強く見つめてくる。


「病室に真夜中、あの、私がかばった猫が現れて言ったんです。『頼んで助けてもらったわけではないが、私の命を半分あげる。五日後の夜まで生きられるようにしてあげるから』って」


「ねこ」

「はい、猫です。……寝ぼけて夢でも見たんだって思ってるでしょう?」

「そ、そうだね。生憎、僕は日本語を喋る猫というものを見たことがなくて」

 彼女を傷つけず、どう現実に返らせればいいのか。僕は困惑した。なおさら困るのは、宇多の表情があまりにも凛々しかったからだ。悟っちゃってる、みたいな。


 宇多は覚悟を決めるように一つ息を吐くと、テーブルの上に、自分の腕を乗せた。

「病院から帰った翌日は、お母さんが仕事を休んでついていてくれました。でも、どうしても言えなかったんです」

 献血の時のように袖をまくりながら、淡々と宇多は言う。

「夕方に、自分の心臓が止まったことを。それなのに、喋って動いていられることを」

 自分の脈を取れと、僕に腕を差し出す。一歩も引かない面構え。

 僕は肩を竦めた。仕方がない。どうせ脈の測り方を間違えたんだろ、と僕は細い手首に触れて……。


 反射的に手を放した。

 宇多の手が、ごとりと机の上に落ちる。

 静かな室内に、その音はひどく響いた。


「ご、ごめんっ、あんまりその」

 冷たくて。

 慌てて謝ったけれど、顔は間違いなく引きつっていたと思う。


 その手は、人間の体温を宿していなかったのだ。

 例えるなら、冷たいゴム。

 体温が低いのとは明らかに違う。


 宇多は、口元だけで微笑んだ。

「……蝋燭の火が消えるみたいに、体から抜けていくんです。最初は心臓の音。次に空腹の感覚。その次は温度を感じることでした」

 呟く声は弱々しい。

 僕は再度彼女の手首を取った。脈を測る。元気に飛び跳ねているだろう、そうであって欲しいという願いは、あっけなく散った。

 脈がないのだ。本当に。

 信じられなくて宇多の横に座る。首に手を当てた。冷たい肌には、生者の証である血の流れも鼓動も、何も感じられなかった。


「温度がわからないって不便ですね。熱いお茶を飲んだせいと思うけど、口の中の皮がはがれてたり、昨日は、お風呂のお湯がぬるいってお母さんに文句を言われちゃいました」

 そうか。冷えたこたつ、はともかく、飲み物に口をつけなかったのは、熱さがわからないから。ポトフの味見は、僕の様子を見て、触れられる熱さを量っていたのだろう。


 身の内から湧き上る何かを堪えるように、宇多は何度も震える息を吸って、呟く。

「そっか……もう……、もう体温も、なくなってたんだ。自分じゃ、わからなかったなぁ」

 耐えられなくなったのか、強く目を閉じたその端には、光るものが滲んでいた。


 テーブルに投げ出された、頼りないほどに細い腕。

 考えるより先に、手が伸びていた。

 目の前の艶やかな黒髪に手を乗せる。僕の手にすっぽりと収まる、小さな頭。


「詩織さんに言わないのか。それか、ええと、猫を探してどういうことか説明させるとか」

 猫に状況説明を要求? 何言ってんだ。でも現状で変なことが起こってて、原因は猫らしいし……他に、どうすればいい?

 宇多はちらりとも笑わなかった。

「あの猫の家は知りません。名前も。それに猫の言うことが本当なら、しらみ潰しに探す時間が勿体ないです。探していきつかなかったら、私の最後の時間は無駄に終わってしまう。明後日の朝に無事なら、笑い話になるだけです。でもこの体が、嘘じゃないって証明してます」

 決めつけるのは早い、と言おうとした。ありきたりなそんな言葉しかもたない自分が歯がゆい。

 しかし、僕が声に出す前に、

「お母さんには言えないです。私がいなくなったら、お母さん、一人ぼっちになっちゃう。打ち明けて泣き暮らすより、最後の瞬間まで、お母さんには笑っていて欲しいんです」

 少女はゆっくりと、腕を引き寄せる。その頼りないほど薄い体は、震えていた。

「心臓が止まってから、布団の中で泣きました。お母さんの前では平気なふりして。死ぬことについて頭が考えるのを拒否して。泣いても目は赤くならなくて、私、何も悪くないのにって、混乱して……怖かった」

 無表情のまま、涙が幾筋も頬を伝っている。

 僕はその頭を、黙って撫で続けることしかできなかった。どうやって彼女を慰めればいいのか、わからなかったから。

 宇多はしゃくりあげるのを必死にこらえつつ、くぐもった声で続ける。

「……でも、昨日の朝、思ったんです。せっかく教えてもらったカウントダウンを、無駄にしたら駄目だって。じゃあ、できることって何だろうって考えた時、お母さんのために、何かしたかったんです」

 たくさん、たくさん、恩返しをしたいけど、私、全然、思いつかなくて。

 宇多が僕の服に細く白い手を伸ばす。次第にしがみつく強さになるその手に、僕は戸惑いと、やりきれなさを感じた。

 この子は、助けを求めてる。


「記念に残る物に、しないか」

 言わずにはいられなかった。


 子供が泣いて助けを求めているのに、知らんふりをして通り過ぎることはできない。

 宇多の願うとおりに詩織さんを喜ばせることはできないかもしれないけれど、手を差し伸べることはできる。

 事実かどうか、わからないことはこの際、いったん保留にして。

 力に、なりたい。


「詩織さんが、いつだって君のことを想い出せるような、そういう特別なプレゼントを探さないか」

 ぎこちない動きで、宇多が涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。

「お、お年玉とか、い、今までに貯めてた、お金で、た、足りる、でしょうか……」

「うちの店でよければ、お得意様割引を適用するよ。出血大サービス。秘密だよ」

 涙の痕を服の袖で拭った宇多に、へたっぴながらウインクなどしてみる。少しだけ、宇多の顔が和らいだ。

 僕は立ち上がり、力任せに引っ張り上げた。驚きに目を見開く宇多。うん、泣き顔より、よほどいい。

「出かけよう。いいものが見つかるといいな」



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