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紫傘

作者: 菜摘キロ

以前、別の小説投稿サイトで投稿していたものです。

 菫が彼を初めて見たのは、三味線の稽古の帰り道だった。赤茶煉瓦の建物の横道に一台の車が止まっていた。


 元号が明治となり、文明開化や富国強兵が叫ばれるようになってから大分たっていた。しかし次々と物が西洋式になっていく中で、庶民の生活も大きく変えられるようになった。菫の家の小物問屋も、西洋のものを扱うようになった途端、はぶりが良くなった。たちまちお嬢様と呼ばれる大商人の娘になった菫は、蝶よ花よと育てられてきた。

「車屋さん、通町までお願いします」

「すいません、先客がいるんです。他の車をさがしてくれませんか」

 口調は丁寧だったが、まんじゅう笠から見えた顔は驚くほど無愛想だった。

(車引きって、皆こんな人なのかしら。)

 態度の悪さにむっとして、足早に菫は歩き出した。ここから家まではさほど遠くない。車夫に声をかけたのは、日頃人力車に乗ることがないからという興味本位だ。

 店の玉菊屋が大きくなってからは、菫が周りから失礼な物言いをされたことがない。しかしそれに慣れすぎて、逆に苦労になることもあった。

「お嬢さま、ほかの車を拾いますか」

「いいわ。歩けるもの」

 心配そうに声をかけた女中のお紺の言葉に、菫はつんと顎をあげて言い返した。大江屋と白く染め抜かれた紺木綿の法被の後ろ姿を睨み付けて、駄々っ子のようなふくれっ面をする。あの人力車に、若い女の人が乗り込むのが見えた。



「やあ、菫さんではないですか。お久しぶりです」

「・・・・・・能勢屋の、惣二郎さん」

 日本橋の所まで来たとき、前方から声がかけられた。立っていた男を見て菫の顔がわずかに陰る。利休鼠の着物で、すらりとした物腰をしている。顔も涼しげでなかなかの美丈夫だ。

 能勢屋は玉菊屋と同業の小物問屋ということで、家族ぐるみの付き合いがあった。惣二郎はその次男坊だ。たしか菫に来ている縁談の中に、惣二郎の名もあった気がする。

「丁度よかった。先ほど玉菊屋さんへ伺ってきたところなんですよ」

 どうぞ、と惣二郎が差し出してきた手に、包みがのっている。開いて現れたのは見事な玉簪である。

「新しく店に仕入れたものなんですけどね。菫さんに渡そうと思いまして」

「店のもの? 良いのかしら」

「もちろんですよ」

 菫の両親が一番乗り気なのは、この惣二郎との縁談だ。だから能勢屋も決まった同然でいる。

 しかし、菫はなぜかこの男が気に入らなかった。

「惣二郎さん、やっぱりお店の物はいけませんよ」

「・・・・・・ああ、安物ですからね。これ。玉菊屋さんにはもっといい物もあるでしょう。失礼しました」

 安物と言ったが、菫が見る限りこの玉簪は十円以上はするだろう。

(もしかして、惣二郎さんって目利きができないの?)

 そういえば、能勢屋からの贈り物は惣二郎本人が選んだと聞いたことがなかった。店もすべて親や兄任せなのだろう。

(こんな人と一緒になったら、玉菊屋が潰れる!)

たとえ今は次男坊でも、玉菊屋に養子に入れば店の主人だ。この男はすべて番頭に任せきりにするのだろうか。

「どうです。茶屋で一休みでもしていきませんか」

「いえ、今日は急いでいるので」

 挨拶もそこそこに菫は駆け出した。女中が足早についてくる。もちろんこれは方便で、これから急ぐ用事などありはしない。

「お紺、私、あの人は嫌い。あれが主人になったら耐えられる?」

「私に意見を求められても・・・・・・。良い方だと思いますよ、優しくて」

「顔が良ければそれでいいわけじゃないのよ」

 能勢屋は玉菊屋より大店であり、惣二郎は菫を気に入ってくれている。これは滅多にない良縁だ。しかし菫は店のために自分が人身御供になる気など毛頭ない。玉菊屋はそんな縁談を蹴ったところで倒れはしない。

