第七話 紅葉の成長
あくる朝。
大勢の精霊たちに見送られて山の上の秘湯を後にした安里、紅葉、飛飛の三人は、どこへいくあてもなく山を下っては上ってを繰り返していた。
精霊である飛飛と紅葉は、歩く必要がなくふわふわと飛んでいけるので、実質歩きつかれる羽目にはるのは安里だけだ。だから安里はなるべく自分の足と体力に負担にならない道を選びつつ、ふらふらと山の中を彷徨う。
「ねぇ、アンリ、気づいた?」
足元を注意深く見ながら慎重に歩いていた安里の耳元に、飛飛がそっと唇を寄せて囁いた。安里が顔をそちらに向けると、飛飛の視線は前方を元気よく歩く紅葉に向いていた。飛べるはずの紅葉であったが、歩くのが好きらしい。拾った木の細枝を手に、両脇の草を払いながら歩いている。外見は成長しても、中身の成長はまだのようだ。
「ああ、変わっているな」
そう言って安里は自分たちの歩いてきた後方を振り返った。両脇の木々だけが、薄っすらとその葉の色を変えていた。空から見ればおそらく緑の木々の中に一本の赤と黄色の筋ができていることだろう。
「うん、それもそうなんだけどね、紅葉の力、増してきてる」
「そうなのか?」
飛飛はその大きな金の瞳を細めるようにして紅葉を見た。紅葉は茂みの中に何かを発見したらしく、手を突っ込んでごそごそしている。安里には力の変化は読み取れていなかった。
「ちょっとずつちょっとずつ、なんだけど、ね。それにしたってものすごいスピードよ。普通精霊が一年くらいかかってようやく成長するくらいの力を、あの子は数刻で増やしていってる。……末恐ろしいわぁ」
飛飛は少し遠い目で紅葉を見た。安里は小さく嘆息を付いて、そして気を取り直したかのように歩き出した。前方で紅葉は、何かを掴みそこなったのか、力の反動で後ろに転がってきょとんとしている。
「……まぁ、どうなろうと私たちには推測など本来できない領域での問題なんだ。なるようになる」
そう呟いた安里に、隣でふよふよ浮いた飛飛は目を瞬かせて首を傾げた。
「またえらく大人びた発言だねぇ。……そういえばアンリ、あんた今のところ何歳なの? 見た目は十五くらい? でもそれって不老になった時の姿なんだよねぇ?」
不思議そうに訊ねてきた飛飛に、安里は足を止めずに返した。見た目の影響は大きく、安里は人に会えば子ども扱いされていつもこそばゆい思いをしていたから慣れっこだ。
「……今年で二十八だ」
「!!!!!」
その安里の実年齢に飛飛は意外な驚きを見せた。その尋常じゃない驚きっぷりに、安里は今度は足をとめて、じとっと飛飛を見上げた。
「……何か文句でもあるのか、飛飛」
安里の気配に不穏な動きを感じ取った飛飛は、誤魔化すように手を振った。そこは年の功、あしらいはうまい。
「いやぁ、そんな、文句なんて。ただね、アンリの物言い聞いてたら、ひょっとしてもう百とか超えてるのかなぁなんて思ったから……。怒んないでね?」
小首を傾げて可愛らしく飛飛が言うのに反論する気も失せた安里は、再び足を前に踏み出した。
「わ、アンリ、あのねっ! 百は言い過ぎたわ、ごめん! でもそっか、二十八か、うんうん、そんな感じだ、うん」
必死に取り繕うとする飛飛を無視し、安里は転がったままの紅葉に声を掛けた。
「……紅葉、何をしているんだ? ん? 何を持って……」
紅葉の手元を見て言いかけた言葉を安里は噤んだ。瞬きをして見つめても、その細く滑らかな手に握られているものは、まごうことない、蛇だった。
「うわっ! 紅葉! それは毒蛇だぞ!! 向こうへ放り投げろ!」
慌てた安里がそう叫ぶも、紅葉は地面に転がったままにこにこしているだけだ。その期待に満ちた視線から察するに、どうやら飼おうとしているらしい。
まさか毒蛇を飼う訳にもいかない安里は、飛飛を呼んだ。
「……飛飛、すまないが、頼むよ」
「ほいきた」
軽快な返事と共に飛飛は小さな風を起こして、紅葉の手の中の蛇を掬い上げてどこか遠くの方へ吹き飛ばしてしまった。
握っていたはずの蛇がいつのまにかいなくなってしまった紅葉は、両手をにぎにぎさせていたが、少しすると何事もなかったように起き上がって、再び細枝を手にして元気に歩き出した。
その様子を無言で見ていた安里はもう何度目かになるため息を落とした。
実はこのやり取り、朝温泉を出発してからなんと五度目になる。紅葉が動物を見つけ、安里が離せと言い、手放さない紅葉に焦れて結局飛飛が吹き飛ばす、という暗黙の構図が出来上がってしまうほどに。
