強引な女の子
十二月。今年最後の月曜日。
不意打ちのチャイムの音で起こされた僕は、ドアを開けた瞬間、吹き込んできた冷風に気が遠くなった。
朝七時半。目に飛び込んできた空は、悲しいほどに澄んでいる。クリスマス商戦も終わり、今年ももうすぐ終わる。その現実を受け入れたくない人間が、世の中にどのくらいいるのだろう。少なくとも、ここに一人……。
「あの、聞こえていますか?」
訝しげな声に、はっとして視線を下げる。
玄関のドアに隠れるようにして、女の子が一人、こちらを見上げていた。チャイムの主か。
紺色のダッフルコート。緑色のマフラー。肩で切り揃えられた黒い髪。吊り上がりぎみの大きな目。白い頬に赤い唇。ギャルっていうより清楚系の女の子だ。
どこかで見たような。ああ、アパートのお隣さんだ。たまに野菜や夕飯のおすそわけをくれるシングルマザーの子供。高校二年だったはずのこの子は確か……綾月宇多、さん。
「あ、何?」
首を傾げると、無表情だった宇多はわずかに顔を歪めた。
寝ぐせのついた茶髪、着古したスウェット姿の二十八歳独身男に、引いたのかも。
彼女は真面目な顔で一気に言った。
「お母さんに日頃の恩返しをしたいと思うんですけど、肩たたき券とか、それくらいしか思いつかなくて。何かいい案がないか、一緒に考えてくれませんか?」
「……何故、僕」
たぶん、百人中九十九人はそう言うはずだ。
彼女はきっぱり言い切った。
「色々と総合的に判断した結果です。ちなみに学校は冬休みで、母は仕事に行きました。どうですか。協力していただけませんか」
言いつつ彼女は手でドアを支える僕の体を押し退けて、部屋に突進した。……は?
「ちょっ、えっ、待って待って」
「ここで話すのも何なので、部屋に入れてください。わあ、こんなところに綿ぼこり」
「君は意地悪な姑か! いや、違う、少女連れ込みとか、ご近所に噂が立ったら」
「その時は全力で否定します。ご心配なく」
一切の感情を排した声でクールに答えた宇多は、さっさと靴を脱ぐと部屋に上がった。マジか……。最近の子って怖い。押し売りよりも強気かよ。
アパート二階の間取りは2LDK。広さの割に家賃が相場より安いのは、築二十年が経過していて、木造だからだ。壁が薄いし窓の向こうは隣のマンションの壁。だけど、近くにスーパーもあるし、悪くない住居だ。
「話していいですか?」
宇多は部屋の真ん中に鎮座したこたつにもぐりこむと、真面目な顔で僕を見上げた。
冗談だろ……と部屋の入り口で立ち尽くした僕に、宇多は「どうぞ座ってください」と言う。家主よりも家主らしい態度だ。
この子を追い出す手順を考え……最終的に僕は考えることを放棄した。面倒くさくなったのだ。ほどほどに話を聞いて、家に帰せばいい。出勤時間にはまだ余裕があるわけだし。……寝起きの頭では、それだけ結論を出せれば十分だ。
砂糖をちょっぴり入れたホットミルクを出して、僕は宇多とは反対側に座った。こたつはひんやりとしていた。電気がついてない。……ま、この冷たさに気づかないくらい、本当は緊張しているのかな。いや、単に、人んちの電化製品を勝手に使用しないように、という躾か。
「それで、お母さんの誕生日でも近いの? 恩返しって」
視線だけを動かして室内を観察している宇多に、とりあえず聞いてみる。玄関の綿ぼこりは想定外だが、汚くはない、はず。
はっとした顔で居住まいを正した少女は、あまり表情筋を動かすことなく僕を見た。
「事情があって、お母さんを驚かせたいんです。お母さんのこと、知ってますか?」
事情ってなんだろう、と思いながら頷く。
「たまに特売の野菜とか、わけてくれるよね。作りすぎたおでんとか」
「お母さんのおでん、美味しいですよね」
「そうだね。保険会社で働いてるんだっけ? 仕事しながら家事もして、すごいな」
確か、三十代半ばの和風美人だ。いつ見ても綺麗に化粧をしていて、背筋を伸ばして歩くキャリアウーマン。そして明るい。世間話が面白い。雑貨屋の雇われ店長の僕とは、アパートの部屋が隣という万に一つの偶然でもなければ、人生の接点などなさそうな女性だ。
宇多は瞳を輝かせた。今日初めて見せる、年相応の顔。
「そうなんです、お母さんはすごいんです。仕事が大変でも、夜九時までには帰って来てくれるし、私が病気になったら仕事を休んでくれるし。たまにお酒を飲んで愚痴る時はありますけど、それもまた可愛くて。案外抜けてて、今朝も家の鍵がなくなったーって大騒ぎですよ。もう、放っとけないですよね」
