学校へ
―某・女学校入学試験会場。
一番後ろの席の窓側、市子は緊張による腹痛で何度もトイレと教室を往復していた。昔から勉強だけが取り柄で、進路を決めるときにこの学校を担任から勧められ、両親も喜んで応援してくれて、自分もそれに流された。が、会場に来るなり後悔した。周りは、可愛らしいお嬢様ばっかり。小学校からブスブスとからかわれ続けた自分とは格が違う。自分の田舎くさい中学校の制服も、三つ編みも、この顔も、全部、全部教室中から笑われてる気がした。早くテスト始まらないかな、足さえも震えてきた。
息を殺して、ただ時間が過ぎるのを待っていると、ふと教室の空気が変わった。試験官が入ってきたかと思ったら違った。その場に入ってきた少女を見て、皆が息を飲んだ。市子もぽかんと開いた口がふさがらなかった。美しい人形が手足を動かしている、そんな感覚だった。彼女は自分の筆箱を取り出し、空いていた市子の隣に座った。室内があっという間に嫉妬に染まったのを感じた。みな、彼女の美しさを妬んでいるのだ。自分の醜さなど跳ね返す美しさ、市子はただ、彼女の美しさに救われた。
ほどなくして、試験が開始された。問題は難しいが、解けないほどではなかった。公式を組み立てていくと、緊張もほぐれ、いつも通りにペンを動かせた。問題が解き終わりペンを置き、ふと隣を見ると、もうあの美少女はいない。夢か幻でも、不思議ではないくらいの美しさだった。
無人の進路指導室に少女は呼び出され、部屋に入った途端部屋の鍵を閉められる。試験官である男は、荒い呼吸を繰り返し、皮製のソファに少女を押し倒した。
「お前が悪いんだ、お前が。試験中、ずっと私を誘惑し続けた」
男は少女の服を裂くように脱がせるが、彼女はずっと虚ろに男を見ている。叫ぶことも、拒むこともしない。男は不審に思いながらも、目の前の御馳走に耐えられず、スカートに手をかけようとしたそのときだった。
「あ、すいませ~ん。迷子になっちゃって。ここ、どこっすかね」
誰かがドアを叩くと、我に返った男が喉の奥で悲鳴を上げながら逃げ出した。少女が起きあがると、舌打ち交じりに少年が入ってくる。彼は親しげに、少女に笑いかけた。
「久しぶり。すげえ偶然。俺、従姉妹の付き添いで来たんだけど」
「…?」
「覚えてねえか。ま、いいや。俺、あんたのおかげで家出れて寮生活だし、あんたみたいな美人で童貞卒業出来たし。あんたのこと恨んでないよ。けど、まだ襲っちゃわないように、早く服着て」
少年は少女にジャージを被らせ、そして、思い出したように五円チョコを出した。いつかみたいに、可愛いらしい菓子は持ち合わせてなかった。
「食う?」
少女は無言で、それを受け取る。その目は、初めて会ったときよりも光があるように見えた。少年は笑って、少女の頬に噛みつくようにキスをした。
弟夫婦の子供が試験を受ける学校名をたまたま聞く機会があり、最近物騒だからと言い訳がましく付き添いを申し出た。従姉妹は不思議そうにしていたし、妻は落とすように笑っていた。彼女は何もかも、お見通しかもしれない。
たまたま帰省していた長男がついてくると言ったとき、さすがに止めることはしなかった。万が一にも、あの少女と再会することがあってはならない。しかし遅いな、創本が時計を見ていると、長男が五円チョコを食べながらやってきた。
「あ、ごめんごめん。待った?」
「ちょっとな。アヤちゃんはどうした」
「友達と帰るみたい。じゃあ、俺、合コンだから」
「合コンだ?おい、待て。お前、今、いくつだと思って」
「ばいびー」
「おいっ」
止めかけた手を降ろし、創本はため息交じりに笑った。いつまでも子供のように傷を引きずっているのは、自分だけかもしれない。
日本で奴隷小屋なるものが存在し、そこの子供たちが全て解放された事件から、どれくらい経っただろう。その中の少女を一人、成り行きで引き取ったことが始まりだった。まだ中学生の長男と次男は彼女に獣のように襲いかかり、創本は彼女を苦渋の決断で手放した。遠縁の寺に預けたが、その結果は、彼女の取り合いによる寺の壊滅。注いで彼女は更に居場所を移動したが、そこの家族も全員、男子学生により殺された。その原因は未だ分かっていない。
