いじめ
昼休み、廊下を歩く一人の女生徒に皆が道を開け、ごきげんよう、ごきげんよう、と挨拶していた。勝ち誇った笑みで笑いながら、椿が歩く。
「見て、椿様よ」
「今日も麗しいわ」
当たり前よ、椿は心の中で大笑いしていた。毎日テレビでCMをやっているような大企業を十数社傘下に束ねる、椿グループの一人娘。病気で早く他界した母は彼女しか授かれず、事実上、グループの後継者は彼女に決まっていた。幼い頃から経営、社交、勉学、作法、全てを叩きこまれ、普通の産まれながら父親に見染められた母親の美貌を受け継いだ椿の人生に、敵などいない。彼女は自分の頭の先からつま先まで全て自信があった。
そんな彼女を、妬ましく見る影に椿は気付いていたが、笑顔で流してやった。綾小路。そこそこのグループの娘だが、椿ほどではない。金にものを言わせ入学試験満点合格を取り入学式代表者挨拶をしていたが、椿は全く悔しくなかった。入学式満点など頭が悪すぎる。問題の横流しなど珍しい話ではないし、それを受け取ったことがバレバレだ。おまけに目立つことが早ければ早いほど、人の記憶から薄れていく。
人間というのは、最初から出来ているものに、さほど関心を惹かれない。出来ていて当たり前だからだ。彼女は今後、ずっと試験で首位を取らない限り、名もなき生徒に埋もれていくだろう。入学式で首席を取らなかったにも関わらず、最初の定期試験で首席を取る。その方がよほど、生徒たちから尊敬を得やすい。もともと勉強は出来た方だ、実際、試験問題など買わなくても椿は実力で入学試験上位だった。入学試験と違って、もう問題の横流しは行われる可能性は低い。これなら、次の試験首位は約束されたも同然だ。
だが―椿がある嫌なことを思い出すと、それに導かれたように、その女が現れた。
「ごきげんよう!」
「ごきげんよう!!」
皆が、まるで怯えるように挨拶をする。まるで王に膝まづく兵のようだ。その中を無表情で歩く女―創本 雪。椿が思い切り睨みつけるが、彼女は気付かない。
聞けば、彼女も入学試験満点だったという。おまけにあの美貌。椿は初めて、自分より美しい女を見た。更に彼女の経歴を、皆が知らない。この学校に通うのは、一部を覗いて、幼い頃から社交界で顔を合わせた顔見知りばかりだ。あんな女見たことない。創本という名前も聞いたことがない。
寮暮らしだし、恐らく、一般家庭の出だろう。なのに、あの顔。満点合格。日に焼けやすい自分にはない白い肌、人形のように細い体、人形のように無表情な顔、入学してから一度も声を発さない。あらゆる意味で、皆の注目を集めているのが、椿は最高に面白くなかった。これでは次の定期試験で首位を取っても、さほど目立たないかもしれない。どうしてやろうか、嫉妬の目でにらみ続けるが、やはり、雪は気付かない。
体育の時間となった。ここではブランドものの下着のちょっとしたお披露目会場状態になる。普通の下着を着ている市子を、綾小路がわざとらしく見つけた。
「いやだわ、貧乏臭い。廊下で着替えて下さらないかしら」
「嫌だわ綾小路様、聞こえますわよ」
小学生の苛めか、椿はため息をついて様子を見ていた。泣くかと思ったが、市子は平気そうに着替え終わった。気のせいだろうか、一瞬、雪の着替えを手伝ってやっているように見えた。
雪の正に雪のような肌に、皆がほお、と目を奪われた。同性でも惹かれる。
「モデルみたいねえ」
「やだ、あまり見てはご迷惑よ」
何よ痩せてるだけじゃない、こっちはいくらの下着つけてると思ってるのよ―椿は悔しかったが、同じように雪を悔しげに見ている綾小路に気付いた。しばらく、彼女の様子を見よう。
体育の時間は、短距離走だった。お嬢様はあまり運動が得意なものはいない、50メートルで悲鳴を挙げている中、椿が断トツで一位だった。
「すごいわ椿様、早いのね」