ね、と首を傾げられて、反射的に頷きそうになった。いやいや、ね、と言われても。
宇多は肩を落としてふうとため息をつく。
「それで、いつもお世話になってるお母さんに恩返ししたいんです。ただ私、欲しい物は申告制だから、お金はほとんど持ってなくて」
「お金をかけずに喜ばせたい、と?」
確認すると、真剣な表情で宇多が頷いた。
「はい。それに私が考えるものだと変わり映えがしないので、別の視点が欲しいな、と」
それで何故僕に白羽の矢が立つのか。やはりわからん。
その疑問が顔に出ていたのか、
「木崎さん、耳にピアスをいっぱいつけてるし、体格は良いし、ちょっと強面だけど、このアパートでは一番害がなさそうだから」
邪気のない真顔は、心底そう思っているのだろう。子供って正直だ。
ああ、そうですよ。僕は罪を犯す勇気もなければ(そんな勇気、必要ないが)、ノーベル賞ものの発見も発明もできない、しがない小市民ですよ。ちなみに、ピアスホールは右に二つ、左に三つしかあけてない。
「ちなみに、お母さんの好き嫌いは?」
とりあえず、聞いてみる。即座に返ってくる答え。
「嫌いなものは暴力。食べ物だとカラスミのような味の濃い物が嫌いです」
身を乗り出す宇多。き、嫌いなもの限定か。カラスミ、美味しいけど……彼女の話を聞いてしまったこの流れで、「やっぱり無理」とは言い出しにくい。困っている子供を見て見ぬふりをするみたいじゃないか。それにまあ、ご近所トラブルに発展したら面倒だしな。
「料理はどうだろう。お母さんの」
「お母さんの名前は、詩織です」
「……詩織さんのために君が作る。特別な物じゃなくてもいいから、晩ご飯とか」
「でも私、料理のセンスが壊滅的で。この間はカップラーメン作るのに失敗してしまったんです」
カップラーメンを失敗するって、どうすればいいんだ。作り方は載ってるよな?
黒い髪がさらりと流れ、伏せた長いまつ毛が影を落とす。あまり表情筋が動かない子だけど、女の子のしょんぼりとした様子は放っておけないものだ。
ああもう、仕方ないな。
「危なくないように僕が見てるから、ここで作る? といっても、僕も趣味程度の腕前で、胸を張れるほどじゃないけど」
その瞬間、宇多の顔が跳ね上がった。
「本当ですか。ありがとうございます。さすが木崎さん。で、私に何が作れそうですか」
黒目がちの瞳がきらきらしている……セリフが息継ぎなしの棒読みのように聞こえたけど、気のせいだよな?
出勤時間十分前にポトフは完成した。ごろごろ野菜を圧力鍋で煮ればいいだけ。
僕は口を出す係。
手を動かすのは宇多。
包丁を触り慣れていない宇多は、一つ一つ、もどかしいくらい丁寧に作業する。うん、うまくできたんじゃないかな。
本格フレンチを作れたら格好いいんだろうけど、レシピも材料もないし、僕の出勤時間もある。朝七時半に突撃されて、今八時四十分。ちょうどいい。
「どうも、ありがとうございました。お世話になりました」
宇多が頭を下げる。
彼女が鍋を見ている間に着替えて朝食を取った僕は、あとは部屋に鍵をかけるのみ。鍋は宇多が落としたり火傷したりしたら大変なので、僕が隣に運んだ。
見ては失礼と思いつつ見えてしまった室内は、女性らしい雑貨で溢れていた。無表情の宇多の家と思うと、なんかこう、もっとシンプルライフかと思ってたから意外。
廊下に出ると、真冬の空気が全身を包む。反射的に肩に力が入る。自宅の玄関のドアに鍵をかけつつ宇多を見下ろすと、彼女は寒くないのか、ダッフルコートを腕にかけていた。若さか。
手すりの向こうの交差点を見つめている。
その姿が、妙に大人びていて。
「君はすごいね」
「え?」
宇多は夢から覚めたように瞬きをして、僕を見上げた。
僕は鍵を鞄にしまいながら、つい思い出し笑いをしてしまう。
「僕が子供の頃は、親に何かするっていう発想がなくて、成人して周りを見て、慌てて焼肉屋に連れて行ったよ。親の教えがどうって言いたいわけじゃなくて、自分からそうしたいと決めて行動できるのは、偉いと思う」
宇多の目が、じわじわと見開かれる。動揺、している。口元が緩むのを堪えられないところからすると、嬉しいみたいだ。
しかし宇多はそれを隠すように頭を下げると、あっという間に隣のドアの向こうに消えてしまった。
「……仕事行こ」
一日の始まりだ。