本人にその気がなくとも周りを犯罪者もしくは加害者に仕立て上げる、鬼のように美しすぎる少女。彼女を学生にさせるのはどうかと思ったが、それは、少女を最後の家族である遺族一家の願いだったからだ。しかし、創本の知る限り、彼女はとても試験を受かるほど学力があるとは思えない。中学校どころか小学校にも行ってないだろう彼女に試験を受けさせるため、ずいぶん色んなところに借りを作った。それが全て無駄に終わる可能性の方が高い、まあ、そのときはそのとき考えよう、創本は一人頷き、学校を後にした。少女に会うのは、止めておいた。
試験から数日後、学校内で緊急会議が開かれた。シスターの格好した女教師たちが資料に目を通している。一番年長の女教師が、中央に立ち、謡うように皆に語りかけている。
「先日、試験問題の流失が発覚しました。今回の成績一位の生徒は、満点合格。当然一番怪しいのは彼女ということになりますが、何も証拠もありません。今後も神の教えのままに、彼女に妙な疑いがかからないように、私たちで守っていきましょう」
新卒から三年目の女教師・仁川は、誰にも気づかれないように鼻で笑った。満点合格した少女の父親は、この学校に多大な寄付をしている。つまり、そういうことだ。
「そして…その席の後ろに座っていた、彼女ですが。彼女もまた、満点合格でした」
二枚目の資料をめくるように促され、皆が息を飲んだ。こんな綺麗な生き物―否、少女は、誰も見たことがなかった。
「彼女は、今まで学校に通っていません。彼女の経歴は詳しくは分かりませんが、よほど事情があるのでしょう。その経歴で満点合格、恐らく、まだ神の教えが上手く伝わっていない生徒からの反感があるかと思います。彼女も同じく、守って」
「カンニングじゃないの」
会議の退屈さに、思わず声が出てしまった。教師たちに睨まれ、仁川はやべ、と舌を出しかけた。
「何ですか、仁川先生」
「い、いえ…その。後ろの席ですし、覗きこんだ可能性は」
「それはあり得ません。隣の席ならまだ可能性はありますが、後ろの席で覗きこむなど不可能。更に教室には、試験官の先生もいらっしゃいました」
仁川は失礼しました、と会釈し、心の中で思い切り舌を出してやった。確かに後ろの席でカンニングは不可能だが、学校にも通ってなかった少女に満点合格が可能だろうか。彼女の親もまた、この学校の寄付者というのは考え辛い。寄付が出来るような家の子で学校に通ってなかったのは明らかに不自然だ。なら試験官に色目を使った、というのはどうだろう。試験官は、他校の学校に依頼をかけた、あのスケベ親父だ。自分のお尻も触ってきたし。あれ、絶対わざとだった。しかし色目を使っても、満点合格は無理だろう。採点したのは先生たちだし―
「では、これにて。生徒に神の御加護があらんことを」
「「ご加護があらんことを」」
色々推理をしていると、会議が終わった。誰もいなくなったのを確認すると、仁川はスカーフをはぎ取った。熱い。生徒とすれ違い、慌ててごきげんよう、と取りつくろう。何がごきげんようだ、堅苦しくて、やってられない。
最初はお嬢様校だし、給金もいいしで舞いあがっていたが、さすがにもう限界に近かった。実家近くの高校の先生の一人が産休らしく、親にも帰ってくるように勧められている。辞め時かと思ったが、仁川は少女の資料を持ち、にっと笑う。ちょっとは面白くなるかもしれない。
仁川が頭に叩き込んだ名前は、創本 雪、と書いてあった。
「神の御加護があらんことを」
やっと終わった、長い長い入学式、市子は大きく伸びをしながら、その場を後にした。きらびやかなお嬢様の衣装の中、自分はまるで、ピアノの発表会のような格好に見える。これでも両親が見栄張って奮発してくれたのだが。
早く帰ろう、市子が早足で歩いていくと、ふと、試験会場で隣になった美少女が見えた。服のレベルは自分とそう変わらないが、何せ輝きが違う。皆が道を開けている。市子はため息が止まらなかった。彼女には洋服も関係ないのだ。