「お嬢さま。もしかして、縁談を断るんですか。もったいない!」

「能勢屋さんだけじゃなくて、全部。だって私はまだ十五だもの。あと二、三年遅れたってお嫁にもらってくれる人はいるでしょ」

「いけません! 旦那さまや奥さまが何て言うか・・・・・・」

 両親とも、菫に対して人並みには甘い。だがこの話の場合では店のためということもあるから、二人ともなかなか頑固になってしまう。

(お父さまも頭が固いのよね。人が良いって言うのかしら。)

(惣二郎さんはそんなにしっかりとしたお人じゃないのに。)

「惣二郎さんの妻になるなんて、絶対、絶対嫌だもの・・・・・・」

 すっかり機嫌を悪くしてしまった主人に、お紺もやれやれと黙り込んだ。



 雨が降ってきた。どうせすぐ止むだろうという期待はむなしく、あっという間に本降りになる。先ほどまでは気持ちよく晴れていたものだから、二人とも傘など持ってはいなかった。

 周りの通行人は走りだし、我先にと辺りの軒先に雨宿りをしに行った。

 慌ててお紺も近くの店先に菫を押し込んだ。

「お嬢さま、傘を借りてまいります。少々お待ちください」

 そう言い残して、お紺は店の奥へと入っていった。その間に菫はどこか落ち着きなく着物の濡れた部分をハンケチで拭き、雨音以外静かになった道を見回した。

 嫌なことが続いたせいか、小さなことでも癇に障るようだ。今の菫には雨でさえも煩わしかった。車に乗っていればこんな所で立ち往生するはずではなかったのに、と程近い我が家を想って腹が立つ。家まであと一度、向こうの角を曲がるだけである。

 その時、菫の右方から車を曳く音が聞こえてきた。大雨を物ともせずに走る様子に、周りの人は視線を向けている。菫も可笑しな男だと思い、顔を見てやろうとじっと見つめた。

 丁度菫の前を通り過ぎる時である。視線に気づいたわけではないだろうが、男が足を止めて菫の方をふと見た。まんじゅう笠から滝のように水が流れている、その異様な風体に菫は怯んだ。笠からわずかに見えたきりりとした顔立ちは、薄汚れているものの品が良かった。

「先ほどのお嬢さんか。まだ車が見つからないのなら、乗りますか」

「結構よ」

 菫が冷たく断ると、男は意に介した風もなく、相変わらず無愛想な顔で梶棒を握りなおした。その後おもむろに座席から出した物を菫に渡すと、無言でさっさと走っていった。

 渡されたのは和傘が一張。地の紫に大江屋の家紋が染め抜かれている代物だ。洋傘を見慣れている菫には、どこかしっくり来ない。その上呆れてしまう。しかし、あの突っ慳貪な男が見せた親切なのだと思うと、思わず吹き出してしまうものだ。

「お嬢さま、お待たせしました」

 出てきたお紺が手にしているのは、真っ黒な蝙蝠傘。和傘に気づくと菫の顔と傘を交互に見て戸惑ったような表情をする。

「その傘、どうなさったんです」

「貸してくれたみたいね。親切な人が」

 幾分か菫の声は明るかった。いつの間にか主人の機嫌が良くなったことを怪訝に思いながらも、お紺は一先ず安心した。彼女としては、理由がどうあれ不機嫌な主人の相手をしなくて良いことは有難いという思いである。

「明日、傘を返しに行かなくちゃね。まだ名前も聞いていないもの」

「まあ。傘くらい、私が返しに行きますのに」

「いいのよ」

 雨はまだ降り続いているが、菫は勇んで歩き出した。着物の裾が跳ねた水で汚れるのを気にもしない。お紺が困り顔で付いてくるのを横目で見て、菫は鼻で笑ってやりたくなった。

 ついでに、客にし損ねた女に親切をする車夫の無愛想な顔を思い出して、体が軽くなったような心持ちである。雨に対しての煩わしさなど、菫はもう微塵も感じなかった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 心理の描写もよく書けていてそれなりに読めた。だけど物語の初動なので、評価しようがない。気になったのは、着物の濡れた部分とかの記述。細かいことかもしれないけど、こういう書き方をされると違和感を…
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