友達
始業式が終わり、初めての休みがやってきた。お友達がいるなら連れてきたら、と両親が言ってくれている。許可さえ取れば、寮生でも外泊もいいはずだ。市子は雪を誘おうと早くから決めていた。来てくれるだろうか、ええい勢いだ―
「雪ちゃんっ」
思ったより大きな声が出てしまった。雪は普通にふり返るが、周りの生徒たちが驚いて一緒にふり返ってしまう。お嬢様は大きな声なんて出さないんだ、恥ずかしい、市子は声をひそめて言葉を続けた。
「明日、用事ある?よかったら、家にご飯食べに来ない?」
よし一気に言えた、満足していたのはあっという間で、雪が生徒手帳を取り出し、校則の一文を指差す。寮生の外泊禁止、市子は苦笑した。雪は真面目すぎるところがある。
「あのね、許可取ればいいんだよ。用事はないのかな、先生んところ一緒に行こう」
市子が雪の手を引いて職員室に行こうとすると、ふと、目の前に椿がやってきた。高貴な香おりに、市子は思わず怯む。
「ご、ごきげんよう椿様」
「ごきげんよう。市子さん、良かったら、明日、私の家のパーティーにいらして」
「ぱ、パーティ?」
「級友の皆さまをお招きするから、あまり堅苦しいものではないわ。雪さんもご一緒に」
にこにこ笑いながら、椿はずっと市子ではなく雪を見ている。彼女の狙いは雪だ。先日の、綾小路の雪への苛めが思い出される。彼女も雪に何かする気ではないのか、市子はぎゅっと雪の手を握った。
「ごめんなさい。雪ちゃん、私と一緒に実家に帰るんです」
「あら、そうなの?残念ですわ。また、是非いらして」
「は、はい。機会があれば」
ごきげんよう、と会釈して、市子は雪の手を引いたまま逃げるように椿から離れていった。見えなくなったあと、ほっと胸を撫でおろした。
「はあ怖かった…ごめんね、雪ちゃん。パーティーの方が良かった?」
雪が首を横に振り、市子はかなり安心した。雪は無表情に加えて全くしゃべらない為、ときどき自分が仕切り過ぎていないか不安になることがある。
「じゃあ、行こう」
雪が頷き、2人で職員室に行った。
職員室に行くと仁川がいた。彼女は外泊許可書に快く印鑑を押してくれた。
「へー、いいなあ、楽しそう。先生も混ぜて」
「駄目です、雪ちゃんは私と寝るんです」
「うわあ、ラブラブだ」
軽い口調で話し合っていると、奥から別の女教諭が咳払いしていた。仁川が小さく舌を出し、市子が笑いをこらえる。堅い先生ばかりの中で、彼女だけがきらきら異質に輝いていた。
「ごきげんよう」
「ありがとうございました。ごきげんよう」
市子はやったやったと笑って、雪の手を引いて教室に帰った。
楽しみ過ぎて眠れなかった、待ち合わせの時間ぴったりに来ていた雪は、学生服、おまけに学校のカバンだった。これには市子も驚いた。
「ゆ、雪ちゃん?今日、泊まるんだよ?」
驚く市子の向かいで、雪はきょとんとしている。かなり迷ったが、ごめんね、と謝りカバンを開けると、教科書と筆箱しか入っていない。ふと警察庁の封筒があり、中にはお札が入っているように見えた。創本刑事が渡したお小遣いだろうか。絶対一円も使ってない、それどころか開けてもない―
確かに寮で普通に生活してれば一円も使わないことは可能だ。けど寮も監獄ではないから許可さえ貰えれば外出出来る。買い物したり外食したり―さほど興味のない市子でさえ、本を買ったりしている。
「…雪ちゃん」
言葉が出ない。今まで自分の話をずっと聞いてもらって、ずっと一緒にいて、仲良くなった気でいたが、自分は雪のことが本当に分からないのだ。今までどんな生活をしていたのか、何を考えているのか、自分と友達でいいのか―
「…あの、お泊まり…したくないんだったら…」
雪が首を横に振る。今はこれを信用するしかない。とにかく早く帰ろう、市子は雪の下着と電車の切符を買い与え、2人で電車に乗った。雪のお小遣いであろう封筒はさすがに使えなかった。
電車で少し揺られただけで、あっという間に田園風景になる。田舎でしょ、と市子が笑うと、雪はじっと風景を見ている。気に入ってくれてるように見えた。実家から近い駅に着く、駅員さんは目をまんまるにし、近くで遊んでいた子供たちは驚いて涎を垂らしていた。数年前演歌歌手が来て以来だなー目立つ目立つ。
