三咲(後編)
バイトを始めて三カ月が経った。客が来なくて暇なのか、女子高生のバイトが話しにやってきた。
「ねえねえ、おじさま。女子高生と合コンしない?」
「は?」
何言ってんだ、このガキ。色目を使ってるつもりだろうか、派手な化粧、きつい香水、男には全く魅力が感じられない。雪の足元にも及ばない。
「みんなで焼き肉食べたいの。ね、いいでしょ?」
話が見えた、つまり女子高生たちが一緒に食べてやるから、おごれということだ。冗談ではない。雪以外の女に、一円だって使ってたまるか。
「そんなに金使えない」
「えー、だっておじさま、飲みの誘いも断ってるし、車だって持ってないじゃん。何に使ってるの」
「親が年金暮らしなんだよ。好きな子も養ってるんだ」
「ふーん。じゃあ、その子、今度、バイト先に連れてきてよ」
「はあ?」
「ね、いいでしょ。決まり決まり」
決まり決まりじゃないだろ、本当に話聞かないなー男が呆れながら、やっと来た客を迎えると、バイト先の少女も、ぶりぶり営業スマイルを浮かべていた。
全く最近の女子高生は何考えてるか分からない、今度の休みにダブルデートしようとか言い出した。まあ高校生のデートだ、飯食ってお茶飲んで終了。あまり金は使わない。すぐ帰れるだろうし、何より、雪と出かけられる。初めてのお出かけは2人きりだと緊張するもんな、と思っていたところだからちょうどいい。
「うん、よく似合う」
給料を少しずつ貯めて、やっと買えた雪のたくさんの服。その中でもとびきり似合う、可愛いのにした。手を繋いで玄関に行き、靴をはかせていると、母親がやってきた。
「あら、お出かけ?」
「うん。夕飯食べてくるから」
「そう。良かったわね、雪ちゃん」
満足げに笑う母親は雪の頬を撫でて上機嫌だ。いまだに母親や父親と普通に話すこういう空気に慣れない、男は雪の手を引いて逃げるように外に出た。
待ち合わせ先にいた馬鹿そうなバイト先の少女と、更に馬鹿そうな彼氏らしい少年。待ち合わせ場所にいた2人は、雪を見て絶句していた。男は、鼻で笑った。ざまあみろだ。
「雪です。ほら、挨拶して」
雪がぺこり、と会釈すると、まだ呆けている少女の隣で、少年が慌てて会釈していた。こんにちは、と、馬鹿みたいに元気に。いつまでも返事をしない雪を見て、少年少女が不思議そうな顔をしていた。
「ごめん、病気でしゃべれないんだ」
「そ、そうなんだ…耳は聞こえるの?」
「ああ、それは大丈夫」
「そう…い、行こう」
少女が慌てるように歩き出し、それについていく。隣の少年は雪に鼻の下を伸ばしっぱなしで、少女に思い切り蹴られていた。男はにやけるのを止めるのに必死になる。こんな快楽、初めてだ。
「雪ちゃん寒くない?何か嫌いなものない?今、ドラマ、何見てるの?ねえねえ」
少年は食事も恋人もそっちのけで、雪に質問攻めだった。雪は一つ一つ、頷いたり、首を横に振ったり、紙に書いて返事をしている。隣の少女は今にも泣きそうで、さすがの男もちょっと同情してきた。更に言えば、雪に興味津津の少年の存在が面白くなかった。
ふと、少女に目で合図され、トイレに立つ。私もトイレ、と少女もついてく。トイレに着く前に、少女の両目から涙がこぼれおち、ぼろっと大きなつけまつげが落ちた。
「私…帰る」
「いや、俺と雪が帰るよ」
少女はそのまま静かに泣きだし、何て声をかけていいか分からない男が雪と少年のいるテーブルに戻ると、目を疑った。少年が雪の手を握っていた。
「ねえ、はっきり言ってよ。あんな豚オヤジと恋人同士なんて嘘だよね。援交してるんでしょ?いくらもらってんだか知らないけど…俺のパパ、医者なんだ。小遣い結構もらってる。あいつからいくらもらってんの?俺、もっと多く出せるかっ」
が!!
