5、南部戦線異常アリ!
このお話はフィクションです。
騎馬民族に関する描写がありますが、あくまでもこの世界では、という解釈でお願いいたします。
俺は今、でっかいお屋敷の玄関でポカンと口を開けている。
「「「おかえりなさいませ。」」」
出迎えの使用人たちが一斉に頭を下げる。何故か俺は、信じてもいない聖書の一篇を思い出した。海がぱっくり割れる話。
ここはキヤの領主館。
季節は冬になっていた。
俺がニコラと出会ってから約半月。生まれて初めて王都を出た俺は、一週間程の時間をかけて、ニコラの父イゴール様の治めるキヤにやって来ていた。
国の南端だけあって、記憶にある冬の訪れより心持ち暖かい。キヤ領にある池は、まだ凍っていないそうだ。
不凍湖は我が国の悲願である、らしい。
家令とやらが、イゴール様に何かを報告している。
俺もいることに二人とも気付いているはずだから、秘密の話ではないのだろう。遠慮なく聞き耳を立てる。
「お館様、クリム砦に赤羽矢が射掛けられたとのこと。恐らくあと10日程で、フス族が来襲すると思われます。」
「ふむ。では早速ニコライを行かせよう。物資の準備は出来ておるか?」
「滞りなく。商隊も追って出発させます。」
この先ニコラのことは、ニコライと呼ばなければいけないらしい。同じく俺も、ユリアと呼ばれるようになった。
髪も伸ばし始めた。カツラより地毛の方がいいに決まっている。が、先は長い。カツラを着け続けて頭皮が蒸れ、地毛が薄くなるのが今のところ一番の恐怖だ。
ところでクリム砦とは、確か国境にある、南方騎馬民族の来襲に備えた砦ではなかったか。だとすると、フス族とは騎馬民族の一派か。
騎馬民族といえば、つい三百年程前まで大陸中を席巻していたはず。この国もかつては蹂躙されていた、とお年寄り達が語るため、皆恐れている。
母親が生きていた頃はよく言われたもんだ。
『あんまり悪い子にしてると、ノマドに連れていかれるわよ。』
これは子供を叱る常套句である。
騎馬民族の来襲。ニコライの出陣。
どうやらキヤは、俺が思っていたほど平和ではないらしい。
「ニコライ!戦争に行くって本当か?」
ニコライを見掛けたので、つい呼び止めてしまった。忙しいらしく、足早に去っていこうとしていたため、思わずシャツの裾を掴む。軍靴の踵が高いのか、いつもより見上げる形になった。
しかしこいつ、よくこんな厚底靴でスタスタ歩けるな。
「あぁ、聞いたのか。毎年この時期恒例だからね。心配しなくても大丈夫。すぐ帰ってくるよ。」
「でも相手はノマドだろ?心配するなって方が無理だ。」
ニコライは少し驚いた顔をしたが、すぐ笑顔を見せる。
「騎馬民族は、君が思っているような人達ではないよ。ここにいる間にゆっくり教えてもらって。でも、寂しい思いをさせるね。」
そう言うとニコライは、俺の、頬に、キスを、した。
……。
なにすんだ!
顔に熱が集中して、思わず頬を手で押さえた。今俺の顔は、確実に真っ赤だろう。
平時ならば怒るところだが、今はそんな気分にはなれない。
首元に手をやり、肌身離さず着けていた革紐をほどくと、革紐にかかった鍵ごとニコライに押し付ける。
「これ、つまんねーもんだけど、お守りだし、お前に預ける。俺にはすげー大事な物だから、帰ってきたら絶対返せよ!」
これは、両親が生きていた頃から住んでいた、あの家の鍵だ。俺の唯一の持ち物。家はもう人手に渡っただろうけれど、お守りにといつも持っていたのだ。
ニコライは、鍵をぎゅっと握りしめた後、革紐を首にかけた。
「ありがとう。必ず返すよ。」
デレた、とかオトメだ、とかぶつぶつ呟く声が聞こえた気もするが、俺の精神衛生上聞かなかったことにした。