それでも田舎だから人は多くない。市子がそのまま実家へ帰ると、インターホンを鳴らす前に、母が扉を開けた。
「お帰り…あらあら!いらっしゃい、ほんと、人形みたいやね!!」
「お、お母さん」
母は雪をべたべたべたべた好きなように触り、痩せすぎ、ちゃんと食べとうとね、と方言全開で雪をくまなく触っている。雪はといえば、相変わらず無表情で好きなようにさせている。余計に恥ずかしかった。
「もう止めてよ。雪ちゃん困ってるよ」
「はいはい。あんた、しゃべれんとやろ?聞いとおよ。ほら、早く入りなっせ」
母がようやく家の中に入ってくれ、市子はもう、とため息をついた。
「ごめんねお母さん、強引で」
雪は何か言いたげに、じっと木造平屋と、庭と、そして去っていた母を見ている。古い家でびっくりしたかな、こんな家に泊まりたくないかな、不安な市子をよそに、雪が入っていったため、ついていった。
「お父さん、ただいま。友達連れてきたよ」
「おー、お帰」
あぐらをかいて日本酒を飲んでいた父親は、馬鹿みたいに口をあんぐり開けていた。Tシャツ一枚の上から慌てて上着を着て、逃げるように立ちあがった。
「ちょ、ちょっと麻雀」
「はあ?市子帰ってきたとにや」
「じゃあ!」
父が逃げるように出ていってしまい、料理をどんどん運びながら母親はため息をついた。
「照れとる」
「ね」
市子と母がくすくす笑っていると、ふと、奥から出てきたまだ幼い少女が雪の頬を叩いたり引っ張ったりしている。雪は好きなようにさせているため気付かなかった。市子が慌てて少女を抱っこした。
「こら、実夏」
「姉ちゃん、これ、人形?」
「違う、お姉ちゃんのお友達。ごめんね、雪ちゃん」
「ほらほら、食べなっせ。冷めるっちゃ」
「うわあ、お腹空いた」
テーブルの上には自分の好物ばかり―まあ言ってしまえば、田舎っぽい料理ばかりだ。雪が毎日食べてるだろう寮の食事とは違う。雪の口に合うだろうか、市子がそわそわしてると、市子は両手を合わせ、食べ始める。一口、二口―細いのに食欲はある、母は嬉しそうにどんどんついた。
「お、いける口だね。酒も飲むね」
「お母さん!」
「みか飲む―」
食事は母と市子と実夏がずっとしゃべっていてずっと賑やかだった。雪はやはり何もしゃべらないが、ときおり箸を止めて、じっと誰かの顔を見ては、また食事を再開していた。その繰り返しで満腹になったのか、実夏とくるまって眠ってしまった。起こさないように、市子と母は静かに後片付けをしていた。
「金持ち校やったけん、心配しとったけど、友達出来て良かった」
「うん」
「すまんたいね…家にもっとお金あったら、雪ちゃんと一緒に寮ば」
驚いて皿を落としそうになり、市子は慌てて笑った。確かにそれはすごく楽しそうだが、高校の授業料の為だけに、ずいぶん苦労させているだろうことは察しがつく。
「大丈夫だよ、電車ですぐだし。雪ちゃんとは、たまに家に連れて帰ればいいし」
「そうね…あの子の声、聞いたことなかと?」
「え、うん。言ったじゃん、雪ちゃん、病気でしゃべれないんだって」
「あの子、しゃべれると思うよ」
「…え?」
どういう意味、首をかしげる市子の隣で母は笑うだけで、その後は話さず黙って皿洗いをしていた。
夜通し雪と話したかったが、それはまた今度にしよう。眠る実夏と雪の隣に横になり、眠りかけていると、ふと、父が帰ったことに気付いた。お酒の匂いがする、母に怒られているようだ、だが、父が珍しく謝っていない。
「おい、市子、あの子と付き合うなって言え」
え、眠りかけていた市子が覚醒した。父があんなことを言うなんて珍しい。おまけに母が瞬時に怒鳴り返さない。市子がますます不安になる。
「あの子は鬼たい。恐ろしい鬼や」
「…飲み過ぎ。早く寝んさい。大丈夫。あの子はいい子よ。ただ、周りの大人が悪かっただけ」
どういう意味、どういう意味、ぐるぐる考えながら、市子はそのまま浅く眠った。怖い夢を見たような気がしたが、よく覚えてなかった。
翌朝、いつも見送ってくれるはずの父が起きてもこない。二日酔いたい、と母は笑っていたが、市子にはすぐに嘘だと思った。昨日の父と母のやり取りは夢ではなかったようだ。
