三咲(前編)
母親が何度もノックをするが返事はない。開けるわよ、と大きく声をかけて扉を開くと、夢中でヘッドフォンで音楽を聞いていた男が母に気付き、机上のペン入れを投げつけた。
「勝手に開けんなっつってんだろ、ばばあ」
「ごめんなさい。今日は新しい家族を紹介しようと思って」
そう紹介されて一歩前に出てきた少女を見て、男の顔つきは変わった。遠い親戚の子を一時的に預かることになったの、と、説明をするが、男の耳には届かない。母親に出ていくように叫び、言われた通り出ていくなり、男はすごい勢いで少女を押し倒した。母親の耳は、何も通さなかった。
息子はそれなりに優秀だった、と親馬鹿ながらもそう思う。本当はもっと子供が欲しかったがそれは叶わず、たった一人の子供を大事に大事に育てた。何が、誰が悪かったのか、気が付けば息子は学校でいじめられ、先生も友達も味方についてくれず、自室に引きこもり、たまに一階に降りてきては両親に暴力をふるった。
両親の留守の間に預金通帳を持ち出し、部屋から溢れるほどのゲームと美少女フィギュアを手に入れて、ようやく暴力を止めた。もう何だかそれだけで、息子はずいぶん厚生したと錯覚するほどであった。
毎日息子の部屋から聞こえる意味不明の奇声や怒声、両親の耳は全て通さず、定年退職した2人は、細々年金暮らしをしていた。息子を食わせていくのももう限界で、親戚中にお金を借りて、結果、誰にも連絡を取れなくなった。
そしてずいぶん久しぶりに親戚から電話があったかと思ったら、かなり遠い親戚、おまけに内容は、女の子を預かってほしいということだった。そんな余裕あるわけないと断りたかったが、聞けば、人間というよりは動物に近い子で、学校にも行かせなくていいし、食べ物も与えない限り食べないという。おまけにどうしても見ろと送られてきた少女の写真。それは息子が喜んで愛している美少女フィギュアより、よほど可愛かった。
少しでも息子の心の支えになってくれれば、人生が明るくなってくれれば、母は彼女を引き取った。実物は、写真よりずっと可愛かった。そして、息子も気にいってくれた。
「ご飯、置いておくわよ」
母が息子の部屋の前にいつものように食事を置いていく。扉の向こうでは、まだ男が少女を愛し続けていた。
朝か、男が重そうに体を起こす。ちょっと頑張りすぎた。
胸元に眠る少女の顔を撫で、男がにひっと笑う。これはすごい。何だかよく分からないが、とにかくすごい。最初はよく出来たダッチワイフかと思ったか、とんでもない、人間だ。なのに、いきなりこんな男に犯されて何も言わない。泣きもしない。叫びもしない。昨日はこんな美少女二度と会えない、もう警察に行っても最悪死刑になってもどうでもいい、そう思って彼女を犯したつもりだったのに、ただただ、少女はこちらの熱を受け入れた。
何だろう。とりあえず、顔は可愛い。冗談みたいに可愛い。人形みたいだ。でも後は痩せすぎてて、当然胸も、尻もない。なのに、どうしようもなく欲しくなる。体中から命令されるみたいだ。これを抱けと。触れと。
まあ、何でもいいや。さすがに最後までやる元気はないが、男はまた少女を触り始めた。少女は途中から目を覚ましたようだったが、やっぱり何も言わず、ただただ受け入れた。
さすがに空腹が酷かった。朝からもりもり食べていると、ふと、食事の量が多いことに気付く。少女の分だろう。そうだ、さすがに何か食べさせないとまずいだろう。男が少女にスプーンを渡すと、彼女は落としてしまった。思わず笑った。
「持てないのか」
直接手で食べさせ始める、何だろう、上手く言えないが、手の周りがなんとなく暖かった。
三日が経った。少女はずっと同じ服を着ている。当たり前だ、着替えなんてないのだから。自分の服を着せようにもサイズが合わな過ぎる、男は母親に少女の服を寄越すようにメールをした。なかなか返事がない。男は苛立ち、大股で一階に向かった。息子のひさしぶりの登場に、料理に夢中だった母親は驚いた。
「ど、どうしたの」
「携帯見ろよ」
「あら、ごめんなさい…最近、メールなんて来なかったものだから」
母親が慌てて携帯を見る、本当に久しぶりのようで動作がおぼつかない。ん、と、息子は母親を見た。そういえば、どうして昼間から家にいるんだろう。携帯をしばらく使ってないんだろう。
「もう、いい。金。通販で服を買う」