「何がしたいのかねぇ、紅葉は」
呆れた声で飛飛が呟くのに、安里は深く頷いて同意した。全く何を考えているのか分からない。流暢に話せるようになったのに口数の少ない紅葉は、未だ小さな子供のように振舞う。いつになったら外見と同じくらいに成長するのかと思っていたが、それは先のことになりそうだ。
安里は無意識にまたため息をついて、先で自分達をじっと待っている紅葉に近づいていった。
「あんり、ご飯の支度、できたよ」
そういって紅葉が差し出してきたのは、きのこのたっぷり入った汁物だった。安里があんぐりと声も出せずに口を開けていると、首を傾げて不思議そうに聞いてきた。
「どうしたの? あんり。きのこ嫌い?」
はっと気を取り直した安里は、何か言わなくてはと紅葉に向き直る。
「いや、嫌いじゃない。むしろ好きだが……。紅葉、これは一体どうしたんだ? 料理なんてお前……」
訝しげに聞いた安里に紅葉はにっこり笑って何の気なしに言った。
「うん? きのこはね、そこに生えてたから! 汁物はそうした方が人間は食べやすいってふぇいふぇいが言うからね、一緒に作ったの」
そう言って紅葉が振り返ったその先で、飛飛が焚き木の後を消すように風を巻き上げていた。
「おーい、紅葉、火を使ったらちゃんと後始末しないとダメなんだぞー?」
などといいながら、飛飛が近づいてきて、驚いたままの安里の顔を見て笑った。
「ははは、安里。驚きすぎて声も出ないのかい? 無理はないと思うけどね」
「だって、何だ、いきなり、こんなっ……」
「あんり、早く食べてよ! きっとおいしいよ」
言いたい事を言えずに口をぱくぱくさせてしまった安里に、紅葉が追い討ちをかけるように笑顔を向けてきた。うう、とか唸りながら匙を手にした安里を見て、半刻前の自分と重ねて飛飛は内心で苦笑した。
お椀に入った汁を差し出してきた紅葉に安里が驚くのも無理はない。時間はあれからまだ三日しかたっていないのだ。たった三日の間に、紅葉は幼児から少女へとその精神を成長させていた。
木の枝を振り回して歩いていたのは一日目だけ、翌日からは思慮深く安里の後をゆっくり歩くようになり、動物を捕まえて来ることもなくなった。二日目の朝には十五、六歳だった外見も二十歳くらいまでに成長し、寝ぼけ眼の安里は「どちらさまですか」と素で尋ねていたほどだ。
そして今は三日目の夜。
昼間の間にも成長を見せ付けた紅葉は、すっかり口数も増え、いろいろなことを安里や飛飛に尋ねては考え込むようになっていた。二十歳くらいの外見年齢にはまだ追いついていない様子ではあるが、分別を身につけた素直な少女になった。
山の中にぽっかりと空いた空間を見つけ、野宿をするべく準備を始めた安里の後ろで、何かに気が付いた紅葉が地面にしゃがみこんだ。紅葉が手にしていたのは立派に育ったきのこで、「これは安里が食べられるのか?」と聞かれた飛飛は、「食べられるがそのままじゃなくて、汁物とかにした方が人間は食べやすいだろう」という意見を口にした。
その流れできのこ汁の作り方も教えることになった飛飛が、火の起こし方から、木をくり抜いての器や匙の作り方などを実演して見せたのだった。そんなこんなで完成したきのこ汁を前に、今安里は驚きに固まっているという次第であり。
「ふふ、紅葉に食事を作ってもらうなんてねぇ。三日前だったら想像もできなかったよ、本当に」
楽しそうに笑う飛飛を横目に、恐る恐るきのこを口にした安里は目を瞬かせて呟いた。
「……おいしい」
ぽつりと呟かれた言葉に、紅葉は目を煌めかせて喜んだ。
「あんり、本当に? よかった、まだあるからもっとたくさん食べてね!」
にこにこと笑うすっかり大人の容姿になった紅葉を見て安里は複雑な気分で見上げた。
最初は妹のように思っていたのに、今は自分が妹のようで、なんだか落ち着かない。成長しない自分をとうの昔に安里は諦めているが、こんなに急激に体も心も成長していくのを見ているのは、少し切なかった。
飛飛は安里の心の内を察し、黙って二人の成り行きを見守っていた。そんな静かな夜が今日もまた更けていくのかと思っていたのだが。
「ああ、妹よ、良かった」
唐突にその場に現れた第三者によって、沈黙は破られ安寧な夜はどこかへ消え去ってしまう。
「……お兄様」
山の麓から吹き上げてきた風に、木々が揺れ、葉はざわめく。
赤や黄色の葉が幻想的に舞い上がるのをどこか遠くの景色のように飛飛はぼんやりと眺め、安里は圧倒的な力を持った目の前の青年に、油断なく静かな視線を遣った。