「じゃあ、お母さん、行ってくるね」
「うん、いってらっしゃい。また、来いね」
母親が雪をぎゅっと抱きしめて、家の中に入っていった。あんなこと、他の友達にはしたことはない。なんだろう。父と母は雪の何が分かったというのだろう。
分からないことは考えないことにした、今日はお休みだ、よし、市子は笑って雪の手を握った。
「よし、今日はどこ行こうか。どこに行きたい?」
雪は少し考えて、そしてペンを取った。この筆談にも慣れた。その書いた文字を見て、市子は目を回しそうになった。
雪が書いたところは、都心の中心も中心、人も、ものも、建物も溢れ返っている。人が多すぎてどうにかなりそうだ。なぜ雪はこんなところに来たかったのか分からないが、市子はともかく、はぐれないように雪の手を引いて歩いた。
「雪ちゃん、離れないでね!」
どこか落ち着ける場所ないかと思ったが、休日のためどこも多そうだし、カフェなんて入ったらお小遣いが心配だ。公園にでも行こうと思っていると、ふと、雪が逆方向へ歩き出した。
「え、ゆ、雪ちゃん?」
どこ行くの―市子がとりあえずついていくと、どんどん街の中心から離れ、いわゆる裏道―看板を見ただけで市子が真っ赤になってしまうような道―市子は雪を引きもどそうと手を引くが、すごい力だ。こんなに強い雪の意志は初めてかもしれない。まだ明るいためさほど危なくはないが、あちこち立ってる男たちに、にやにや見られてる。もちろん見ているのは雪だ。
危ないから早く帰ろう、と促すが雪は聞かない。そしてようやく止まってくれた。そこは真っ赤な看板で、奴隷小屋、と書いてあった。中の女の人たちを奴隷のように扱えるシステムらしいが、市子には外国語のようにしか見えない。
雪の様子を見ていると、ふと彼女は歩き出し、なんと開店前だろう店をノックし始めた。これにはさすがに市子も止めた。
「雪ちゃん!雪ちゃん止めて!どうしたの、ここに何が」
「うるせえなあ、今、何時だよ!!」
怒鳴りつけながら男が出てくる。怖い上に軽装すぎる男―目が合うだけで泣きそうになる市子の隣で、雪はあいかわらずの無表情で男をじっと見ている。いい女と、舌舐めずりした男が、やがて、目を見開いた。
「…お前…まさか、13番?13番か?」
雪が頷き、市子は驚いた。知り合いなのか。それに13番って―混乱する市子の前で、男は雪を軽く抱きしめたが、すぐに離した。手にある手錠に、市子は小さく叫んだ。
「どうしてここが…まあ、いい。また店やろ。その前に、久々にやらせろや」
招く男に雪は吸い込まれるようについていく、市子がたまらず叫ぶと、ちょうど別の店の摘発をしていた警察が気付いて走ってきてくれた。
警察に保護され、2人は駅まで送ってもらった。雪が連れて行かれなくてよかった、涙が止まらない市子の隣で、雪は相変わらずの無表情だ。彼女に聞きたいことがたくさんある。母の言葉、父の言葉、先ほどの男、十三番という記号。でもそれはどれも聞いてはいけない気がした。
早く泣きやまなきゃ。一番怖いのは雪だったはずだ。市子がしゃくりあげながら涙を拭こうとしていると、ふと、雪が、自分の頬をぺたぺた触ってきた。
「…え?」
ぺたぺたぺたぺた、たくさん触って、そして、抱きしめた。母の、真似をしているのか。市子は泣きながら笑った。
「ありがとう。ありがとう雪ちゃん」
何でもいい。彼女は間違いなく優しい、自分の友達だ。怖いことも、駄目なことも、自分がお願いしていけばいい。そうして、いつか、きっととても可愛い声で、お話してくれたら―
―あの子、しゃべれると思うよ
母の言葉を思い出し、まさかね、市子が笑って雪を見た。
「雪ちゃん、しゃべれないんだよね?だから怖くても叫べないよね。これからは、私が代わりに叫ぶからね」
「………」
ん、と、市子に違和感があった。何だろう、何かしゃべれそうだ。不思議だ、汗をかくくらい緊張してしまう。
「雪ちゃん………何かしゃべってみて」
「………何か」
淡々と、思ったより低い声だったが、自然と出たきた雪のしゃべる声に、市子の目から別の涙があふれた。