コップを割るだけでよく我慢した、自分をほめたたえてやりたい。目の前の少年は泣きそうだ、さて、今、自分はどんな顔してるんだろう。
「雪の具合が悪そうだ。帰る」
楽しいのは最初だけだったな、男が大股でずんずん歩く。いくらか歩いていると、ショーウインドーに自分と雪の姿が映っていることに気付く。あの少年の言いたいことは分からないのではなかった。歳の差はどうしようもないが、体型の差も大概だ。
「雪、俺、痩せた方がいい?」
そう聞くと、雪は男を前から抱きしめた。大きく出た腹を中心に。男は笑って、雪を赤子のように高く抱いた。
「腹が気持ちいいから、いいってか?こいつ」
大笑いしながら、雪の手を引いて帰った。嫌な気持ちは忘れていた。
翌日、少女がバイトを止めたと店長から聞いた。男は「そうっすか」と返事をしただけで、すぐに仕事に戻った。
更に一カ月が経った。
「雪、こっちこっち」
休みの度に、男は雪と出かけた。2人は時折親子に間違われることもあったが、もうどうでもよかった。雪が自分を好きで、自分も雪が好きならもう何だって良かった。
町を歩くと、雪はよく目立った。声もかけられた。でも雪は自分しか好きじゃないから、すぐに自分のところに逃げてきた。それが最高に嬉しかった。
「いただきます」
「…いただきます」
最近、両親と食事する機会が増えた。前は母親が作った料理を自室に運んでいたのに、一緒に食べようと言って聞かないのだ。日中、雪の面倒を見ている借りもあるし、しぶしぶ男はその要求を飲んでいた。和やかで嬉しそうな両親、普通に会話するし、普通に話すのだが、未だにこの空気に慣れない。
「そうだ。ちょっと相談があるの。これなんだけど」
「何?」
男が身を乗り出して資料を見ると、宗教系の女子高等学校のパンフレットだった。寮もあり、ずいぶんとお嬢様高に見える。
「雪ちゃん…これに通ったらどうかなって」
「はあ?」
何言ってんだこのばばあ、機嫌が急変した男の向かいで、父がなだめるように両手を動かしながら話し始めた。
「雪ちゃん、ずっと家にいるだろう。お前がいない間は寂しそうだし、学校にも行かせた方がいいだろうと思ってな」
「そんな金ないだろ」
「調べたんだけどね…すごく成績がいい子は、入学金が免除されて…奨学金も出るんですって。先生も女の人ばかりだったし…どうかしら」
びくびく震えながら話す両親を見て、男は黙って、食事の手を止めた。ぎりぎりと歯ぎしりし、茶碗を投げかけたが、雪に当たるかもしれないと耐えて、大股で自室に引っ込んだ。ほっと息を吐いた母親は泣きそうだった。
「ごめんなさい、雪ちゃん。行ってあげて」
雪は頷いて、男の後を追った。
布団にもぐりこみ、男は考えていた。自分だって、雪がずっとこのままでいいと思っていたわけではない。自分の年のことも、雪の年のことも、親の年のことも考えて、学校に行かせるという選択肢は間違ってはない。ただ、自分の中でその選択肢を排除していただけだ。考えつきもしなかったのだ。自分にとって、あそこは呪われた場所だったから。
ノックが聞こえて、どうぞ、と返事すると、雪が入ってきた。手招きをして、いっぱいに抱きしめる。今でも、ときどき、耳の奥から笑い声が聞こえる。雪はこんなに可愛い上に、しゃべれない。きっといじめられる。今より人格崩壊したらどうなる。雪の未来をもっとうばってしまうんじゃないのか。でも、だからといって、ずっとこの家に閉じ込めておくことが、彼女の幸せか。それでは、犬や猫と変わらない。
「…雪…学校に行きたいか雪」
雪は自分のペットではない。雪がそうしたいなら叶えさせてあげたい。男が優しく問いかけると、雪は首を傾げた。学校というところの意味が分からないかもしれない。