「ご…ごめんなさい。まだ今月、年金が入ってないの」
「年金?」
男が耳を疑った。目の前の母は、自分が知っている母よりずいぶん歳をとっていた。ふと、自分が台所の鏡に映る。誰だ、『これ』は。
「…俺…何年経って…」
「………え?」
「…何だよ、その目」
苛立った男が近くにあったものを母親に投げつけ始める。母親は悲鳴を上げながら身を守った。また、いつかの息子に戻ってしまった。
「俺が!俺が駄目だって目!!」
「ごめんなさい!ごめんなさいごめんなさい!!」
「五月蠅い!うるさっ」
どんどんものを投げていると、いつの間にかそこに立っていた少女の顔に思い切り当たった。だらり、と首まで血が流れた。母親が違う種類の悲鳴を上げ、うつろな少女に見られ、パニックになった男は、またものを投げた。
「お前まで!お前まで僕を馬鹿にするのか!お前まで!」
「止めて!ねえ、ほんとに止めて!!」
自分や父親ならまだ目が慣れているが、こんなに小さくて細い女の子を傷つけているのを見ると、息子が本当に悪い子のように見えてしまう。母親が泣き叫び、男が半狂乱にものを投げ続ける中、少女は座り込み、そして、土下座した。
「…っ、何、してんだ…お前、何してんだよ…」
どうして、どうしてこの状況で謝るんだ。文句も言わないで。震えた男は奇声を上げながら部屋に逃げ帰った。扉が閉まるのを確認すると、母親は少女を抱きしめた。
「ごめんなさい…ごめんなさい。こんな怪我。女の子なのに」
少女は口も開かない。ただ、虚ろな目を母親に向けているだけ。
「…ああ、そうだった。しゃべれないんだったわ。ねえ、お願い。息子を愛してあげて。息子の傍にいてあげて。お願いよ」
少女は小さく、頷いた。
「くそ!くそくそくそくそ!!」
男がパソコンが壊れてしまうような勢いでキーボードを叩き始める。通販会社で全く買い物ができない。カード残額エラー、年金暮らしは本当のようだ。
「くそお!!」
部屋中のものをひっくり返しても、男の怒りと震えは止まらない。こんな部屋で何年も、何年も―ぞく、と背中が冷たくなる。学校にいた頃の記憶がよみがえる。もう何年も会ってない、顔も覚えてない学校の生徒たち、笑い声だけは鮮明に覚えている。笑われて、馬鹿にされて指差されて―きっと今も―
気配を感じて、怯えながら男がふり返る。そこに立っていたのは、少女だった。
「お前、何、やってんだよ!何やってんだよ!笑いに来たのか!?」
少女は何も応えず、ただ男を抱きしめた。瞬間、男は発狂したように暴れた。
「離せ!同情なんているか!殺してやる!殺してやる!!」
男は少女を押し倒し、細く白い首を絞め始めた。少女は抵抗もせず、苦しみもせず、ただ虚ろに男を見ていた。そしてそのうち、少女の顔に涙が落ちる。男のものだった。
「…っ…お前…痛がることもできないのか」
自分より可愛そうな生き物が目の前にいる。男は安心した。酷く。いつまでもいつまでも泣きながら、少女を抱きしめた。
翌日、母親がバザーで少女の為に服を買ってきた。自分の服を着せるよりはマシだが、全く可愛くない。せっかくこんな可愛い顔をしているのに。もっと可愛い服を着せたいし、セーラー服やナース服だって着せたい。
男は部屋を見渡した。もう飽きてしまったフィギュアやゲーム、これを売れば少しは金になるかもしれない。さすがに両親に売りに行けとは言う気にはなれず、男はいらないものを段ボールに詰め、一階へ降りた。両親はいない。
震えながら玄関を開ける。家の中に置いておくのは心配だから少女も一緒だった。太陽と人の視線が痛い。男は今すぐ逃げ出したい気持ちを必死で抑え、一歩、また一歩、と歩いた。まだまだ視線が痛い。そんなに俺が珍しいか、可笑しいか―ぎりぎり歯ぎしりしながら、震えながら男が歩いていくが、ふとあることに気付いた。道行く人の視線にあるのは少女だった。皆がふり返り、美しい少女を見ている。自分など、誰も見ていなかった。男は吹き出すように笑って、先ほどより、少し早く歩きだした。
使用済みのフィギュア、説明書とパッケージがボロボロのゲームを売ったところで二束三文、少女にアクセサリーの一つも買うことは出来なかった。せめて、手を繋いで歩いた。もう外は怖くないが、男は少女に何か買ってやりたくて仕方がなかった。親の金ではなく、自分の金で。それはもうとっくに男が忘れかけていた、好きな女の子の為に格好つけたいという感情だった。