「今日は調子がいいわ」
さすがに足だけは金で買えないでしょう、綾小路の背中を鼻で笑ってやると、彼女が泣きそうになっていた。彼女のタイムを見て、心の中で大笑いしてやる。さて雪はどんな珍記録を出してくれるのやら―
ど、と、大きな騒ぎになった。雪が走り終わった瞬間だ。何何見てなかった―思わず椿が身を乗り出すと、目を疑った。自分より早い。
「嘘!嘘嘘嘘!あんなやせ細ってこんなに早いわけないわよ!」
綾小路が醜く吠えたてる。自分もこうなるところだった危ない危ない、椿は自分の口を押さえて様子を見ていた。体育担任がいぶかしげに綾小路を見て、次に雪を見た。
「創本、もう一回走れるか」
雪が頷き、笛が鳴ったと同時に走る。早い。椿は驚いていた。自分とは走り方がまるで違う―何だろう、何の走り方だ―どこかで見たことがある―
必死に思い出そうとしているが思い出せず、雪はまた、好タイムを出した。先ほどまで椿の周りにいた女生徒たちが、一気に雪の周りに集まった。
「すごいわ、創本さん。早いのね」
「今度、走り方教えて下さらない?」
一気に雪の天下になってしまった。椿は悔しさを体内に貯め、そして、明らかに荒れている綾小路を見ていた。ああはならない。引き続き、雪と、彼女の行動を見よう。
「雪ちゃん、すごいね。すごく早いんだね。びっくりしちゃった」
歩く雪の隣を、市子が懸命に笑いかけて歩く。あれだけ無表情なのに、よくもまあ、あんなに話しかけられるものだ。彼女のことを少し調べたが、何のことはない、一般家庭の出。家柄も見た目も運動も駄目。唯一入学金免除圏内に滑り込めるほどの学力があるだけだ。恐れるに足らない。
問題は雪だ。調べさせたが、素性が不自然なほど出てこない。どうも警察が絡んでいるようだ。聞けば、彼女の保護者欄に名前があるのは刑事だという。しかし、彼の戸籍には雪の名前がない。少なくても家族ではない。親戚ならば、保護者欄に続柄が書いてあるはずだ。両親を亡くし、警察の男が引き取った可愛そうな少女―これはあくまで椿の想像だが。それではますます、生徒の株が上がってしまう。雪の弱みにはならない。
椿が戻ると、教室はちょっとした騒ぎになっていた。椿がどうしたの、と聞くと、女生徒が顔を挙げた。
「創本さんの制服がないらしくて」
「なんですって?」
おかしいなあ、おかしいなあ、市子と他の女生徒が必死で探しているが、なくなるようなものではない。教室の隅で、綾小路が笑っている。これほど分かりやすい犯人はいないだろう。
ここで犯人を探し当て、クラスの喝采を頂くのも良いが、どちらかといえば、雪がどうするのかの方が気になった。下着姿のまま、立ちつくしている。相変わらず、その瞳は何も映してない。
「ないや…雪ちゃん、とりあえず体操服を着よう。授業始まっちゃう」
すると、雪が首を横に振り、級友たちが驚いて彼女を見た。雪は下着姿のまま、席についてしまったのだ。これには椿も、もちろん綾小路も驚いていた。
授業が始まる鐘が鳴り、担当教諭仁川が教室に入るなり、圧倒的違和感に気付かざるえなかった。下着姿のままの雪、仁川は思わず驚きでチョークを落としそうになった。
「ど、どうしたんです。創本さん」
「あ、あの」
市子がおずおずと肩手を挙げる。
「雪ちゃ…創本さんの制服、見つからなくて。さっき体育だったんですけど、その後、着替えるときになくなってて。だから、とりあえず体操服で授業受けようって言ったんですけど…聞かなくて…」
「創本さん。彼女の言うとおりです。体操服を着なさい」
そう言われると、雪は入学のときに渡された校則一覧を取り出した。そこには、授業中はいかなる理由があろうとも制服を着用するようにと書いてある。これを守ってるとでも言いたいのか。綾小路がたまらず吹き出した。
「やだわ創本さんたら。先生、はしたないから、教室から追い出しませんこと?」