先日、たまたまテレビを見ていたらニュースが流れて、事故死した芸能人は自分と年が変わらなかった。親ももう年だ。もし自分たちに何があったら、雪はどうなる。せめて、せめて、学歴があったら、少なくても、自分のようにはならないかもしれない。
男は雪を抱きしめて、そして、行かせようと誓った。
男が決意したことを両親に告げると、両親は喜び、さっそく資料をたくさん取り寄せた。生徒はもちろん教師にも男がいないという徹底ぶり、何より、制服が可愛いことが気に入った。家より少し遠いから、送り迎えは両親に頼めばいいし、自分がバイトない日は自分が行ける。男は勉強道具をさっそく買ってきて、雪に与えた。予想はしてたが、シャーペンの持ち方も芯の出し方も分からなかった。
こんなので、高校に上位入学なんて夢のまた夢だろうな、男は笑った。まあ、いい。急ぐものではない。とにかく、雪と勉強しよう。
「よし、雪。まずは算数からだ。これくらいだったら、俺にも分かるぞ」
雪は頷いて、男の膝の上に座った。
まだ男と算数をやっているレベルなのに、両親は早くも入学願書をもらってきた。気が早いにもほどがある。それでも、女子高生の雪を想像すると、それだけで、楽しかった。似たような制服を買ってきてさっそく雪に着せてみて、男も、両親も、最高にはしゃいでいた。
「雪、好きだよ、雪」
男が何度そう言っても好きと言わない。当然、男の名前も呼ばない。でも、もう何でもよかった。本当に、何でもよかったのだ。
「雪!!」
一緒にいるだけで、もう、どうでもよかったのだ。何もかも。
被害者家族の家を見上げ、刑事はため息をついて、両手を合わせた。彼の元に、若い刑事が走ってくる。
「被害者は夫婦と長男…親戚にずいぶん借金を借りていたようですが、最近は少しずつ返していたようです。両親は年金暮らしで、長男はフリーター。最近は特にトラブルはなかったようです」
「そうか」
「殺人犯、まだ学生でした。白衣の男が迎えに来ましたけど…医者ですかね。被害家族との接点は今のところ分かりません。ただの愉快犯かもしれません」
「どんな理由であれ…三人も…っ」
怒りが止まらない刑事の元に、他の刑事の驚く声が届いた。胸を刺されてほぼ即死した長男が服の中に隠すように抱いていたのは、人形ではなく、人間の少女だった。その美しさに皆が息をのみ、そして、現場最高責任者である刑事だけは、唖然としていた。
「君は」
間違いであってほしいが、間違いではない。こんな美しく恐ろしい生き物がそう何人もいてたまるか。ばらばらになった自分の家族、壊滅した寺、家族全員殺傷された家、その全てに、ただ、そこにいた、元奴隷の少女。
刑事が少女に駆け寄る。少女はただじっと、刑事を見ている。自分を覚えているのか、覚えていないのか、虚ろな目では何も分からない。
「また…また君か!君なのか!!」
刑事はたまらず怒鳴りつけたが、あいかわらず少女の目は虚ろだった。刑事はすぐに怒鳴るのを止め、少女に、すまん、と謝った。彼女が悪いわけではないのはよく分かっている。分かっているはずなのに。怒鳴ってしまった。
ふと、少女が何か探していることに気付いた。ようやく見つかった先には、もう動かなくなった長男がいた。少女は、もう冷たくなった長男をじっと見ている。
「君をずっとかばってくれていたんだよ」
そう教える。教えたところで少女は何も感じないだろう、と、思っていたら、少女の両目から滴るように涙が落ちてきた。刑事の両目にも涙が浮かびかけた。泣けるのか。泣けるように、なったのか。
「そうか…ようやく、居場所が出来そうだったのか」
刑事が少女の肩を叩く。少女はただ、両目から落ちる涙の正体が分からないようで、ただ、涙をぬぐうのに必死そうにしていた。
少女は警察署に連れていくことになり、若い男性刑事が少女に向かって紙を差し出す。
「名前、いいかな」
少女は紙に、殺傷された家族の名字と、雪という名前を書いた。