いくらか歩いていると、コンビニの前を通る。アイスでも買ってやろうかと思うと、思わず隠れた。自分と同じ年頃の男がスーツを着て、出てきた。立派な時計をしていた。
戻りたい、やり直したい、ああなってればよかった、とは思わない。思えない。自分はそういう性格なのだ。いっそ万引きや強盗をしてやろうかと思わないでもなかったが、少女と一緒のため、実行までいたらなかった。
家の近くのコンビニまで歩いていくと、アルバイト募集のチラシがあった。時給を見て、眩みそうになる。少女に服を買ってやるまで、何時間働けばいいのだ。そもそも自分に働けるのか。
止めた。馬鹿らしい。働いたら負けだ。男はコンビニに入り、少女にどれがいいか聞いた。少女はいちごのアイスを指差した。可愛い、自分はその同じメーカーのバニラを取り、あと、少女が好きそうな飲み物やジュースをいくらか籠に入れて、レジに並んだ。そして、会計が終り、すっと血の気が引いた。13円足りない。男はそっと自分の買う予定だったアイスをどけ、これはいい、と断り、会計を済ませた。
せっかくいい気分だったのに、気分が最低まで叩きつけられた。もう全財産が終わった。あれだけ売ったのに。
それでも、アイスを無心に食べている少女を見ていたら、いくらか気分が晴れた。美味いか、と聞くと、少女は頷いた。可愛い、本当に可愛い。
いつまでもそうして見ていると、母親が帰ってきた。
「あら…外に出たの。買い物してきたの」
母親は嬉しそうだったが、なんだか、妙に焦って、買い物の量に驚いている。何を疑っているのかすぐに男にはピンと来た。
「盗んだと思ったのか」
「そ、そんなことは」
「嘘つけ!!」
悲鳴を上げる母親にペットボトルを投げつけ、すぐに止めた。母親を苛めても一円にもならない。今日はあまり暴れなかった、母親はごめんなさい、と頭を下げると、逃げるように台所へ引っ込んだ。
少女がアイスを食べ終わる。こころなしか、何だか物足りなさそうだ。明日も買ってやりたい。服だって買ってやりたい。デートだって行きたい。色んなところに連れていきたい。何はなくても、金がなさすぎる。
「くそ!!」
男はペットボトルを壁に投げつけ、再び外に出た。今度は、一人で。
数日後、男が着替えて靴を履いている様子を母親が見つけた。怯えながらも、声をかけた。
「出かけるの?」
「バイト」
「………っ、え?」
「こいつ、家から出すなよ」
扉を叩きつけるように息子が出ていき、母親は泣き喜びながら、少女を抱きしめた。少女はただ、虚ろに男が出ていった扉を見ていた。
やっぱり働くんじゃなかった、男はため息が止まらなかった。毎日、誰か殺してやりたくなる。コンビニ前でいつまでもたむろしているガキ、立ち読み止めない女、さんざんうろうろして何も買わないおばさん、人のレジミスでいつまでもいつまでもチクチクチク
チク怒る上司(しかも年下)。
それでも、耐えれば給料はもらえる。男は全部使おうと意気込んだが、ふ、と、踏みとどまって、給料の半分を封筒に入れて、台所に置いて部屋に逃げた。少女の食事代だ。
台所から両親の喜び泣く声が聞こえる。やっぱりやるんじゃなかった。顔が熱出したみたいに熱い。布団に籠った男の元に、少女が入ってくる。男は笑って少女を抱きしめた。
「なあ、お前、名前、何ていうの」
「?」
「そうだ、しゃべれないんだよな…何て呼ばれてたんだ?」
ほら、と、紙を渡すと、少女は13、と書いた。男は首を傾げた。
「13?」
少女が頷く。本当に、こう呼ばれていたようだ。奴隷なんて考えつかない男は、元囚人という方に納得した。何をしたか分からないし、どうでもいいが、しゃべれないし表情も感情もあまり動かないことから、よほどのことがあったのだろうと男は感じた。給料をもらった男は、もう少女の為なら、何だって出来る気でいた。この子は自分が守ろう。自分が彼女の王子様だ。
「よし、お前に名前をやろう。何がいいかな」
男は少女をじーっと見る。萌え系の名前がいくつも脳内をよぎるが、どれもぱっとしない。それに少女と出会ってから、二次元への興味はこれでもかとなくなった。
雪のように白い肌、あ、と男はおもいついた。
「雪」
あまりに安直すぎるかと思ったが、少女は顔を上げた。
「雪。雪」
何度も呼ぶと自分だと認識したようで、少女が頷いた。男は笑いながら、雪と名付けた少女を優しく押し倒した。