仁川はピンときた。制服を隠したのはこいつだ。大かた、雪の可愛さに嫉妬したのだろう。分かりやすいことだ。仁川は笑って、大きく手を叩いた。
「はーい、みなさん。今から、持ち物検査をしまーす」
ええ、と教室がお嬢様らしからぬざわめきが走る。仁川が何度も何度も手を叩く。
「はいはい静かに。聞いてない?こういうのはいきなりでないと意味がありません。言っときますが、あくまで、創本さんの制服を探すためです。大丈夫、よほどのものが出てこない限り、上には報告しないので。さ、カバン全部出して」
皆がしぶしぶ、とカバンの中身を全部出す。まあ違反するものの可愛らしいこと、香水、口紅、携帯電話、十代向けのファッション誌。椿が光の速さで何かを下着の中に隠していたが、あえて見なかったことにした。素早すぎるし、絶対に制服ではないだろうし。興味はあるけど。
真っ赤な顔で泣きそうに謝る生徒たちを見ながら、仁川は頭を撫で続ける。煙草や避妊具やら出て来なくて本当に良かった。しばらく歩いていくと、ふと、綾小路の机に行きあたった。彼女はカバンから手を離さない。
「どうしたの、綾小路さん。早く出して」
「…っ、か、カバンが…開かなくって…」
「そうか、じゃあ、先生が開けよう。先生、力には自信あるんですよ」
「あっ!」
綾小路が泣き叫ぶ。綾小路のカバンからは、明らかに彼女のものではない制服一式が落ちてきた。教室が騒然となる。苛め慣れてないやつはこれだから、仁川と椿は心の中で鼻で笑った。
「わ、私…身に覚えがありませんわ!そう、そうよ!創本さんが、私を貶めるために」
「そう。まあ、いいわ。とりあえず、これは創本さんのもので間違いなさそうね。こんなに小さい制服、彼女しか入らないだろうし。ほら、創本さん早く着て。風邪を引くわ」
「先生!」
「分かった分かった。授業をはじめまーす」
綾小路が声を押し殺して泣き始め、その向かいで、平然と無表情に雪は制服を着終え、席についた。教室中は小さなざわめきが止まらず、それを注意するのを忘れるほど、仁川は笑っていた。楽しい。
授業が終わった後、綾小路は泣きながら教室を逃げるように出ていった。取り巻きたちが追おうとしていたが、少し悩むと、すぐに椿の元へやってきた。切り替えが早くて可愛いこと、椿は市子の話を無表情で聞き続ける雪をじっと見ていた。半端な苛めで効果がないことが分かっただけでも、あの女は十分価値があった。
放課後の教室、一人残った雪が、教卓の中の煙草に気付き、一本咥え、火をつけた。空気を思い切り肺に吸い込むと、ほっと息を吐く。ほどなくしてやってきた影が、後ろから叩いた。
「こら、退学行為を思い切りやるんじゃない」
「…?」
雪が不思議そうに入学のしおりを見る。確かに禁止事項に喫煙はない。お嬢様校の中で、まさか喫煙する生徒がいるとは思ってもないのだろう。平和なことだ。
ふり返ると、黒髪のカツラを脱ぎ、真っ赤な長い髪、更に真っ赤な口紅を引いた女が立っていた。つまようじのように、煙草をくわえて、にいっと笑っている。
「慣れてんね、煙草。ガキのくせに。ねえ、あんたさ。どんな人生送ってきたの。教えてよ、誰にも言わないからさ。絶対、普通の人生じゃないでしょ。教えてくれたら、煙草恵んでやっても」
「雪ちゃーん」
やべ、と気付いた女が、また明日ね、と雪の頬を撫でて、逃げるように走り去っていく。入れ違いにやってきた市子が、ライダースーツを着た影を不思議そうに見送る。
「今の…誰?」
雪が先生、と、紙に書くと、市子は驚いた。
「え、う、嘘ぉ」
「~あー、あ―ふんふふーん♪」
校門の大きな紅葉の木の下に隠しておいた巨大なバイクに跨り、誰もいないことを確認し、女―仁川が自宅へと帰って行く。明日も絶対楽しい、下手くそな鼻歌は止まらなかった。