どうしよう、話しかけてみようかな―私みたいなブス迷惑かな―市子がそわそわしていると、ふと、少女が入学資料を落としてしまった。チャンス、市子が拾った。
「はい、どうぞ」
受け取った少女が会釈する。近くで見ると眩しくて目がつぶれそうだ。市子はひるまず、懸命に笑った。
「私、市子。覚えてないかな、試験会場で隣だったの。よかったら、お名前、教えてくれる?」
少女は頷き、学生証を取り出した。そこには、創本 雪、と書いてある。
「ええと、雪、ちゃん?」
少女-雪が頷いた。日本語が分からない、というわけではないらしいが、声を発してくれない。綺麗すぎるし外国の人かな、でもそれでも声くらい―
「雪君」
よくとおる声に、市子がふり返ると、創本が歩いてやってきていた。雪は創本に気付き、彼の隣まで歩いていく。
「…あ、あれ。おまわりさん?」
「あれ、君は確か…」
こんにちは、と創本が笑うと、市子もこんにちは、と笑い返した。いつか遅くなってしまったときに、家の近くまで送ってくれた刑事さんだ。
「いつかはありがとうございました。おまわりさん、雪ちゃんのお父さん?」
「…っ、ああ、まあ…」
なんだ、比較的鈍い市子にも違和感が生じた。雪の表情は相変わらず、正に雪のように固く、創本の笑顔もぎこちない。2人の距離が近いのに、ものすごく遠くに感じる。
「手続きに俺がいるらしいんだ。一緒に行こう」
頷く雪は、何だろう、本当に表情に変化はないのだが、なんとなく、創本は信用しているように見えた。また創本もいい人、いい刑事だ。市子はそれ以上、2人を心の中でも詮索するのを止めた。
「すまないね、せっかく仲良くしてくれてたのに、取ってしまって」
「いえ、そんな」
「もう知ってるかもしれないが、雪く…雪、は、しゃべれないんだ。けど、耳は聞こえるし、言ってることも分かる。仲良くしてやってくれ」
「…分かりました」
創本と雪と別れ、市子は一人、両親の待つ桜の木の下を目指した。昔からおしゃべりが大好きな市子にとって、雪の境遇はあまりにも気の毒だった。絶対お友達になろう、市子は固く誓った。
ようやく手続きが終わった。肩が凝る学校だ。
「疲れたな。何か食べようか」
雪が入学資料を差し出して創本に見せる。寮の門限五時、創本は苦笑した。これでは夕食を一緒に食べることも出来ない。半日父親の真似ごとをしていたせいで、少し別れ辛いが、まさか連れて帰るわけにもいかない。おまけに彼女の魔法にかけられて、自分が犯罪者になる可能性も否定できない。
長男はあの調子だし、次男もずいぶん前から学校に通いだしたし、妻もようやく調子を戻してきた。あとは自分だ。刑事として、雪を一市民として、彼女の普通の幸せを守る義務がある。これは人造の鬼だ。生まれながらの鬼ではない。きっと、今度こそ大丈夫だ。大丈夫にしてみせる。
「この学校のことを調べたよ。徹底しているな。先生もみんな女だ。君に襲いかかるものはいないだろう。だが、外に出れば、当然君に惹かれる男ばかりになる。怖い目にも合う。外には絶対一人で出ないんだ。いいね」
雪が頷く。命令を聞いてくれる、こういう人間らしくないところは治してやりたいが、今は助かる。
「それと…出来れば友達を作りなさい。今日一緒にいた子、良さそうな子だったじゃないか。君は人間関係から始めるべきだ。どうやって満点取ったか分からないが、君は少なくても、まずそういう勉強をするべきだ」
そこまでしゃべると、雪が首を傾げた。友達、という単語がぴんとこないらしい。創本もその説明が難しい。職業柄か、女子高生の援助交際や麻薬摂取の悪い事件ばかりがよぎる。悪い奴とは付き合わないように、と言いたいところだが、その善悪が雪に見分けられるとは思いつかない。考えた挙句、あることを思いついた。
「先生のいうことはよく聞きなさい。いいね」
雪は頷いた。もうこれ以上は何も言うべきことを思いつかなかった。雪と別れ、創本は帰宅するべく車に乗り込んだ。その車を、雪がじっと見送り、見えなくなると、寮へと戻った。